冊子届く
今日から仕事始め。昨日の夜にスポーツジムにいったおかげで、今朝はぐっすり眠れて、休みボケというのもない。やっぱり体を動かすて大事だね。
会社帰りにスーパーにたちよる。今日からいつもどおりにヘルパーさんが夕方きてくれるので、調理してもらう食材、野菜を購入。夕方16時30分、の時間。。小さなこどもづれが多いなとおもったら、まだこどもたちは冬休みなのね。
いつものとおり、サービスカウンターに声をかけて、店員さんに欲しい商品をつげて、もってきてもらう。今日はきゅうり1本48円。去年の年末は68円で。いきなり安くなったね。うれしいね。でも1年前はたしか1本38円だったような。もしかしたら正月あけできゅうりがしなっとなっているから、68円を値引きして48円になったのかな?きゅうりがしなっとなっているかわからない私。目の見えない私。網膜色素変性症な私デスペア。店員さんの目利きを信じるしかないね。
家に帰って、しばらくしてヘルパーさんがきてくれたので、さっき買ってきたきゅうり、キャエツ、赤いパプリカを細長くきってもらって、ミツカンかんたん酢をまぶしてもらって、タッパに小分けにする。9つのタッパ。スクリューロックというタッパが9つ。毎日1個ずつたべる。野菜不足解消。
ヘルパーさんの時間があまったので、年末にに届いた郵便物をあけてよみあげてもらう。郵便物の中に冊子があった。なんだろうとおもったら、NHK障害福祉賞、優秀作品集。
どんな作品が優秀賞をとったのと確認してみる。
第56回NHK障害福祉賞 体験作文 落選作品
「インケイに糸くずがついています。」
日本語の中には、文字でもっぱら表現される単語というものがある。それを、いきなり音声で聞くとびっくりする。
スポーツジムのお風呂の脱衣場で、となりのY君が、いきなり私の裸の股間を見て、つぶやく。
つぶやくというのは正確ではなく、ハッキリとY君は私に事実を教えてくれた。まわりには、何名かの裸の男性がいる中でのこの指摘。びっくりする私。
これからお風呂に入るので、その糸くずも洗い流します。私的ありがとう。
その数か月後、同じような場面で、今度は、Y君がこう言ってきた。
どうしてインモウを剃っているのですか?
インケイに糸くずがついていたときも、私は陰毛を剃っていたいたけど、なぜ、今になってそのことを聞いてくるのだろう?ちょっと不思議に思うも。
Y君も散発するでしょ?それと同じで私も陰毛を定期的に散髪してるんです。こうすると、尿のにおいがパンツにつかなくていいんですよ。ぜひY君も陰毛を剃ってみてください。
「ほかのお客様から臭いという苦情がはいっています。」
Y君と時々スポーツジムに一緒に通うようになてから半年後、スポーツジムのマネージャーという人に私だけ呼び出される。
Y君は私とマネージャーから5メートルぐらい離れたところで、こちらの様子をうかがっている。
マネージャーが私に、他のお客からの苦情を伝えてきた。
私への苦情ではなく、Y君の服がにおうという苦情。
そういえば、数週間前、スポーツジムのロッカールームで、高校生らしき若者2人が、なんかくせー、なんかくせーとこちらに向かってではなく、単なる会話の一部として、でも、こちらにむかって、そういってきた。
私の隣の隣のロッカーを使っているY君のにおい。。Y君は風呂にはいらない、服も2、3日、着っぱなし。たしかにににおっている。
私が、Y君と出会ったのが、冬で、そのころはまだY君の服のにおいはさほどしなかったけど、季節が夏になり、どんどんにおってくる。じわじわにおってくる。
じわじわとにおってきたので、私もY君になんか服、臭いよというきっかけを逃してしまった。
それに、慣れてしまえば、Y君のにおいも、Y君の存在証明のようで、なぜか愛着がわくから不思議。
マネージャーのところからもどってきた私に、Y君は、僕においますか?と聞いてくる。会話が聞こえていたよう。
いやー私はそんなに臭いとはおもわないけど、ほかのお客さんから苦情がはいったんだってさ。
それから、スポーツジムに一緒に行くときは、私の家でまず、Y君は来ている服を脱いで、着替えて、数日分のY君の汚れた下着や服を私の洗濯乾燥機でいれてからスポーツジムに行くことになった。
スポーツジムからもどってくると、Y君の洗濯物は乾いて、それを取り出し、袋にいれるY君。私なら数十秒でできるこの作業、洗濯槽から下着や服を、ランドリーバックにいれるこの作業。Y君はなぜか10分以上かかる。時には15分もかかることがる。
なぜ、そんなに時間がかかるの?と一度聞いてみたら。
すべての下着と福の数を数えているんですとのこと。僕は曜日によって着るTシャツを決めているんです。
「野菜を買うのと、テレビを買うのは全然違うんです」
Y君の就職が決まったということで、それをお祝いしようと、近くのファミリーレストランへ。
ピザとハンバーグを注文。
