#宮本佳林ちゃんとの思い出
私は目が見えない視覚障害者。でも生まれつき目が見えないのではなく、途中から目が見えなくなった。徐々に目が見えなくなっていったので、いつから、人の顔やシルエットがわからなくなったのかはわからない。だいたい、2012年ごろには人の顔の区別がつかなくなった。
私のの目の病気は、網膜色素変性症という視野が徐々にかけていき、それよりすこし遅れて視力も低下していくという病気。視野がせまくなると、人の顔が認識できない。その人の目とか、鼻とか、口とかだけしか私の視野にははいてこないので、人の顔がわからない。
そう、なったのが、2012年ごろ。
宮本佳林の14歳の誕生日当日、2012年12月1日、ハロプロ研修生として端役で舞台に出演の宮本佳林。大阪シアターブラバという劇場。終演後、サプライズで客席がピンクのサイリウムでうめつくされたあの夜。
そのピンクのサイリウムを見て大泣きする佳林。そのサイリウムが私のための、私の誕生日を祝ってくれているものだと知り、ステージの上で人目もはばからず泣く佳林。
主役でもないこんな私に、こんなことまでしてくれて・・涙で声がでない佳林。
その佳林の言葉は私には聞こえるが、私には、佳林の大泣きしている顔がわからない。佳林がちゃんとステージのセンターにいるのかもわからない。私の目の病気は進行して、もう佳林の表情、場位置もわからない。
でも、その表情がたとえ見えなくても、宮本佳林の伝える力、見ているもの聞いているものの心をゆさぶる力がすさまじく、目が見えていないのに、まるで、見えているように感じてしまう私。これは宮本佳林の魅力、輝きによるもの。なので、私は目が見えなくなっても、ずっと宮本佳林がいとおしくて、いつも胸がキュンとなる。いつも宮本佳林を応援せずにはいられない、いわゆる推さないではいられない。
と言いつつ、私は生まれつきの視覚障害者ではないので、2011年以前はまだ目が見えていた私。なので、宮本佳林の顔、表情、シルエットは私は覚えている。
振り返ってみると、私がはじめて宮本佳林を知ったのは、2008年11月の横浜ブリッツ。ハロプロエッグの新人公演ライブで、新人のハロプロエッグとして紹介されて、ステージにあがってきた、ちっちゃいちっちゃい宮本佳林。
ハロプロの先輩、おそらくはモーニング娘のステージ衣装を、おさがり衣装として着ている佳林。佳林がちっちゃすぎて、そのおさがりの仕立て直しがなんか変、なんか珍竹林の衣装。そんな衣装を着させられて、ハキハキと堂々と自己紹介する佳林。
千葉県出身、小学4年、宮本佳林です。好きな食べ物はいちごです。
名前の発音のイントネーションが独特で、カリンの最後のんだけが一気に音程があがる不思議な発音。その自己紹介の一言だけで、ほかのハロプロエッグとは何かが違う、この子は何かが違うと感じた私。
ちっちゃいねーかわいいねーとは、元℃-uteの萩原舞の名言。そう、ちっちゃければ、まずもってそれだけでかわいい。小学4年の佳林は130センチほどの身長。それだけでかわいいのだけども、佳林はそれだけではおさまらない。かわいさがおさまらない。
その後、ハロプロエッグの中でも当確をあらわし、ハロプロの先輩たちのコンサート、ハロコンにもバックダンサーとして出演しはじめる佳林。マイクももたしてもらえず、衣装もシンプルな衣装で、ハロプロエッグは悪目立ちしないようにエッグはいつも同じ衣装、うすい水色の衣装。
そんなマイクもなし、衣装も地味な衣装で、ステージのうしろのほうのバックダンサーなんだけども、佳林はすぐに、そこにいるのがわかる。当時すでに、夜盲と視野狭窄が進行して、ひとりのメンバーを目で追い続けるというのが難しくなりつつあった私。そんな私の目でも、佳林のステージング、ダンスにくぎ付け。私の目が佳林の姿を離さない。いや、佳林のダンスが私の目をはなさない。
ベリーズ工房の代表曲、スッペシャルジェネレーションをうたう先輩ハロメンの後ろで、バックダンサーの佳林。その佳林のダンスがすさまじい。躍動感あふれるというう言い方ではまったく足りない。
