夫婦関係
全然 私は女っぽくないですよ
投稿日時: 2007-11-16 13:20
1ヶ月の間 電話をしたり、会ったり
デンマンさんの生活におじゃましたので
恐縮していますが、楽しかったです。
さらにブログにまで登場させてもらえて うれしいです。
レンゲさんも、ずーっと長い間サイトの中で
生き続けていて、楽しそうですね。
レンゲさんと共存共栄したいですよ。
by 小百合
小百合さんにそう言ってもらって僕もメチャうれしいですよ。
\(^_^)/ キャハハハ。。。
今年5月 ぐらいからです。 こんな忙しくなったのわ。
その前は 父も母も自分で歩けて、洗濯したり、ゴミだししたり、
不自由なく元気でした。
土、日は 東京や横浜、軽井沢が好きで 子供を連れていくので車で移動してました。
その道中をいつも気をつけろ!と父は ハラハラ心配して電話をくれました。
冬にスキーにいくと言えば雪道を心配して、両親は寒いからと。。。
毎年の夏休み Vancouverの飛行機を心配して、
私からの電話をどれだけ首をながくして待ってたか。
BC Tel で電話番号をもらうと いつも違う番号で。。。
それをメモして 長い番号にもかかわらず
日本から電話を良くくれて 私達を心配してくれました。
でも両親をVancouverへ1度も連れて行かず、 絵はがきだけでした。
うん、うん、うん。。。そうですか。。。
家族和気藹々(わきあいあい)で楽しい雰囲気が感じられますよ。
良いおとうさんだったのでしょうね。
お父さんが亡くなって、お母さんも力(ちから)を落としたでしょう。
今まで、自分のことだけ でした。
普段は?というと、主人とは別世帯で 私は山に住んでました。
熊がでると心配され でも私は怖くなかった、
もう10年ちかく鉄砲をもってます(射撃の散弾銃です)
山の人は知っていて 私に言い寄ってきません。
小百合さんが静かな山のたたずまいを愛しているとは
ちょっとばかり意外でしたが、
平安時代に生まれ育った事になっている“卑弥子”さんの“奥ゆかしさ”に通ずるのかもしれませんね。
\(^Д^)/ギャハハハハ。。。。
小百合さんは魅力的な女性だと思います。
言い寄りたい人は居たと思いますよ。
(*´ー`) フッ
父が 1年半ぐらい前に 肺がん といわれ、なるべく
近い 佐野に移ったのです。
本当は 人の面倒も旦那の面倒も みない私なんですよ。
強いというか勝手な人です。
お互いに自由を尊重しあっているんでしょうね。
僕の知り合いやお客さんの中には結婚していてもお互いの自由を尊重しあっている人たちが多いですよ。
でも、気ままに不倫して、いい加減な人は居ないですね。
やはり家族を大切にしている人がほとんどです。
家族を大切にしない人は人間失格だと僕は信じていますよ。
主人とは15才違うので、どこ行ってもいいけど
子供と一緒に行くのが条件です。
一度だけ電話に出た旦那の声を聞きましたが、
声の印象では優しそうな穏やかな人だと言う感じを持ちました。
小百合さんは可愛がられているんだなあああぁ~。。。
そう思いましたよ!
\(@_@)/
ご飯も私が とぐとまずいらしいのです。
泡たて機でかきまわすだけですので。。。
それで、ご飯を炊く事は余りありません。
味噌汁は朝のまないので主人が作って子供にだします。
全然 私は女っぽくないのですよ。
デンマンさんは私を少し美化していますわ。
念のため。。。
by 小百合
(*^ー^);
たまには 絵文字
そうですか?
料理は自慢しないのですね?