もくもくと食べるY君。私としては、食べながらいろいろY君と話しをしたいとおもうんだけど、Y君は食べることに集中しているようで、私の会話の問いかけにも反応がなし。
おいしいですか?と何度か聞いたら、やっと、おいしいですと返事が返ってきた。
もくもくとおいしそうに食べるので、外食はいつぶりですか?と聞いてみる。
すると、Y君は、はじめてです。はじめて?と私が聞き直すと、しばらくの間があって、いや違います。夜間高校に通っていた時に、クラスのみんなに先生が焼肉をごちそうしてくれるということで、焼き肉食べ放題にいきました。それ以来です。
その半年後、同じファミレス。
Y君は工場に就職したものの、半年で退職。
遅刻が何度注意されてもなおらない。何度注意してもなおらないので町工場の社長になぐられて、前歯が1本おれた。それで退職。
今は、派遣会社に登録して日雇いで働いているとのこと。
日雇いではなくて、正社員で働けるよう就職活動したらどう?と私が提案すると、Y君は
日雇いなら僕でも雇ってもらえますけど、正社員とかだと無理なんです。考えてみてください。スーパーで野菜を買うのと、電気店でテレビを買うのは違うですよね。野菜ぐらいなら、あまり考えずにこれ買おうってなりますけど、テレビとか高額商品だと、これをかっていいものか、機種や性能はこれでいいのかって考えてから買いますよね。
Y君が、そんなことを考えていたとは予想もしなかったので、驚いて、そして、ななぜか胸が痛くなった。
「母がなくなりました。」
それから数年後、Y君から母がなくなりましたと電話があった。しばらくは今住んでいる公営住宅に住めますけども、ここは母名義で借りているので、1年後でていかないといけません。
なんとか、住み続ける手段はないかといろいろ調べたんです。とY君。
公営住宅の契約書を見ると、僕が障碍者手帳をとれば、これからも住み続けることができるみたいなんです。
でも、やっぱり障碍者手帳ととるのはなんか抵抗があるんです。祖父もあまりいい顔しないんです。
障碍者手帳をとってもとらなくても、Y君はY君のままなんだし、障碍者手帳をとったから障碍者になるんじゃなくて、手帳をとってもとらなくても変わらないと思うよ。
それに自分が障碍者手帳をもっているかどうかは、自分が言わないかぎり、だれにも知られないと思うよ。とればいいんじゃないの?と私。
半年後、Y君は私の家にきて、うれしそうに、すこし厚めの紙切れを手渡してくれた。精神障碍者手帳3級がとれましたとうれしそうなY君。私は受け取ったそのY君の手帳を、私のポケットにまいながら
ありがとうもらっとくわ。と言ってみる。
今まで、私の会話の中でわざとボケてみても、それを額面どおりうけとって、全然笑わなかったY君が、いやいや、さしあげるんじゃないんです。僕の手帳なんです。と笑いながら私のボケにツッコミをいれてくれた。
アスペルガー、ジヘイショウスペクトラム、発達障害。それがY君の障害名。
あれから2年がたち、Y君も29歳。週に2日、スポーツジムに一緒にいっている。私の自宅で待ち合わせをするも、やっぱり、出会った時のように、1時間の遅刻はあたりまえ。なぜ、遅刻するの?ときいてみたら、家をでるときに、祖父にはなしかけられて、それで話しこんでしまいましたとのこと。
祖父と話し込んでなぜ遅刻してしまうのかいまだに、理解できないけども、それが発達障害というもの。
障害というものは、治らないから障害。薬を飲んで治るものではない。
手のない人に握手をしようと手をだして向こうが手をださなくてもおこったりはしない。相手は手がないのだから。
うしろから話しかけて、こちらを無視する耳の聞こえない人におこったりもしない、なぜなら相手は耳がきこえないのだから。
そうかそれが障害っていうものなのね、時間がまもれないY君におこったりはしない、なぜなら彼は発達障碍者だから。
それに最近ようやく気付いた私。
そんなY君は、私にとってよきガイドヘルパー。目の見えない私をしっかりと週に2日スポーツジムにつれていってくれる。ありがたい。
以上
第56回NHK障害福祉賞 体験作文 入選作品
いつかきっと大丈夫になるので。
二〇一四年高校二年生の夏、両親に兄とともに大学病院に連れていかれた。兄が自動車学校で視野が狭いことを指摘され、地元の眼科にいったところ、病気の疑いがあると言われたそうだ。そんなこんなで私も大学病院で検査を受けることになったが、理由もよく聞かず、「学校休んでまでしなきゃいけないことなの?」と腹を立てていた。長い待ち時間ずっとスマホで音楽を聴いていたのを覚えている。初めてする検査はとても長く苦痛で、さらに機嫌が悪くなった。そして最後に診察、「やっと帰れる」という軽い気持ちしか持っていなかったが、そこで障害等級二級だと言われた。病名は「網膜色素変性症」。その時は特に、いやむしろ全く悲しい気持ちにならなかった。まず信じられなかった。今までごく普通にみんなと同じように生活してきたのだから。「きっとこれからも今まで通りで大丈夫」という変な自信があった。まだ病気について、これからの将来についての想像がついてなかったのだ。