前で先輩が踊っていようが、悪目立ちといわれようが、その何かにとりつかれたような、オーバーすぎるダンスをやり続ける佳林。
そんなちっちゃいからだのどこに、そんなパワーがあるのかと驚嘆するぐらい。いわゆるスーパーボールが、その落とした位置よりも、高い位置まで、地面からはねあがってくるようなあの感覚。まるで物理法則を無視したような佳林の躍動感。ちいさなダイナモエンジンが、その小ささからは想像もできないほどのパワーを出すあの感覚。手に持った回転する宇宙ゴマが、いまにも自分の手から飛び出てしまいそうなあの感覚。
かとおもえば、先輩たちは、軽々とあがるステージ上のセットの大階段を、よっこらしょと右足を高くあげてちょと手をつきながら、よいしょよいしょと階段をのぼる佳林。実にいとおしい。
そして、曲がおわって、ダンスをとめて最後のポーズ。先輩たちは、呼吸をととのえて、しっかり停止ポーズをとるも、佳林のその小さな胸は、息をするたびに上下する。まるで小さな子供がお昼寝で寝ているときに、息をするたびに、その胸が上下するあのような呼吸。実にいとおしい。
ダイナミックなキレキレなダンスと、それににつかわしくない、よっこりゃしょと、胸呼吸。そんなところが、アンバランスがチビ佳林の魅力。この時から佳林のファンが急激に増えてきたね。
それと同じぐらいの時期、2009年9月、横浜ブリッツでのハロプロエッグ新人公演。小学5年の宮本佳林と小学6年の竹内朱莉が、二人で歌う。℃-uteの愛してる愛してる。
オリジナルを超えるというのはほとんどないけども、この佳林の愛してる愛してるは本家超えのパフォーマンスだった。
セリフっぽい歌詞、スローテンポな、ポップな曲。乙女のレモン色の恋を歌っているような歌詞。
錆で、セリフだかメロディーにのせた歌唱だかわからないぐあいで、佳林が、めちゃめちゃめちゃめちゃと、歌う。このめちゃめちゃめちゃめちゃの佳林がずば抜けてかわいらしかった。
その佳林のセリフのあと、客席から歓声、いや完成というか、よくアニメなどで、ハァーンという擬音がつかわれるけども、あのハァーーンが聞こえた。
横浜ブリッツのステージの大画面で、めちゃめちゃめちゃめちゃとうたう佳林の顔のドアップ。その表情が実にかわいあしくいとおしい。
花頭がまだぺちゃんこな佳林。主っとした鼻筋というのではなく、ちっちゃな鼻。
そのぺちゃんこな花に、目をぎゅっとつぶってちかづける。まえちゃめちゃめちゃめちゃの気持ちをあらあわす佳林。ででもその表情は、小さなこどもがトイレトレーニングで、強制的におまるにすわらされて、うんちをだそうと必死でりきんでいるときの表情。実にかわいらしい。そりゃ、客席からハァーーンという歓声がもれるよね。
私が35歳をこえて、網膜色素変性症が遺伝する病気であり、それじゃ、結婚してこどもをつくることもできないなとあきらめたころの私。注) そんな私の前にあらわれたのが宮本佳林。小学生の佳林。
私ももし目の病気でなかったら、結婚して、こどもをつくると、こんなかわいいこどもができるんだろうな。私があきらめてしまった結婚とかこどもとかの幸せを、決して手に入らないと自覚しあきらめた私の前にあらわれた宮本佳林。私が失ったもの、なくしたものを埋めてくれたのが宮本佳林。
近い将来失明するという恐怖、その恐怖にそっとよりそってくれたのが、宮本佳林のパフォーマンス、宮本佳林の愛おしさ。
もし、宮本佳林を知らずに、私が、目が見えなくなっていたら、どうなっていただろう。私は正気を保てていただろうか。
私は、目が見えなくなる前、もし目が見えなくなったら、暗黒の真っ暗闇の世界に閉じ込められるようなもんだと思っていた。太陽がいきなりまっくらになってしまうような世界がおわってしまう恐怖。そして絶望。
でも目が見えなくなって私は気づいた。目が見えなくなっても、私の世界はおわらない。目が見えなくても、そこには、世界がある。太陽はたしかに見えないけども、それは日食で、たんに月が太陽をおおいかくしているだけ。そこに太陽があるという事実。太陽がないという恐怖は単なる空想の恐怖にすぎなかったことに気付く。
