獲得された絶望感(盲人ウエカジ @ウエカジハローセンター 公式ブログ)

~網膜色素変性症と司法試験とモー娘。と全盲ヘルパー事業所と・・・~

なぜ視覚障害者は外出、移動しなければならないのかを考えてみた。

2022-01-09 22:00:22 | 網膜色素変性症と私
現場主義

3連休2日目。今日は家から一歩も出ず。午前中、裁判所からの特別送達を配達してくれた郵便局の訪問で目を覚ます。裁判所は必ず文書は紙とあわせてCDRにテキストデータとしても送ってくれるのがうれしいね。これもおそらくは障害者差別解消法のおかげ。目の見えない私。網膜色素変性症な私デスペア。やっぱり紙の文書よりもテキストデータだね。

そのあとは、NHKラジオの日曜討論を聞き逃し配信で聞く。政党の党首がインタビューにこたえていた。その中で、令和新選組ののねたきりで声をだせない国会議員のフナゴ議員が、インタビューに答えていた。

フナゴ議員は自分で声をだせないので、パソコンの合成音声にしゃべらせていた。その合成音声の声がとってもよかった。私は毎日、このブログを書くのも、宮本佳林のブログを読むのも、すべて、パソコンやiPhoneの画面読み上げソフトを使っている。パソコンだとPCトーカー、iPhoneだとボイスオーバー。だけど、フナゴ議員の使っている合成音声エンジンはもっとナチュラルな日本語の発音だった。あれはどこの合成音声だろう?と気になった。
ただ、途中、国際発行のコクサイが、コツサイに聞こえた。

合成音声だと感情が伝わらないかなとおもったが、その内容が、障害者視点のアツイものだったので、伝わってきた。

合成音声で読み上げるのだから、別にわざわざ、NHKの放送局にいってインタビューにに答える必要はないだろうと思うも。そうじゃないんだね、フナゴ議員はでっかいストレッチャーにのって、わざわざ代々木のNHK東京放送局にいって、そこで合成音声でしゃべることに意味があるのよね。そこに行くということが大事なのよね。それはフナゴ議員にとっても、NHKにとっても。

そこで考えてみた。なぜ、私は、宮本佳林やハロプロのコンサートを見るために、わざわざ、家から出て、ひとりで白杖をついて、コンサート会場にいくのだろうか。大阪在住の私なので大阪であるコンサートに行くのならまだわかるけども、なぜ、北海道や沖縄、東京のコンサートにも行くのだろうか。考えてみた。

これは、もしかしたら、私が視覚障害者になったことが大きな要因ではないかと思った。

私は目が見えなくなる前から、ハロプロ、モーニング娘。、Berryz工房、℃-ute、ハロプロエッグが好きだったので、コンサートにも言っていたけど、それ以上に、コンサートDVDを買っていた。夏と冬のハロコン、春と秋の各グループのコンサートDVDは必ず買っていた。それをよく見ていた。大阪でコンサートがあれば行って、そしてコンサートDVDも後日買っていた。

でも、10年ほど前から、ほとんど目が見えなくなった私は。コンサートDVDを買わなくなった。その買わなくなった時期から、私はコンサート遠征をするようになった。目が見えなくなって、視覚でコンサートがたのしめなくなった分、コンサート現場に行くようになった。

つまり、目が見えていたころに、大阪でのコンサートとコンサートDVDを見ることで、得ていたハピネス、効用を100とすると、目が見えなくなった私は、同じようにしていたらハピネス効用が30ぐらいしか感じられなくなっていた。その失われた70を求めるために、数多く現場にいくようになった。

これは、今まで年間20ぐらいのコンサートにいっていたけど、目が見えなくなってからは、視覚情報がなくなったので、それを補うために、多くのコンサート、年間100ぐらいのコンサートにいって、やっと、過去の20ぐらいのコンサートから得られた情報を得られる情報を得られるようになったというのではない。かつてはゆでたまごを1つたべられていたのに、それがなぜか一度に1個のうずらのゆでたまごしかたべられなくなり、同じカロリーを得るために、うずらのたまごを5個食べるようになった、そういうことではない。

コンサートそのものから得られる視覚情報を中心とした効用がさがってきたのを、そのコンサートに行く道中の移動事態にもハピネス効用、達成感を感じるようになったことで、補うようになったのである。

子供のころ、遠足がおわった運動場で校長先生が必ずこういった。遠足は家に帰るまでが遠足です。

でも、ほんとは、遠足っていうのは、数日前から、親から300円の小銭をもらって、友達と夕方、近所の駄菓子屋を渡り歩いて、いろんなお菓子、遠足にもっていくお菓子を買うところからはじまっている。その買ったお菓子を、リュックにいれたり、だしたりして、水稲にはポカリスエットいおれたり、あるいは氷水をいれて、遠足先で粉ジュースをとかしてのもうか、そういろいろしているときから遠足がはじまっている。

遠足のたのしみは、遠足当日の朝には、もう50パーセントは達成されているのよね。

あるいは、ゴルフやスポーツジムで汗を流したおっさんが、お風呂に入って、サウナにはいって、汗をだしきって、のどをからからにした状態で、冷たいビールを飲む。このビールがおいしいのは。ビールを飲む前にもうそのビールのおいしさは50パーセントは達成している。

私のコンサート遠征もそう。一人、白杖をたたきながら、リュックをし背負って、大阪から、遠く離れたコンサート会場に行く、そのコンサート会場に到着した時点で、すでにコンサートの楽しみ、ハピネス効用は、50パーセント達成している。

移動すること、その現場まで行くということが、私にとっては大事なのね。コンサートで過去と同じようにハピネス効用を感じるためには、この移動するということが大事。

なぜ、このような無意味な、あまり意味が見いだせない、移動に、コンサートを見るという目的のための手段にすぎない移動に、私が効用を感じるのか自分でもその理由はわからない。

もしかしたら、目が見えなくなって、視覚情報がなくなってしまった私、かつては視覚情報からその実態を感じて、世界を感じていたけども、それができなくなったことで、わざわざ遠くまで移動するという身体的活動刺激によって、かろうじて、世界というか実存を感じているのかもね。

逆に言うと、目の見える人は、これからのネット環境が整備されて、バーチャル眼鏡で、臨場感ある映像を得られるようになると、さらに外にはでなくなるだろうね。そうなると、外に出ているのは、視覚障害者だけになるね。なんか皮肉だね。情報障害者である視覚障害者は同時に移動障害者でもある、そして、情報をより体感するために移動を必要とするのは視覚障害者。なんか皮肉だけども、おもしろい。こういったことを、同行援護裁判でも主張したいのだけども、いまだこの理論は、実証されない私の妄想、ひとり説なんだよな。
移動が人間にとって、視覚障害者にとって、移動障害者にとって、どれだけ重要なものか、これをぜひだれかにに論証してほしいね。

さて、今日は家から一歩もでなかったので、3連休最終日の明日は、外にでなくちゃ。ラブリーズのCDリリースライブにあべののほうにいってみようか。















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