それからというもの母から、障害を理由に禁止される物事が増えた。それに対し反抗心が芽生え、母のことが鬱陶しくてたまらなかった。今まではその症状を病気とわかっていなかっただけの話で、急に症状が出るようになったわけではなかった。病名がついた。ただそれだのことだった。だからこそ、みんなと同じようにさせてもらえないことが辛《つら》く、周りと違うと言い聞かせられているようで、当時の私にはその事実を受け止めることすらできなかった。
二〇一五年高校三年生になり、進路を決める時期になった。私は就職を選び、障害のことは一切伝えない状態で志望する企業への就職がきまった。が、就職後、周りと同じようにできないという壁に何度もぶつかった。はじめは運転ができないということだ。視力の面では問題がないため、免許は何とか取得できた。車まで買ってもらったが、いくら練習しても危ない運転をしてしまう。そして視野が狭いこと、暗いところが見えない「夜盲症」という症状があることを考え、運転は控えることにした。
障害を受け入れられていない私にはその説明を会社にも友人にもできることもなく、その場しのぎのごまかしをしていた。同級生たちは車を持ったことで、自由に行動するようになっていた。うらやましさを感じるとともに、劣等感を抱くようになった。それから障害者であることを自覚せざるを得ないことがたびたび起こった。病気であることを知らない周りから見れば、私の当時の症状はどんくさいやドジと言われ、「あほやろ」と笑って済まされるようなことだった。ガラス扉があることがわからず激突する、足元の物が見えず何度もつまずく、落とし物をしても見つけられない、人にぶつかる、など小さいことだが、たくさんあった。冗談で言われることでも、馬鹿にされたり怒られたり。
人前でそういった症状が出るたびに私はそれを「失敗」として数え、「また失敗してしまった」と自分を責めるようになった。失敗をしないために外に出るときはとても注意を払っていたし、いつも気を張り詰めていた。それでも失敗をしてしまう。その瞬間に心臓がドクドク、冷や汗が出て、失敗をしたということで頭がいっぱいになる。他人からすれば、私の失敗なんて一日のごく僅《わず》かな時間で記憶にも残らないことだったのだろう。私にとってはその数分、数秒のことで一日の全てが「だめな日」になった。私はいつからか一人になると、「死にたい」と声に出してつぶやくようになった。初めは若者にありがちな軽い表現だったが、口ぐせになり、やがて本気でそう思うようになってしまった。
失敗をすることが、人からの視線が集まることがとてつもなくこわい。みんなが敵のように見えた。気の許した友人でさえ、一緒にいることが苦しい。何気ない会話の中でも、将来の話題が出ると、「私はみんなのような将来が待っていない」と思った。「年を重ねていくとともに、さまざまな役割が増え、さまざまなことが出来るようになっていくのに、私はできることが減っていくんだ。まだ健常者のふりができるうちにもう人生をやめてしまいたい」という言葉が頭をよぎる。その気持ちをごまかすために、なるべく将来のことは考えず、「今」のことだけ考えた。
日常的にそんな気持ちを抱えていた私は、自分の心身の状態が徐々に悪化していくことに気付かずにいた。気付いた時には日常に支障をきたす症状が出ていた。疲労感はあるが眠れない、人前で笑えない、涙が止まらない、常に吐き気がする。会社では電話に出ることができなくなった。そして二〇一九年の三月のある日、会社でも吐き気にも襲われ嘔《おう》吐《と》してしまい、早退した。次の日、重たい気持ちでいつものように「死にたい」とつぶやきながら会社までの道を歩いていた。会社に到着し、従業員用の出入り口のドアを開けて中に入ろうとしたとき、過呼吸を起こした。立っていらず、近くにいた同僚に支えられ更衣室に移動した。初めてのことでパニックになり、さらに呼吸がうまくできない。酸素が全身に行かなくなり手足がこれまでにないくらい震えて、ビリビリとした感覚があった。足踏みをしているようなくらい震えた。それが怖くて涙も止まらない。その状態を知った上司から「今日は帰っていいから」と言われ、少し落ち着いてから母に迎えに来てもらい帰宅した。帰ってからも過呼吸を起こした時の感覚が消えず、恐怖でまた涙が止まらなかった。
その後も過呼吸を繰り返すようになった。そしてその日以降、私は会社に行けなくなった。初めはその週だけ休むつもりだったが、休んでも重たくて苦しい気持ちがなくならず、母の提案で心療内科に行くことにした。は不安があった。私だけ逃げてしまう、人に迷惑をかけるのに私は楽な思いをしてしまう。そんな罪悪感があった。