目が見えているとき、そして目が見えなくなってから。私の目の前にはずっと宮本佳林がいる。たとえ佳林の姿、顔は見えなくなっても、まちがいなくそこに佳林はいる。すばらしい事実。ワンダフルワールド。世界はおわらない。
目が見えていた世界にも宮本佳林はいたし、そして目が見えなくなった世界にも変わらず宮本佳林がいてくれる。この喜びというか希望。世界はなんにもかわっていない。ワンダフルワールドは依然としてそこにある。
それを教えてくれたのが宮本佳林。絶望を希望にかえてくれた宮本佳林。
2008年11月横浜ブリッツで現れた天使。それは、私の目が見えなくなることを告げに来た天使であり、そして、目が見えなくなっても、世の中は絶望だけじゃないよということを教えにきてくれた天使。それが宮本佳林。
よく、宮本佳林はファンの存在があってこそ私は存在できている。感謝しかないという。その感謝を歌とパフォーマンスで伝えていくという。
でも、まちがいなく言えるのは、佳林のその感謝の何万倍も、私は宮本佳林に感謝している。この気持ちを伝えられる文章力、表現力がないのが実にもどかしい。せいぜい、NHKEテレのバリバラに出て、宮本佳林を連呼するぐらいしか私にはできない。実にもどかしい。
宮本佳林のいる世界こそがワンダフルワールド。ありがとう佳林!。
注)
網膜色素変性症は遺伝疾患ですが、かならずしもこどもに遺伝する病気ではありません。私と同じ遺伝形式の網膜色素変性症の女性と結婚した場合に、4分の1で私と同じ網膜色素変性症のこどもがうまれるようです。なので、私と同じ遺伝形式をもっていない人とのこどもなら、私の網膜色素変性症の遺伝性質はこどもには現れないんです。つまり、普通に結婚して網膜色素変性症のこどもがうまれる確率は、私でも1000文の1の確率らしいです。
この投稿は、アメブロで1月4日まで行われていた宮本佳林ちゃんとの思い出を送ろうキャンペーンに、投稿し忘れていたので、こちらのブログにアップするものです。期限をちゃんとチェックしてなかった自分に反省です。
私は目が見えない視覚障害者。でも生まれつき目が見えないのではなく、途中から目が見えなくなった。徐々に目が見えなくなっていったので、いつから、人の顔やシルエットがわからなくなったのかはわからない。だいたい、2012年ごろには人の顔の区別がつかなくなった。
私のの目の病気は、網膜色素変性症という視野が徐々にかけていき、それよりすこし遅れて視力も低下していくという病気。視野がせまくなると、人の顔が認識できない。その人の目とか、鼻とか、口とかだけしか私の視野にははいてこないので、人の顔がわからない。
そう、なったのが、2012年ごろ。
宮本佳林の14歳の誕生日当日、2012年12月1日、ハロプロ研修生として端役で舞台に出演の宮本佳林。大阪シアターブラバという劇場。終演後、サプライズで客席がピンクのサイリウムでうめつくされたあの夜。
そのピンクのサイリウムを見て大泣きする佳林。そのサイリウムが私のための、私の誕生日を祝ってくれているものだと知り、ステージの上で人目もはばからず泣く佳林。
主役でもないこんな私に、こんなことまでしてくれて・・涙で声がでない佳林。
その佳林の言葉は私には聞こえるが、私には、佳林の大泣きしている顔がわからない。佳林がちゃんとステージのセンターにいるのかもわからない。私の目の病気は進行して、もう佳林の表情、場位置もわからない。
でも、その表情がたとえ見えなくても、宮本佳林の伝える力、見ているもの聞いているものの心をゆさぶる力がすさまじく、目が見えていないのに、まるで、見えているように感じてしまう私。これは宮本佳林の魅力、輝きによるもの。なので、私は目が見えなくなっても、ずっと宮本佳林がいとおしくて、いつも胸がキュンとなる。いつも宮本佳林を応援せずにはいられない、いわゆる推さないではいられない。
と言いつつ、私は生まれつきの視覚障害者ではないので、2011年以前はまだ目が見えていた私。なので、宮本佳林の顔、表情、シルエットは私は覚えている。
