孤独と無力感
年末年始6連休最終日。あっという間の6連休だったね。
今日は1月3日月曜日、すでにNHKの朝ドラは平常放送だし、TBSラジオの朝の番組も平常放送。昔は、もうすこし、正月放送があったとおもうけど、そうじゃなくなっているのね。これはいいことだと思う。みんながみんな正月のんびりしてるわけじゃないしね、少なくない人たちが、すでに平常どおり働いているもんね。
そんな今日、私は昼前に起きて、布団の中で、昨日の読書の続き。寝たままの読書。読書といっても、耳で聞く。ボランティアさんが読み上げてくれた朗読録音図書をiPhoneから聞く。2.5倍速で聞く。目の見えない私。網膜色素変性症な私デスペア。目の見えない人のためのオンライン図書館サピエ図書館からダウンロードして聞く。
ふとんの中で聞いたのは、フロムの自由からの逃走、エスケイプ フロム フリーダム、漢字でなく耳できくと、トウソウとは、たたかいあらそうの闘争かとおもってしまうけど、そのトウソウじゃなくて、エスケイプ、逃げる走るのトウソウなのね。
1941年に書かれた社会学の本。ナチスドイツが全盛期だったころにこの本は書かれた。ナチスドイツがなぜ大衆から支持を得たのかが書かれている。
なぜドイツ人が、盲目的にナチスを信奉したのか、みずからの自由をナチスドイツにささげたのか、そしてなぜ民族浄化、他民族排斥をしていったのかが、人間んの心理、社会心理から解き明かしている。
フロムいわく、自由とは、安定がなくなり、帰属がなくなるということ。それは、赤ん坊がだんだん母親から自立していく過程ににている。赤ん坊はたしかに自由になるけども、そのかわり、母親との一体感という安定、母親に守られている母親の一部だという帰属感がなくなるのね。
そして、そういった安定と帰属を失った大衆は、孤独と無力感におそわれる。そして、その孤独と無力感をうめるものが、3つあるとフロムは言う。
それは、財産、家庭、帰属意識孤独をうめあわせるために、ある人は、金もうけ、どんどん財産をつくり、そして人をしたがえていく、またあるい人は、家族の中で王様としてふるまう、またある人は、なにかの組織に帰属する。
そして、財産もなく、家族もない人がたよるのはなにかへの帰属。どきっとするね。私も独身中年男性で、財産もなく、家族もつくらない、そんな私が孤独と無力感からのがれるためには、なにかに帰属するほかない。その帰属先としてもっとも、簡単なのが、権力、権威。
単身世帯が全世帯の4割になり、そして非正規社員も4割になっている日本において、権威主義、権力を信奉するものが増えるのも納得だね。
この権威主義がやっかいなのは、この権威主義には、かならず、サドとマゾの2つが必要で、かならず、とことん相手を征服したいというサド、だれかに征服されたいというマゾが裏表にあるということ。権力に従順であろうとすると同時に、ユダヤ人などの他民族やあるいは障害者を徹底的に支配、差別しようとすることが同時におこる。
たしかに、今の日本でも、権威主義にひかれていく人たちは、一方で、生活保護受給者をたたいたり、生産性のない障害者はいきる価値はないと考えるもんね。
名著だね。
最低賃金で働いている派遣労働者は、同じ職場ではたらく仕事のできない派遣労働者に不満を感じる、ちゃんんと仕事やれよ。でもその派遣労働者が不満をゆうべきは、雇用主にたいしてであって、私は彼より有能なんだからもっと時給をあげてくれというのがすじ。なぜそれを言わずに、弱者を攻撃するんだろう。それが権威主義。一方的に従属しつつ、さらに下のものを従属させたがる。
また、ふろむは、なぜ小さなこどもを大人はみんないとおしくおもうのか、それは自分にも昔ああいう時代があったなというセンチメンタル以外にも要因があって、それはこどもの自発性。だれからの制約もうけず自由にふるまうそこに、あこがれ、いとおしさを感じるとのこと。
たしかに、電車やファミレスで私が椅子にすわっていると、いきなり、奇声をあげながらこどもが電車やお店にはいってくる。はじめはおどろくも、なぜかいとおしい。それはこどもの自発性に感じるいとおしさなのね。
これから、どんどん、孤独と無力感をかかえた人々がたくさんでてくる。そして、その孤独無力人は、財産もなく、家庭ももてず、唯一その孤独無力感を解消する手段が、権威にすがり、弱者を攻撃すること。なんか悲しい世の中だね。
私もそうならないように気を付けないとね。
孤独と無力感は私はいつも感じているけども、それを補う財産も家庭もない、でも私にはハロプロがある。ありがたい。ハロプロのおかげで孤独と無旅館に立ち向かえている。
ということは、ハロプロを世の中に広めれば、孤独や無力感もも相対化され、権威主義、差別主義者もいなくなるだろうね。私のやるべきことがわかったような気がした。
フロムの自由からの逃走、いい本だね。