休職中でも、心が休まらなかった。休んでいるのに頭の中が忙しく、ずっと不安と罪悪感と焦燥感に駆られた。初めは仕事のことが気になって仕方なかったが、休めば休むほど、いろいろなことを思い出した。普《ふ》段《だん》は思い出しもしない、学生時代の辛かったことや数々な失敗。全く関係のないことのはずが、全てが繋《つな》がっていて、全てが私に原因があると思った。
休職してから数週間後、テレビをつけていると、ニュースで私と同じ網膜色素変性症の人がインタビューを受けていた。その時、初めて私の病気が難病指定されていることを知った。失明する可能性があると説明をしていて、見ないふりをしていた現実をつきつけられているかのようだった。怖くてたまらなくて、ふとんにくるまり、声を上げて泣いた。治療法もないからどうしようもない。こんなにもどうしようもないことってあるのかと病気を恨んだりもした。
二〇一九年の九月、心療内科でカウンセリングを開始した。自分の内側にある気持ちや弱音を人に話すことは苦手だった。それを認めてしまうようにも思っていたし、人に話しても仕方がないことだとも思っていた。初めのうちは、ただひたすら今までの出来事や辛いことを吐き出すように話して、四十五分間のカウンセリングでずっと泣いていた。でも回を重ねる毎に、少しずつだが心がほぐれ、それに対する自分の考えや思いつく原因を口に出すようになった。先生は、私が仕事をやめたりするときにでも(結局半年後退職した)、「よく決断されましたね」と私には浮かばない言葉をかけてくれた。
何かを途中でやめることは、恥ずかしいことだと思っていた私にとっては、衝撃が起きるくらいの言葉だった。自分のことを許してもいいと言われているようだった。その言葉に触れたことで、一つ一つの決断を「よく考えて出した答えだ」と認めることができた。いいことも悪いことも口に出してみると、頭の中にあるバラバラ、ごちゃごちゃした言葉たちが整理されていくような感覚があった。先生が引き出してくれるからこそ見つけられる自分もいた。気持ちが安定したときは、「なぜよくなったと思いますか?」や、「そう考えられるようになったきっかけは思いつきますか?」など、よくなった、悪くなっただけで終わらせずに、理由を考え自分の傾向を探していくこともできた。誰にでもなんでも言っていいというわけではないけれど、悪い感情でも人に話すと毒が抜けて、前向きな言葉だって出てくることもある。それを知ってからは先生だけでなく、母にも自分の考えや気持ちを言えるようになった。「こうしたい!」だけでなく、なぜそういう考えに至ったのかを話すことで、頭ごなしに否定されることもなく、私の考えに沿った答えを言ってくれるようになった。少しずつ、自分の気持ちを否定せず、寄り添って、整理して、答えを出せるようになっていった。
体調が安定してきた二〇二〇年二月。父の単身赴任先のアメリカへ遊びに行くことになった。疲れやすさは改善されてきていたが、しばらくの間、長時間の外出はしていなかったため不安もあった。
アメリカは皆さんがご存じの通り人口が多い。そんな大勢の中にいると「こんな広い場所で私のことを見ている人なんていないんじゃないか」と思った。全く馴染みのない場所でましてや国も違うから当たり前かもしれないが、人の視線が怖かった私はそれに救われたような気がした。旅行中は休んでいることに対する罪悪感を忘れ、初めてみるものや景色に感動し、心から楽しんだ。それまでは、みんなと同じように働けない自分を否定して、何をしていても心から楽しめていなかった。何気なく行った旅行だったが、思いもしないところで大きな一歩を踏み出すことができていた。
(以下 略 続きは、NHK霜害福祉賞サイトのPDFを読んでね)
障害福祉賞の入選作品は以下のペーじからどうぞ、PDFしかないのがががっかり、テキストでもアップしてほしいね。要望しなくちゃ。
第56回NHK障害福祉賞 入選作品を掲載しました | NHK厚生文化事業団はこちら
47歳と24歳の同じ網膜色素変性症の人が書いた作文です。今47歳の人も、24歳のときには、この作者のように、絶望したのです。そして、結婚をあきらめたのです。
でも、今24歳のこの作者にいいたいのは、目がみえなくなってもなんとか楽しく生きてられること、そして、網膜色素変性症でも結婚してこどもをつくることはできるんです。遺伝形式にもよるけども、こどもに遺伝しない可能性もあるんです。そして、もしこどもに遺伝しても、今の視覚障害者ががんばれば、そのこどもが大人になるときにはもっと暮らしやすい世の中になるんです。もしかしたら治療法も確立してるかもしれません。なので、ぜひ、今を生きてください、そして、将来について、他の動静大と同じように夢みてください。あきらめないでください。
そのことを大きな声で叫びたい。
そして、結婚やこどもをあきらめざるをえなかったとしても、その時は、ハロプロがあるよと伝えたい
モーニング娘。'14 『笑顔の君は太陽さ』(Morning Musume。'14[You bright smile is like the sunshine]) (MV)
