愛憎と極楽浄土


デンマンさん。。。今日は抹香(まっこう)臭いお話をするのでござ~♪~ますか?

平安文学、とりわけ源氏物語を研究している卑弥子さんならば、絶対に興味がある話題だと思ったのだけれど。。。、卑弥子さんは極楽浄土に関心がないのですか?
もちろん、平安文学研究者の端(はし)くれとして極楽浄土の事も、お勉強いたしましたわ。。。でも、あたくし自身は極楽浄土があるとは信じておりませんの。。。おほほほほ。。。
卑弥子さんは死後の世界があると。。。信じないのですか?
信じることができませんわ。デンマンさんは死後の世界があると信じているのでござ~♪~ますか?
もちろん、僕だって信じていませんよう。うへへへへ。。。
だったら。。。、だったら。。。、どうして極楽浄土を持ち出してきたのでござ~♪~ますか?
■ 『愛憎と苔寺 (2008年10月7日)』
おとといの記事の中に登場した祗王(21歳)、妹の祗女(19歳)、それに母親の刀自(とじ)45歳は、マジで極楽浄土を信じていたのですよう。
つまり、死後の世界があることを真面目に信じていたのですわね?
もちろんですよう。この世の無常を実感しながら極楽浄土で幸せを見つけようと祗王寺(ぎおうじ)に移り住んで念仏三昧(ざんまい)の暮らしに入ったのです。
そこへ尼になった仏御前(ほとけごぜん)が訪ねたのですわね。
そうですよう。それからは、祗王一家と仏御前は、余念無く仏道に励み、みな極楽浄土へ行った、と伝えられているのですよう。
本当にマジで極楽浄土があると信じていたのでござ~♪~ましょうか?
当時の世の中は、つらい事や苦しい事ばかりが多かったので、極楽浄土でも信じない限り、生き甲斐がなかったのでしょうね。その事は貴族でも百姓でも変わりがなかったようですよう。
どうしてそのような事がデンマンさんには分かるのですか?
この記事のトップに貼り付けた写真の平等院鳳凰堂ね。。。
10円玉に付いている絵の中のお寺ですわね?
卑弥子さんは良く知っていますねぇ~?
あたくし、デンマンさんが書いた次の記事を読んでいましたから。。。
平安時代は決して平安ではなかった

黒澤明監督の、『羅生門』という映画を見たことがあるでしょうか?
原作は芥川龍之介の短編小説「藪の中」です。
戦禍に荒れ果て、疫病が流行し、天災が続いた平安時代の話しです。
先ず画面に現れるのは、激しい夕立の中、壊れかけた羅生門の下で杣売りと旅法師が雨宿りをしながら考え込んでいます。
羅生門というのは、都の正門ですから、完成したときの姿は上の写真に見るような豪華なものだったはずです。
しかし、今、言ったように「平安」時代でありながら、現実は庶民にとって、ずいぶんときびしい時代だったようです。
というのは、映画の中では羅生門が下に示すような無残な姿で現れるからです。

破れ羅生門の下で雨宿りしている二人のところへ、みすぼらしい浮浪者みたいな男が駆け込んできます。
押し黙る二人、どうかしたのかと、その訳を聞きます。
二人は三日前におきた恐ろしくも不思議な話を語り始めるのです。
都のはずれで起きた殺人事件について、犯人の男、犯された女、殺された男(霊媒を通して語る)、事件を目撃した木樵がそれぞれ証言するのですが、どの話もすべて食い違うというミステリーです。
最後の最後まで事件の真相が明らかにならないことが、当時の観客や批評家には難解でした。
製作した映画会社内でも不評で、担当者は更迭されたということです。
黒澤明監督は苦境に立たされたわけですが、ヴェネチア映画祭グランプリ受賞で大逆転。
今では“戦後日本映画史を代表する作品”のひとつになっているわけです。
話がちょっとばかり、横道へそれました。
なぜ羅生門を持ち出したのか?
それは、この当時の庶民の生活と、藤原氏の生活を比べるためです。
庶民は、といえば、こういう破れ羅生門と隣りあわせに生活していたわけです。
しかし、よーく考えてみてください。
この羅生門というのは都の正門ですよ。
今なら、さしずめ東京駅か、成田国際空港でしょう。
それがもう、上の写真で見るようにボロボロです。
もちろん藤原氏が政権を握っています。
これは、戦国時代の話ではありません。
この当時、誰が政権を握っていたかというと、藤原道長の息子である藤原頼道(よりみち)です。
ところが、夜盗が昼間から横行し、人殺し、追いはぎ、そういったものは、もう日常茶飯事です。
そこで、問題になるのが、藤原氏はどんな生活を送っていたのかということです。
この時代には、末法(まっぽう)思想が、流行歌のようにはやっていました。
要するに、この世が終わりに近づいているという考えです。
その終わりが1052年(永承7)となっていました。
そこで、藤原頼道(よりみち)は次に示すような別荘を作りました。