年末年始6連休最終日。あっという間の6連休だったね。
今日は1月3日月曜日、すでにNHKの朝ドラは平常放送だし、TBSラジオの朝の番組も平常放送。昔は、もうすこし、正月放送があったとおもうけど、そうじゃなくなっているのね。これはいいことだと思う。みんながみんな正月のんびりしてるわけじゃないしね、少なくない人たちが、すでに平常どおり働いているもんね。
そんな今日、私は昼前に起きて、布団の中で、昨日の読書の続き。寝たままの読書。読書といっても、耳で聞く。ボランティアさんが読み上げてくれた朗読録音図書をiPhoneから聞く。2.5倍速で聞く。目の見えない私。網膜色素変性症な私デスペア。目の見えない人のためのオンライン図書館サピエ図書館からダウンロードして聞く。
ふとんの中で聞いたのは、フロムの自由からの逃走、エスケイプ フロム フリーダム、漢字でなく耳できくと、トウソウとは、たたかいあらそうの闘争かとおもってしまうけど、そのトウソウじゃなくて、エスケイプ、逃げる走るのトウソウなのね。
1941年に書かれた社会学の本。ナチスドイツが全盛期だったころにこの本は書かれた。ナチスドイツがなぜ大衆から支持を得たのかが書かれている。
なぜドイツ人が、盲目的にナチスを信奉したのか、みずからの自由をナチスドイツにささげたのか、そしてなぜ民族浄化、他民族排斥をしていったのかが、人間んの心理、社会心理から解き明かしている。
フロムいわく、自由とは、安定がなくなり、帰属がなくなるということ。それは、赤ん坊がだんだん母親から自立していく過程ににている。赤ん坊はたしかに自由になるけども、そのかわり、母親との一体感という安定、母親に守られている母親の一部だという帰属感がなくなるのね。
そして、そういった安定と帰属を失った大衆は、孤独と無力感におそわれる。そして、その孤独と無力感をうめるものが、3つあるとフロムは言う。
それは、財産、家庭、帰属意識孤独をうめあわせるために、ある人は、金もうけ、どんどん財産をつくり、そして人をしたがえていく、またあるい人は、家族の中で王様としてふるまう、またある人は、なにかの組織に帰属する。
そして、財産もなく、家族もない人がたよるのはなにかへの帰属。どきっとするね。私も独身中年男性で、財産もなく、家族もつくらない、そんな私が孤独と無力感からのがれるためには、なにかに帰属するほかない。その帰属先としてもっとも、簡単なのが、権力、権威。
単身世帯が全世帯の4割になり、そして非正規社員も4割になっている日本において、権威主義、権力を信奉するものが増えるのも納得だね。
この権威主義がやっかいなのは、この権威主義には、かならず、サドとマゾの2つが必要で、かならず、とことん相手を征服したいというサド、だれかに征服されたいというマゾが裏表にあるということ。権力に従順であろうとすると同時に、ユダヤ人などの他民族やあるいは障害者を徹底的に支配、差別しようとすることが同時におこる。
たしかに、今の日本でも、権威主義にひかれていく人たちは、一方で、生活保護受給者をたたいたり、生産性のない障害者はいきる価値はないと考えるもんね。
名著だね。
最低賃金で働いている派遣労働者は、同じ職場ではたらく仕事のできない派遣労働者に不満を感じる、ちゃんんと仕事やれよ。でもその派遣労働者が不満をゆうべきは、雇用主にたいしてであって、私は彼より有能なんだからもっと時給をあげてくれというのがすじ。なぜそれを言わずに、弱者を攻撃するんだろう。それが権威主義。一方的に従属しつつ、さらに下のものを従属させたがる。
また、ふろむは、なぜ小さなこどもを大人はみんないとおしくおもうのか、それは自分にも昔ああいう時代があったなというセンチメンタル以外にも要因があって、それはこどもの自発性。だれからの制約もうけず自由にふるまうそこに、あこがれ、いとおしさを感じるとのこと。
たしかに、電車やファミレスで私が椅子にすわっていると、いきなり、奇声をあげながらこどもが電車やお店にはいってくる。はじめはおどろくも、なぜかいとおしい。それはこどもの自発性に感じるいとおしさなのね。
これから、どんどん、孤独と無力感をかかえた人々がたくさんでてくる。そして、その孤独無力人は、財産もなく、家庭ももてず、唯一その孤独無力感を解消する手段が、権威にすがり、弱者を攻撃すること。なんか悲しい世の中だね。
私もそうならないように気を付けないとね。
孤独と無力感は私はいつも感じているけども、それを補う財産も家庭もない、でも私にはハロプロがある。ありがたい。ハロプロのおかげで孤独と無旅館に立ち向かえている。
ということは、ハロプロを世の中に広めれば、孤独や無力感もも相対化され、権威主義、差別主義者もいなくなるだろうね。私のやるべきことがわかったような気がした。
フロムの自由からの逃走、いい本だね。