今日から仕事始め。昨日の夜にスポーツジムにいったおかげで、今朝はぐっすり眠れて、休みボケというのもない。やっぱり体を動かすて大事だね。
会社帰りにスーパーにたちよる。今日からいつもどおりにヘルパーさんが夕方きてくれるので、調理してもらう食材、野菜を購入。夕方16時30分、の時間。。小さなこどもづれが多いなとおもったら、まだこどもたちは冬休みなのね。
いつものとおり、サービスカウンターに声をかけて、店員さんに欲しい商品をつげて、もってきてもらう。今日はきゅうり1本48円。去年の年末は68円で。いきなり安くなったね。うれしいね。でも1年前はたしか1本38円だったような。もしかしたら正月あけできゅうりがしなっとなっているから、68円を値引きして48円になったのかな?きゅうりがしなっとなっているかわからない私。目の見えない私。網膜色素変性症な私デスペア。店員さんの目利きを信じるしかないね。
家に帰って、しばらくしてヘルパーさんがきてくれたので、さっき買ってきたきゅうり、キャエツ、赤いパプリカを細長くきってもらって、ミツカンかんたん酢をまぶしてもらって、タッパに小分けにする。9つのタッパ。スクリューロックというタッパが9つ。毎日1個ずつたべる。野菜不足解消。
ヘルパーさんの時間があまったので、年末にに届いた郵便物をあけてよみあげてもらう。郵便物の中に冊子があった。なんだろうとおもったら、NHK障害福祉賞、優秀作品集。
どんな作品が優秀賞をとったのと確認してみる。
第56回NHK障害福祉賞 体験作文 落選作品
「インケイに糸くずがついています。」
日本語の中には、文字でもっぱら表現される単語というものがある。それを、いきなり音声で聞くとびっくりする。
スポーツジムのお風呂の脱衣場で、となりのY君が、いきなり私の裸の股間を見て、つぶやく。
つぶやくというのは正確ではなく、ハッキリとY君は私に事実を教えてくれた。まわりには、何名かの裸の男性がいる中でのこの指摘。びっくりする私。
これからお風呂に入るので、その糸くずも洗い流します。私的ありがとう。
その数か月後、同じような場面で、今度は、Y君がこう言ってきた。
どうしてインモウを剃っているのですか?
インケイに糸くずがついていたときも、私は陰毛を剃っていたいたけど、なぜ、今になってそのことを聞いてくるのだろう?ちょっと不思議に思うも。
Y君も散発するでしょ?それと同じで私も陰毛を定期的に散髪してるんです。こうすると、尿のにおいがパンツにつかなくていいんですよ。ぜひY君も陰毛を剃ってみてください。
「ほかのお客様から臭いという苦情がはいっています。」
Y君と時々スポーツジムに一緒に通うようになてから半年後、スポーツジムのマネージャーという人に私だけ呼び出される。
Y君は私とマネージャーから5メートルぐらい離れたところで、こちらの様子をうかがっている。
マネージャーが私に、他のお客からの苦情を伝えてきた。
私への苦情ではなく、Y君の服がにおうという苦情。
そういえば、数週間前、スポーツジムのロッカールームで、高校生らしき若者2人が、なんかくせー、なんかくせーとこちらに向かってではなく、単なる会話の一部として、でも、こちらにむかって、そういってきた。
私の隣の隣のロッカーを使っているY君のにおい。。Y君は風呂にはいらない、服も2、3日、着っぱなし。たしかにににおっている。
私が、Y君と出会ったのが、冬で、そのころはまだY君の服のにおいはさほどしなかったけど、季節が夏になり、どんどんにおってくる。じわじわにおってくる。
じわじわとにおってきたので、私もY君になんか服、臭いよというきっかけを逃してしまった。
それに、慣れてしまえば、Y君のにおいも、Y君の存在証明のようで、なぜか愛着がわくから不思議。
マネージャーのところからもどってきた私に、Y君は、僕においますか?と聞いてくる。会話が聞こえていたよう。
いやー私はそんなに臭いとはおもわないけど、ほかのお客さんから苦情がはいったんだってさ。
それから、スポーツジムに一緒に行くときは、私の家でまず、Y君は来ている服を脱いで、着替えて、数日分のY君の汚れた下着や服を私の洗濯乾燥機でいれてからスポーツジムに行くことになった。
スポーツジムからもどってくると、Y君の洗濯物は乾いて、それを取り出し、袋にいれるY君。私なら数十秒でできるこの作業、洗濯槽から下着や服を、ランドリーバックにいれるこの作業。Y君はなぜか10分以上かかる。時には15分もかかることがる。
なぜ、そんなに時間がかかるの?と一度聞いてみたら。
すべての下着と福の数を数えているんですとのこと。僕は曜日によって着るTシャツを決めているんです。
「野菜を買うのと、テレビを買うのは全然違うんです」
Y君の就職が決まったということで、それをお祝いしようと、近くのファミリーレストランへ。
ピザとハンバーグを注文。