振り返ってみると、私がはじめて宮本佳林を知ったのは、2008年11月の横浜ブリッツ。ハロプロエッグの新人公演ライブで、新人のハロプロエッグとして紹介されて、ステージにあがってきた、ちっちゃいちっちゃい宮本佳林。
ハロプロの先輩、おそらくはモーニング娘のステージ衣装を、おさがり衣装として着ている佳林。佳林がちっちゃすぎて、そのおさがりの仕立て直しがなんか変、なんか珍竹林の衣装。そんな衣装を着させられて、ハキハキと堂々と自己紹介する佳林。
千葉県出身、小学4年、宮本佳林です。好きな食べ物はいちごです。
名前の発音のイントネーションが独特で、カリンの最後のんだけが一気に音程があがる不思議な発音。その自己紹介の一言だけで、ほかのハロプロエッグとは何かが違う、この子は何かが違うと感じた私。
ちっちゃいねーかわいいねーとは、元℃-uteの萩原舞の名言。そう、ちっちゃければ、まずもってそれだけでかわいい。小学4年の佳林は130センチほどの身長。それだけでかわいいのだけども、佳林はそれだけではおさまらない。かわいさがおさまらない。
その後、ハロプロエッグの中でも当確をあらわし、ハロプロの先輩たちのコンサート、ハロコンにもバックダンサーとして出演しはじめる佳林。マイクももたしてもらえず、衣装もシンプルな衣装で、ハロプロエッグは悪目立ちしないようにエッグはいつも同じ衣装、うすい水色の衣装。
そんなマイクもなし、衣装も地味な衣装で、ステージのうしろのほうのバックダンサーなんだけども、佳林はすぐに、そこにいるのがわかる。当時すでに、夜盲と視野狭窄が進行して、ひとりのメンバーを目で追い続けるというのが難しくなりつつあった私。そんな私の目でも、佳林のステージング、ダンスにくぎ付け。私の目が佳林の姿を離さない。いや、佳林のダンスが私の目をはなさない。
ベリーズ工房の代表曲、スッペシャルジェネレーションをうたう先輩ハロメンの後ろで、バックダンサーの佳林。その佳林のダンスがすさまじい。躍動感あふれるというう言い方ではまったく足りない。
前で先輩が踊っていようが、悪目立ちといわれようが、その何かにとりつかれたような、オーバーすぎるダンスをやり続ける佳林。
そんなちっちゃいからだのどこに、そんなパワーがあるのかと驚嘆するぐらい。いわゆるスーパーボールが、その落とした位置よりも、高い位置まで、地面からはねあがってくるようなあの感覚。まるで物理法則を無視したような佳林の躍動感。ちいさなダイナモエンジンが、その小ささからは想像もできないほどのパワーを出すあの感覚。手に持った回転する宇宙ゴマが、いまにも自分の手から飛び出てしまいそうなあの感覚。
かとおもえば、先輩たちは、軽々とあがるステージ上のセットの大階段を、よっこらしょと右足を高くあげてちょと手をつきながら、よいしょよいしょと階段をのぼる佳林。実にいとおしい。
そして、曲がおわって、ダンスをとめて最後のポーズ。先輩たちは、呼吸をととのえて、しっかり停止ポーズをとるも、佳林のその小さな胸は、息をするたびに上下する。まるで小さな子供がお昼寝で寝ているときに、息をするたびに、その胸が上下するあのような呼吸。実にいとおしい。
ダイナミックなキレキレなダンスと、それににつかわしくない、よっこりゃしょと、胸呼吸。そんなところが、アンバランスがチビ佳林の魅力。この時から佳林のファンが急激に増えてきたね。
それと同じぐらいの時期、2009年9月、横浜ブリッツでのハロプロエッグ新人公演。小学5年の宮本佳林と小学6年の竹内朱莉が、二人で歌う。℃-uteの愛してる愛してる。
オリジナルを超えるというのはほとんどないけども、この佳林の愛してる愛してるは本家超えのパフォーマンスだった。
セリフっぽい歌詞、スローテンポな、ポップな曲。乙女のレモン色の恋を歌っているような歌詞。
錆で、セリフだかメロディーにのせた歌唱だかわからないぐあいで、佳林が、めちゃめちゃめちゃめちゃと、歌う。このめちゃめちゃめちゃめちゃの佳林がずば抜けてかわいらしかった。
その佳林のセリフのあと、客席から歓声、いや完成というか、よくアニメなどで、ハァーンという擬音がつかわれるけども、あのハァーーンが聞こえた。