どこかで見たことがあるでしょう?
そうです。10円玉の裏に描かれている平等院鳳凰堂です。
要するに、世界の終わりが近づいてきたものだから、敷地内に阿弥陀(あみだ)堂を造ります。
阿弥陀堂とは何か?
それは阿弥陀如来(あみだにょらい)を奉るお堂ということです。
阿弥陀さんは、西方の極楽浄土に住んでいる教主です。
建物の形が鳳凰、つまり不死鳥(Phoenix)に似ているところから、そう呼ばれますが正式には平等院阿弥陀堂と呼ぶそうです。
つまり、都の正門がボロボロだろうが、火事で燃えて無くなろうが,そんな事は藤原氏にとっては、どうでもいいわけです。
自分だけが阿弥陀さんのそばにいれば、庶民がどうなろうと知った事ではないと思っていたわけです。
この当時は検非違使(けびいし)という現在の警察にあたるものはありましたが、正式には、法律に定められていない組織でした。
それで、都といえども、警察などあってもないようなもので、無政府状態だったわけです。
そんなわけで、人殺し、盗みはしたい放題といった状態です。
今の感覚からすれば、もうむちゃくちゃです。
『渡来人とアイヌ人の連合王国』より
(2003年7月17日)
ほォ~。。。卑弥子さんは読んでくれたのですか。うれしいなあああぁ~ とにかく、すごい時代だったのですよう。
祗王も、このような時代に生きていたのでござ~♪~ますか?
藤原頼道(よりみち)が平等院鳳凰堂を建てたときよりも、数十年後だけれど、平安末期、つまり、末法の世であった事に間違いがないのですよう。
どれぐらい後だったのでござ~♪~ますか?
平清盛が生まれたのは平安時代末期、元永元年(1118年)です。亡くなったのが治承5年(1181年)ですよ。平清盛が亡くなって、やがて源頼朝が武士社会を立ち上げる訳だから、まさに平安時代の末期というわけですよう。
祗王が生きていた時代は、藤原頼道(よりみち)の時代よりもさらに状況は悪くなっていたのでしょうか?
まず間違いなく悪くなっていたでしょうね。
どうしてデンマンさんには、そうだと分かるのでござ~♪~ますか?
「平氏にあらずんば人にあらず」
『平家物語』の中にも、このように書いてありますよう。つまり、平家一門でない者は人並みの生活ができなかったのですよう。
それで、祗王は人並みの生活を求めて平清盛に接近して行ったのでしょうか?
この当時生きていた者ならば、誰だって平家の伝手(つて)を頼って人並みな生活ができるようにいろいろと手立てを考えたでしょうね。
でも、祗王が望んでいたような安楽な生活は長くは続かなかったのですね。
その通りですよう。卑弥子さんが、おととい説明した通りですよう。
祗王の夢は儚(はかな)く露と消えて…
白拍子になってしまいましたわア~。
うふふふふ。。。
デンマンさんが小百合さんのために
出ろっつうんでござ~♪~ますわよう。
ええっ? どうしてかって。。。?
苔にハマッている小百合さんのために
美しい苔のある風景をお見せしなさいって
言われたのでござ~♪~ますわ。
そう言う訳で、祗王(ぎおう)寺を紹介しますわ。
美しいでしょう!
苔の美しい庭がいいですよね。
その向こうに見えるのが祗王寺でござ~♪~ますわ。
祗王や清盛の仏像がまつられているのですゥ。
法然上人(ほうねんしょうにん)の門弟・良鎮によって
建てられた往生院の境内地にあったのですが、
往生院が荒廃した後は小さな尼寺として残り、
祗王寺と呼ばれるようになったのでござ~♪~ます。
でも、江戸末期に廃寺となってしまったのですわ。
明治28(1895)年に当時の府知事であった北垣国道さんが
茶室を寄進して再建したのでござ~♪~ます。
現在では大覚寺の塔頭(たっちゅう【わきでら】)となっていて、
紅葉の名所、また、
平家物語の悲恋物語の舞台として知られているのです。
平清盛の寵愛を受けた白拍子・祗王が、清盛に捨てられた後、
妹の祗女とお母さんと仏御前(ほとけごぜん)と
過ごした寺でござ~♪~ますわ。
このお話は「平家物語」・祗王に詳しく描かれています。
小さな庵と苔が美しい庭園を見ていると、
「平家物語」の時代にタイムスリップした気分になりますわ。
嵐山の奥のほう、竹と楓(かえで)に囲まれた、
どこか女性的な感じを受ける草庵でござ~♪~ます。
庭は苔のジュウタンで覆われ、
蹲(つくばい)を流れ落ちた水が小川となり、
楓の足元を大きくうねりながら流れてゆくのですわ。
紅葉の見ごろは、少し遅めの12月上旬でござ~♪~ます。
なぜなら、庭苔の緑に、散り始めた紅葉が
朱をさして美しいからですわ。
デンマンさんとご一緒に見たいものですわぁ~。
おほほほほ。。。
では、平家物語「巻第一 祗王の章」の
あらすじをお話いたしますわ。
ところで白拍子というのは、平安時代後期に活躍した、
一口で分かりやすく申し上げるならば、
芸者のような者でござ~♪~ますわ。
このように白の水干(すいかん)に
立烏帽子(たてえぼし)、白鞘巻(しろさやまき)という男装で
「今様(いまよう)」と呼ばれる歌を謡(うた)いながら、
男舞(おとこまい)と呼ばれる舞(まい)を
舞(ま)うのでござ~♪~ます。
白拍子であった祗王は、時の権力者・平清盛の寵愛を受け、
彼の館で幸せに暮らしておりました。