もくもくと食べるY君。私としては、食べながらいろいろY君と話しをしたいとおもうんだけど、Y君は食べることに集中しているようで、私の会話の問いかけにも反応がなし。
おいしいですか?と何度か聞いたら、やっと、おいしいですと返事が返ってきた。
もくもくとおいしそうに食べるので、外食はいつぶりですか?と聞いてみる。
すると、Y君は、はじめてです。はじめて?と私が聞き直すと、しばらくの間があって、いや違います。夜間高校に通っていた時に、クラスのみんなに先生が焼肉をごちそうしてくれるということで、焼き肉食べ放題にいきました。それ以来です。
その半年後、同じファミレス。
Y君は工場に就職したものの、半年で退職。
遅刻が何度注意されてもなおらない。何度注意してもなおらないので町工場の社長になぐられて、前歯が1本おれた。それで退職。
今は、派遣会社に登録して日雇いで働いているとのこと。
日雇いではなくて、正社員で働けるよう就職活動したらどう?と私が提案すると、Y君は
日雇いなら僕でも雇ってもらえますけど、正社員とかだと無理なんです。考えてみてください。スーパーで野菜を買うのと、電気店でテレビを買うのは違うですよね。野菜ぐらいなら、あまり考えずにこれ買おうってなりますけど、テレビとか高額商品だと、これをかっていいものか、機種や性能はこれでいいのかって考えてから買いますよね。
Y君が、そんなことを考えていたとは予想もしなかったので、驚いて、そして、ななぜか胸が痛くなった。
「母がなくなりました。」
それから数年後、Y君から母がなくなりましたと電話があった。しばらくは今住んでいる公営住宅に住めますけども、ここは母名義で借りているので、1年後でていかないといけません。
なんとか、住み続ける手段はないかといろいろ調べたんです。とY君。
公営住宅の契約書を見ると、僕が障碍者手帳をとれば、これからも住み続けることができるみたいなんです。
でも、やっぱり障碍者手帳ととるのはなんか抵抗があるんです。祖父もあまりいい顔しないんです。
障碍者手帳をとってもとらなくても、Y君はY君のままなんだし、障碍者手帳をとったから障碍者になるんじゃなくて、手帳をとってもとらなくても変わらないと思うよ。
それに自分が障碍者手帳をもっているかどうかは、自分が言わないかぎり、だれにも知られないと思うよ。とればいいんじゃないの?と私。
半年後、Y君は私の家にきて、うれしそうに、すこし厚めの紙切れを手渡してくれた。精神障碍者手帳3級がとれましたとうれしそうなY君。私は受け取ったそのY君の手帳を、私のポケットにまいながら
ありがとうもらっとくわ。と言ってみる。
今まで、私の会話の中でわざとボケてみても、それを額面どおりうけとって、全然笑わなかったY君が、いやいや、さしあげるんじゃないんです。僕の手帳なんです。と笑いながら私のボケにツッコミをいれてくれた。
アスペルガー、ジヘイショウスペクトラム、発達障害。それがY君の障害名。
あれから2年がたち、Y君も29歳。週に2日、スポーツジムに一緒にいっている。私の自宅で待ち合わせをするも、やっぱり、出会った時のように、1時間の遅刻はあたりまえ。なぜ、遅刻するの?ときいてみたら、家をでるときに、祖父にはなしかけられて、それで話しこんでしまいましたとのこと。
祖父と話し込んでなぜ遅刻してしまうのかいまだに、理解できないけども、それが発達障害というもの。
障害というものは、治らないから障害。薬を飲んで治るものではない。
手のない人に握手をしようと手をだして向こうが手をださなくてもおこったりはしない。相手は手がないのだから。
うしろから話しかけて、こちらを無視する耳の聞こえない人におこったりもしない、なぜなら相手は耳がきこえないのだから。
そうかそれが障害っていうものなのね、時間がまもれないY君におこったりはしない、なぜなら彼は発達障碍者だから。
それに最近ようやく気付いた私。
そんなY君は、私にとってよきガイドヘルパー。目の見えない私をしっかりと週に2日スポーツジムにつれていってくれる。ありがたい。
以上
第56回NHK障害福祉賞 体験作文 入選作品
いつかきっと大丈夫になるので。
二〇一四年高校二年生の夏、両親に兄とともに大学病院に連れていかれた。兄が自動車学校で視野が狭いことを指摘され、地元の眼科にいったところ、病気の疑いがあると言われたそうだ。そんなこんなで私も大学病院で検査を受けることになったが、理由もよく聞かず、「学校休んでまでしなきゃいけないことなの?」と腹を立てていた。長い待ち時間ずっとスマホで音楽を聴いていたのを覚えている。初めてする検査はとても長く苦痛で、さらに機嫌が悪くなった。そして最後に診察、「やっと帰れる」という軽い気持ちしか持っていなかったが、そこで障害等級二級だと言われた。病名は「網膜色素変性症」。その時は特に、いやむしろ全く悲しい気持ちにならなかった。まず信じられなかった。今までごく普通にみんなと同じように生活してきたのだから。「きっとこれからも今まで通りで大丈夫」という変な自信があった。まだ病気について、これからの将来についての想像がついてなかったのだ。