しかし、料理、洗濯は女性の必須条件ではなくなりましたよね。
むしろ、料理、洗濯に開放されて、
真の意味で女性も人間になれる時代になったと言うことでしょうね。
小百合さんが自由に活き活きと、すがすがしく生きている。
僕はそんな印象を持ちました。
人間の精神はいつも自由であるべきですよね。
もちろん、家族を大切にすると言う責任を持ちながら。。。
自由な精神を抱いて、
心を解放して大きく世界に羽ばたいて生きてゆきたいものです。
人間は一度だけしか生きられないのですから。。。
小百合さんが自由で、ますます魅力的な女性になってゆく事を信じて疑いませんよ。
では、また。。。
by デンマン
♪(*^▽^*)ノ
『21世紀の小百合さん (2007年11月20日)』より
デンマンさん。。。また小百合さんの、このメールでござ~♪~ますかぁ~
上の引用の中に卑弥子さんも顔を出しているでしょう。。。うしししし。。。だから、もう一度出してみたのですよう。
デンマンさんが勝手に、あたくしの顔写真を貼り付けただけでござ~♪~ますわぁ。
でも、卑弥子さんだって小百合さんが魅力的な女性だと思うでしょう?
あたくしは小百合さんと個人的にお会いした事がないのでござ~♪~ますわ。デンマンさんを通して間接的に知っているだけでござ~♪~ます。
だから、逆に、小百合さんという女性を客観的に見ることができるのですよう。
それは違うと思いますわ。デンマンさんは小百合さんを魅力的な女性としてブログに登場させているのですわぁ。だから、デンマンさんのお話の中の小百合さんは、どうしても魅力的な女性に見えてくるのです。
それで、卑弥子さんはヤキモチを焼いて、いろいろと小百合さんのアラ捜しをするのですね?
あたくしが。。。この、あたくしが小百合さんのアラ探しをしたとおっしゃるのでござ~♪~ますか?
そうですよう。味噌汁を作らない女はダメな女だと、卑弥子さんは次の記事の中で小百合さんのことをボロクソに、こき下ろしていましたよう。
■ 『女と味噌汁 (2008年7月29日)』
だってぇ、やっぱり、味噌汁を作るのは嫁に行った女の務(つと)めだと思いますわ。
だから、それは卑弥子さんの個人的な考え方で、最近の若い夫婦は、家事も育児も分担してやっていると。。。そういうカップルも居るのですよう。そのようなカップルの間では夫も味噌汁を作るのですよう。
でも、小百合さんは、全く味噌汁を作らないのでござ~♪~ますわ。
それには理由があると僕は思っているのですよう。
どのような理由でござ~♪~ますか?
ちょっと次の文章を読んでください。
「どんな人のところへ行こうと、嫁に行けば、女は夫のために邪(よこしま)になるのだ。
そういう僕がすでに僕の妻をどのくらい悪くしたか分からない。
自分が悪くした妻から、幸福を求めるのは押しが強すぎるじゃないか。
幸福は嫁に行って天真(てんしん)を損われた女からは要求できるものじゃないよ」
(『行人』<塵労>五十一)
この言葉は、事実上『行人』一巻を閉じる役目を果たしているが、これこそ漱石の会得した新しい認識を示すものであると私は思う。なぜならばこの言葉は、一郎があれほど意識的に求めた「絶対」の境地などという観念的世界のものではなく、行動の世界のものだからである。ここには、浮薄(ふはく)さを切り捨てた、きびしい愛情がにじみ出ている。
一郎は初めて行動を発見し、予感していると私には思える。いうならば、この方向だけが、彼に「絶対」を把握させるものであろう。なぜならば、行動は行動者から自意識を否応なしに剥奪するからであり、彼を一個の、実在する無に化するからである。そしてそのことは、彼がなす行動が常に絶対的なものであることを意味するからである。(151ページ)
一郎はお直から逃れることではなく、お直の内部にまで進み入ることによってのみ、彼が観念的に希求した絶対的存在の彼自身の中での生動(せいどう)を感じえたであろう。彼らは実際、互いに愛しうるし、互いに互いの仕方で相手を精一杯愛しているのである。それを妨げているのは、奇妙なくらい、愛している女に対して臆病な一郎の態度だったのだ。それは彼の場合、自分自身に対して臆病であることにほかならなかった。彼は自分に対して消してメスをふるいはしなかったからだ。それゆえ、右に引いた一郎の言葉は、彼にとってまったく新しいものだったのである。
そして同時に、漱石の新しい出発を予感させるものでもあったのである。(152ページ)
『拝啓 漱石先生』 著者: 大岡信(おおおか まこと) 出版社: 株式会社世界文化社
1999年2月10日 初版第一刷発行 ISBN: 4-418-99503-X
夏目漱石は『行人』の中で次のように書いているのですよう。
嫁に行けば、女は夫のために邪(よこしま)になるのだ。
そういう僕がすでに僕の妻を
どのくらい悪くしたか分からない。
嫁に行くと、女が夫のために邪になる、とはどう言う事でござ~♪~ますか?
