弱視もつらいよ
究極の選択というのが昔はやった。うんこあじのカレーとカレー味のうんこ。結局どちらもイヤなんだよな。
目の見えない私。網膜色素変性症な私デスペア。ときどき聞かれたり、あるいは一人で考えたりする。目がみえないか耳が聞こえないか、あなたならどっちを選ぶ?あるいは、目がみえないか、足が不自由化、あなたならどっち。
私はまったく考えずに、こういう。そりゃもちろん、目が見えないことを選ぶよ。だって、耳が聞こえないと、宮本佳林の歌声も聞こえないし、足がわるいと、自由にコンサートにもいけないじゃん。
でも、これは私がすでに目がみえないから。目が見える健常者に聞けば、かならずといっていいほど、目が見えないことは選ばない。みなさんのまわりの人に聞いてみてください。絶対、目が見えないことじゃないほうを選びます。
私は、もう普通の判断、選択はできなくなっているのね。目が見えないことが当たり前になっている。
そんな今日、夜に、目の見えない人、目の見えにくい人たちで働いている人のオンラインミーテイングがあった。話題は、仕事のなやみ。
全盲の人の仕事の悩みで多いのは、仕事がない、仕事をわりふってもらえないということ。
逆に、弱視の人のなやみは、仕事量が多い、こなせられないということ。
同じ視覚障害者なのに、ここまで悩みが違うのね。
思い出してみれば、私も弱視のころ、視野狭窄がかなりすすんではいるものの、視力は0.8ぐらいあったとき。普通の人と同じ仕事量。でも、それをこなすには倍の時間がかかる。視野がせまいので、時間がかかる。そして、かなり目がつかれる。
その時私は体重が1年ぐらいで、7キロぐらい減った。72キロぐらいが65キロ。
弱視は、まわりからみれば、健常者とかわらないように見えるらしい。なので、仕事量の配慮はしてもらえない。近視の人がめがねをかければ、普通になるでしょと同じ考えで、机の上に傾向スタンドをおきさえすれば、普通の人と同じでしょ?
いいやいやそううじゃないのよね。視野狭窄っていうのは、めがねをかけたり、電気スタンドをつかえば、健常者になれるってわけじゃないのよね。
このことを、まわりは理解できないのよね。
弱視の人が、仕事量がおおくて、さばききれない、たすけをもとめようにも、まわりも手一杯のようで、助けをもとめられない。
そう嘆いているのを聞いて。私もかつてはそうだったなと思った。
さて、あなたならどちらを選びますか?
弱視で仕事量が多くてこなせられない常に仕事をあかかえている状態と、目が見えなくて仕事がない状態。
この質問も私は答えられない。