横浜ブリッツのステージの大画面で、めちゃめちゃめちゃめちゃとうたう佳林の顔のドアップ。その表情が実にかわいあしくいとおしい。
花頭がまだぺちゃんこな佳林。主っとした鼻筋というのではなく、ちっちゃな鼻。
そのぺちゃんこな花に、目をぎゅっとつぶってちかづける。まえちゃめちゃめちゃめちゃの気持ちをあらあわす佳林。ででもその表情は、小さなこどもがトイレトレーニングで、強制的におまるにすわらされて、うんちをだそうと必死でりきんでいるときの表情。実にかわいらしい。そりゃ、客席からハァーーンという歓声がもれるよね。
私が35歳をこえて、網膜色素変性症が遺伝する病気であり、それじゃ、結婚してこどもをつくることもできないなとあきらめたころの私。注) そんな私の前にあらわれたのが宮本佳林。小学生の佳林。
私ももし目の病気でなかったら、結婚して、こどもをつくると、こんなかわいいこどもができるんだろうな。私があきらめてしまった結婚とかこどもとかの幸せを、決して手に入らないと自覚しあきらめた私の前にあらわれた宮本佳林。私が失ったもの、なくしたものを埋めてくれたのが宮本佳林。
近い将来失明するという恐怖、その恐怖にそっとよりそってくれたのが、宮本佳林のパフォーマンス、宮本佳林の愛おしさ。
もし、宮本佳林を知らずに、私が、目が見えなくなっていたら、どうなっていただろう。私は正気を保てていただろうか。
私は、目が見えなくなる前、もし目が見えなくなったら、暗黒の真っ暗闇の世界に閉じ込められるようなもんだと思っていた。太陽がいきなりまっくらになってしまうような世界がおわってしまう恐怖。そして絶望。
でも目が見えなくなって私は気づいた。目が見えなくなっても、私の世界はおわらない。目が見えなくても、そこには、世界がある。太陽はたしかに見えないけども、それは日食で、たんに月が太陽をおおいかくしているだけ。そこに太陽があるという事実。太陽がないという恐怖は単なる空想の恐怖にすぎなかったことに気付く。
目が見えているとき、そして目が見えなくなってから。私の目の前にはずっと宮本佳林がいる。たとえ佳林の姿、顔は見えなくなっても、まちがいなくそこに佳林はいる。すばらしい事実。ワンダフルワールド。世界はおわらない。
目が見えていた世界にも宮本佳林はいたし、そして目が見えなくなった世界にも変わらず宮本佳林がいてくれる。この喜びというか希望。世界はなんにもかわっていない。ワンダフルワールドは依然としてそこにある。
それを教えてくれたのが宮本佳林。絶望を希望にかえてくれた宮本佳林。
2008年11月横浜ブリッツで現れた天使。それは、私の目が見えなくなることを告げに来た天使であり、そして、目が見えなくなっても、世の中は絶望だけじゃないよということを教えにきてくれた天使。それが宮本佳林。
よく、宮本佳林はファンの存在があってこそ私は存在できている。感謝しかないという。その感謝を歌とパフォーマンスで伝えていくという。
でも、まちがいなく言えるのは、佳林のその感謝の何万倍も、私は宮本佳林に感謝している。この気持ちを伝えられる文章力、表現力がないのが実にもどかしい。せいぜい、NHKEテレのバリバラに出て、宮本佳林を連呼するぐらいしか私にはできない。実にもどかしい。
宮本佳林のいる世界こそがワンダフルワールド。ありがとう佳林!。
注)
網膜色素変性症は遺伝疾患ですが、かならずしもこどもに遺伝する病気ではありません。私と同じ遺伝形式の網膜色素変性症の女性と結婚した場合に、4分の1で私と同じ網膜色素変性症のこどもがうまれるようです。なので、私と同じ遺伝形式をもっていない人とのこどもなら、私の網膜色素変性症の遺伝性質はこどもには現れないんです。つまり、普通に結婚して網膜色素変性症のこどもがうまれる確率は、私でも1000文の1の確率らしいです。
この投稿は、アメブロで1月4日まで行われていた宮本佳林ちゃんとの思い出を送ろうキャンペーンに、投稿し忘れていたので、こちらのブログにアップするものです。期限をちゃんとチェックしてなかった自分に反省です。