これはねぇ、何も嫁に言ったら女が悪くなると言うことじゃないのですよう。
だから、どう言う事なのでござ~♪~ますか?
逆に妻の立場から見れば、次のように言えるのですよう。
夫は私のことを期待はずれだと言うけれど、
私の目から見たって
夫は男として期待はずれなのよう。
こう言う事なのですよう。結婚してしばらくすると、夫婦の間で必ずこのような期待はずれの部分が見えてくるものですよう。
デンマンさんもそうでしたか?
もちろんですよう。
漱石は、そのような事をかなり辛らつな言葉で言ってみただけなのでござ~♪~ますか?
そうですよ。漱石の見方は厳しいのですよう。僕が彼の作品を読んで感じるのは、漱石と言う人は他の人にも厳しかったけれど、自分を見る目も厳しかったと思いますよう。だから、イギリスに2年間ほど文部省の命令で留学したときに、ノイローゼになってしまったのですよう。
つまり、夏目漱石と言う人は完璧を望むようなタイプの人間なのでござ~♪~ましょうか?
そういう所があると思いますよう。だから、鏡子夫人に対しても厳しい目で見ていたのですよう。夫人は、しばしば悪妻だと言われているけれど、僕は決して悪妻だとは思いませんね。学歴はないけれど、むしろ頭の良い女性だと思いますよう。
デンマンさんは、どうしてそのような事をおっしゃるのですか?
次の部分を読んでみてください。
筋道の通った頭を持っていない彼女には存外新しい点があった。
彼女は形式的な昔風の倫理観に囚(とら)われるほど厳重な家庭に人とならなかった。
政治家をもって任じていた彼女の父は、教育に関してほとんど無定見であった。
母はまた普通の女のようにやかましく子供を育て上げる性質(たち)ではなかった。
彼女は宅(うち)にいて比較的自由な空気を呼吸した。
そうして学校は小学校を卒業しただけであった。
彼女は考えなかった。けれども考えた結果を野性的に能(よ)く感じていた。
「単に夫と言う名前が付いているからと言うだけの意味で、その人を尊敬しなくてはならないと強(し)いられても自分にはできない。
もし尊敬を受けたければ、受けられるだけの実質を持った人間になって自分の前に出てくるがいい。
夫と言う肩書きなどは無くてもかまわないから」
不思議にも学問をした健三の方はこの点において却(かえ)って旧式であった。
自分は自分のために生きてゆかなければならないという主義を実現したがりながら、夫のためにのみ存在する妻を最初から仮定してはばからなかった。
「あらゆる意味から見て、妻は夫に従属すべきものだ」
二人が衝突する大根(おおね)はここにあった。
夫と独立した自己の存在を主張しようとする細君を見ると健三はすぐに不快を感じた。
ややともすると、「女のくせに」という気になった。
それが一段激しくなると、たちまち「何を生意気な」という言葉に変化した。
細君の腹には「いくら女だって」という挨拶がいつでも貯えてあった。
「いくら女だって、そう踏みつけられて堪るものか」
健三は時として細君の顔に出るこれだけの表情を明らかに読んだ。
「女だから馬鹿にするのではない。馬鹿だから馬鹿にするのだ、尊敬されたければ尊敬されるだけの人格をこしらえるがいい」
健三の論理(ロジック)はいつの間にか、細君が彼に向かって投げる論理(ロジック)と同じものになってしまった。
彼らは、かくして円い輪の上をぐるぐる廻って歩いた。
そうして、いくら疲れても気が付かなかった。
(夏目漱石 『道草』 七十一)
【デンマンが読み易いように改行を加え現代かな遣いに書き改めました。】
この部分などは、鏡子夫人の経歴を調べ、家庭環境を調べ、漱石の経歴を調べれば、漱石が自分と鏡子夫人のことについて書いたことがすぐに分かりますよう。
それで、デンマンさんは、この部分を持ち出してきて何がおっしゃりたいのでござ~♪~ますか?