それからというもの母から、障害を理由に禁止される物事が増えた。それに対し反抗心が芽生え、母のことが鬱陶しくてたまらなかった。今まではその症状を病気とわかっていなかっただけの話で、急に症状が出るようになったわけではなかった。病名がついた。ただそれだのことだった。だからこそ、みんなと同じようにさせてもらえないことが辛《つら》く、周りと違うと言い聞かせられているようで、当時の私にはその事実を受け止めることすらできなかった。
二〇一五年高校三年生になり、進路を決める時期になった。私は就職を選び、障害のことは一切伝えない状態で志望する企業への就職がきまった。が、就職後、周りと同じようにできないという壁に何度もぶつかった。はじめは運転ができないということだ。視力の面では問題がないため、免許は何とか取得できた。車まで買ってもらったが、いくら練習しても危ない運転をしてしまう。そして視野が狭いこと、暗いところが見えない「夜盲症」という症状があることを考え、運転は控えることにした。
障害を受け入れられていない私にはその説明を会社にも友人にもできることもなく、その場しのぎのごまかしをしていた。同級生たちは車を持ったことで、自由に行動するようになっていた。うらやましさを感じるとともに、劣等感を抱くようになった。それから障害者であることを自覚せざるを得ないことがたびたび起こった。病気であることを知らない周りから見れば、私の当時の症状はどんくさいやドジと言われ、「あほやろ」と笑って済まされるようなことだった。ガラス扉があることがわからず激突する、足元の物が見えず何度もつまずく、落とし物をしても見つけられない、人にぶつかる、など小さいことだが、たくさんあった。冗談で言われることでも、馬鹿にされたり怒られたり。
人前でそういった症状が出るたびに私はそれを「失敗」として数え、「また失敗してしまった」と自分を責めるようになった。失敗をしないために外に出るときはとても注意を払っていたし、いつも気を張り詰めていた。それでも失敗をしてしまう。その瞬間に心臓がドクドク、冷や汗が出て、失敗をしたということで頭がいっぱいになる。他人からすれば、私の失敗なんて一日のごく僅《わず》かな時間で記憶にも残らないことだったのだろう。私にとってはその数分、数秒のことで一日の全てが「だめな日」になった。私はいつからか一人になると、「死にたい」と声に出してつぶやくようになった。初めは若者にありがちな軽い表現だったが、口ぐせになり、やがて本気でそう思うようになってしまった。
失敗をすることが、人からの視線が集まることがとてつもなくこわい。みんなが敵のように見えた。気の許した友人でさえ、一緒にいることが苦しい。何気ない会話の中でも、将来の話題が出ると、「私はみんなのような将来が待っていない」と思った。「年を重ねていくとともに、さまざまな役割が増え、さまざまなことが出来るようになっていくのに、私はできることが減っていくんだ。まだ健常者のふりができるうちにもう人生をやめてしまいたい」という言葉が頭をよぎる。その気持ちをごまかすために、なるべく将来のことは考えず、「今」のことだけ考えた。
日常的にそんな気持ちを抱えていた私は、自分の心身の状態が徐々に悪化していくことに気付かずにいた。気付いた時には日常に支障をきたす症状が出ていた。疲労感はあるが眠れない、人前で笑えない、涙が止まらない、常に吐き気がする。会社では電話に出ることができなくなった。そして二〇一九年の三月のある日、会社でも吐き気にも襲われ嘔《おう》吐《と》してしまい、早退した。次の日、重たい気持ちでいつものように「死にたい」とつぶやきながら会社までの道を歩いていた。会社に到着し、従業員用の出入り口のドアを開けて中に入ろうとしたとき、過呼吸を起こした。立っていらず、近くにいた同僚に支えられ更衣室に移動した。初めてのことでパニックになり、さらに呼吸がうまくできない。酸素が全身に行かなくなり手足がこれまでにないくらい震えて、ビリビリとした感覚があった。足踏みをしているようなくらい震えた。それが怖くて涙も止まらない。その状態を知った上司から「今日は帰っていいから」と言われ、少し落ち着いてから母に迎えに来てもらい帰宅した。帰ってからも過呼吸を起こした時の感覚が消えず、恐怖でまた涙が止まらなかった。
その後も過呼吸を繰り返すようになった。そしてその日以降、私は会社に行けなくなった。初めはその週だけ休むつもりだったが、休んでも重たくて苦しい気持ちがなくならず、母の提案で心療内科に行くことにした。は不安があった。私だけ逃げてしまう、人に迷惑をかけるのに私は楽な思いをしてしまう。そんな罪悪感があった。
休職中でも、心が休まらなかった。休んでいるのに頭の中が忙しく、ずっと不安と罪悪感と焦燥感に駆られた。初めは仕事のことが気になって仕方なかったが、休めば休むほど、いろいろなことを思い出した。普《ふ》段《だん》は思い出しもしない、学生時代の辛かったことや数々な失敗。全く関係のないことのはずが、全てが繋《つな》がっていて、全てが私に原因があると思った。
休職してから数週間後、テレビをつけていると、ニュースで私と同じ網膜色素変性症の人がインタビューを受けていた。その時、初めて私の病気が難病指定されていることを知った。失明する可能性があると説明をしていて、見ないふりをしていた現実をつきつけられているかのようだった。怖くてたまらなくて、ふとんにくるまり、声を上げて泣いた。治療法もないからどうしようもない。こんなにもどうしようもないことってあるのかと病気を恨んだりもした。
二〇一九年の九月、心療内科でカウンセリングを開始した。自分の内側にある気持ちや弱音を人に話すことは苦手だった。それを認めてしまうようにも思っていたし、人に話しても仕方がないことだとも思っていた。初めのうちは、ただひたすら今までの出来事や辛いことを吐き出すように話して、四十五分間のカウンセリングでずっと泣いていた。でも回を重ねる毎に、少しずつだが心がほぐれ、それに対する自分の考えや思いつく原因を口に出すようになった。先生は、私が仕事をやめたりするときにでも(結局半年後退職した)、「よく決断されましたね」と私には浮かばない言葉をかけてくれた。
何かを途中でやめることは、恥ずかしいことだと思っていた私にとっては、衝撃が起きるくらいの言葉だった。自分のことを許してもいいと言われているようだった。その言葉に触れたことで、一つ一つの決断を「よく考えて出した答えだ」と認めることができた。いいことも悪いことも口に出してみると、頭の中にあるバラバラ、ごちゃごちゃした言葉たちが整理されていくような感覚があった。先生が引き出してくれるからこそ見つけられる自分もいた。気持ちが安定したときは、「なぜよくなったと思いますか?」や、「そう考えられるようになったきっかけは思いつきますか?」など、よくなった、悪くなっただけで終わらせずに、理由を考え自分の傾向を探していくこともできた。誰にでもなんでも言っていいというわけではないけれど、悪い感情でも人に話すと毒が抜けて、前向きな言葉だって出てくることもある。それを知ってからは先生だけでなく、母にも自分の考えや気持ちを言えるようになった。「こうしたい!」だけでなく、なぜそういう考えに至ったのかを話すことで、頭ごなしに否定されることもなく、私の考えに沿った答えを言ってくれるようになった。少しずつ、自分の気持ちを否定せず、寄り添って、整理して、答えを出せるようになっていった。
体調が安定してきた二〇二〇年二月。父の単身赴任先のアメリカへ遊びに行くことになった。疲れやすさは改善されてきていたが、しばらくの間、長時間の外出はしていなかったため不安もあった。
アメリカは皆さんがご存じの通り人口が多い。そんな大勢の中にいると「こんな広い場所で私のことを見ている人なんていないんじゃないか」と思った。全く馴染みのない場所でましてや国も違うから当たり前かもしれないが、人の視線が怖かった私はそれに救われたような気がした。旅行中は休んでいることに対する罪悪感を忘れ、初めてみるものや景色に感動し、心から楽しんだ。それまでは、みんなと同じように働けない自分を否定して、何をしていても心から楽しめていなかった。何気なく行った旅行だったが、思いもしないところで大きな一歩を踏み出すことができていた。
(以下 略 続きは、NHK霜害福祉賞サイトのPDFを読んでね)
障害福祉賞の入選作品は以下のペーじからどうぞ、PDFしかないのがががっかり、テキストでもアップしてほしいね。要望しなくちゃ。
第56回NHK障害福祉賞 入選作品を掲載しました | NHK厚生文化事業団はこちら
47歳と24歳の同じ網膜色素変性症の人が書いた作文です。今47歳の人も、24歳のときには、この作者のように、絶望したのです。そして、結婚をあきらめたのです。
でも、今24歳のこの作者にいいたいのは、目がみえなくなってもなんとか楽しく生きてられること、そして、網膜色素変性症でも結婚してこどもをつくることはできるんです。遺伝形式にもよるけども、こどもに遺伝しない可能性もあるんです。そして、もしこどもに遺伝しても、今の視覚障害者ががんばれば、そのこどもが大人になるときにはもっと暮らしやすい世の中になるんです。もしかしたら治療法も確立してるかもしれません。なので、ぜひ、今を生きてください、そして、将来について、他の動静大と同じように夢みてください。あきらめないでください。
そのことを大きな声で叫びたい。
そして、結婚やこどもをあきらめざるをえなかったとしても、その時は、ハロプロがあるよと伝えたい
モーニング娘。'14 『笑顔の君は太陽さ』(Morning Musume。'14[You bright smile is like the sunshine]) (MV)