カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

ぶらり、山科疎水。つづき。

2015-08-12 11:51:33 | 京都徘徊記
山科疎水探索オフミーティングの続きです。
7月12日ですが、この日も猛暑日。駅員3さん、すーさんはすでに
大津から山越えなどして歩いて来られていますが、お二人とも
健脚なので、ちょっと寄り道にお誘いしました。



山科疎水には何本か(14本?)の橋が架かっているが、中でも
ひときわ異彩を放っているのがこの正嫡橋と呼ばれる本圀寺参道。
この橋だけ朱塗りの欄干がある。



石碑には「南無妙法蓮華経」と書かれているのか、日蓮宗ですね。
750年の歴史がある、大本山『大光山 本圀寺(ほんこくじ)』
歴史があるとはいえ、ここに移転したのは1971(昭和46)年のこと。
私が高校へ通っていた頃にはまだ出来ていなかった。

この寺もまた時代に翻弄され移転を繰り返したようですが、この地に
来る直前は西本願寺の北側、六条に広大な寺領を持っていたようです。
日蓮宗は身延山久遠寺が総本山、寺院数は5200寺の巨大な宗教グループ。
7寺の大本山があり、本圀寺はそのひとつです。


〈開運門〉
出陣門とも呼ばれ、加藤清正の寄進による。
寺内には清正の墓もあります。


〈仁王門〉?
境内の真ん中に建っている門、ガラス張りの中に金ぴかの
金剛力士像が・・・あれ?こんなだったけな?





これでも充分異色な像だが、以前は・・・

私が以前この寺を訪ねたのは6年前、ちょうどNHK大河ドラマで
「天地人」を放映していた時ね、番組最後にやる紀行で、ここが
ゆかりの地として紹介された。上杉景勝と直江兼続が上洛した時の
宿舎としてね。実際は移転前の六条にあった本圀寺ですが。



1345(貞和元)年に鎌倉から京都に移った本國寺は、足利氏の庇護を
受け、北は今の五条通、南は七条通、東は堀川、西は大宮という
大寺院だったようですが、天文法華の乱により焼失。
後に再建され、織田信長が擁した足利義昭を入洛させ「六条御所」
となるものの、本國寺の変を機に信長が解体、二条城建築に用いた。
豊臣秀吉にも守られるが、西本願寺建立のため南半分を取られる。
徳川家康は本国寺の寺領を安堵。徳川光圀との縁があり寺名を
圀の文字をもらって、本國寺から本圀寺に改名。
1788(天明8)年の天明の大火では経蔵を除く全ての伽藍が焼失。
経蔵は唯一、重要文化財として現在の寺に現存しています。


〈鐘楼〉
豊臣秀吉の姉が寄進した大梵鐘・・・あれ、これも金ぴかのはず?


        〈清正宮〉


なんだかな~、折角案内したのに地味になってしまって。



龍さんは何とか健在。執拗にまとわりついています。



実はねぇ、6年前に訪ねた時はこうだったのですよぉ。









絶対驚いてもらえる、機会があれば誰か案内しようと思っていたのに
当日ははっきり思い出せず、こんなんぢゃなかったよな・・・って!
帰って以前の姿を確かめたら、あら残念。
調べたら何年か前に、104世伊藤日慈貫首に代わった際、
金ぴかを止めたそうです・・・ま、気持ちも分かるけど。(^_^ゞ

つまらない寄り道をさせてしまったかも知れませんね。スイマセン


さて、私はここでもう限界?第2トンネルの東口(入口)です。





扁額には井上馨の揮毫(きごう)による論語の一節
「仁以山悦 智為水歓」が彫られています。
(じんはやまをもってよろこび ちはみずとなるをよろこぶ)
仁者は知識を尊び、智者は水の流れをみて心の糧とする



「扁額でたどる琵琶湖疎水」も推奨されています。
ちなみにこの第2トンネルの出口、西口には
西郷従道(西郷隆盛の弟・初代海軍大臣)による「随山到水源」。
西口はまだ観ていないので、ご一緒したかったのですが
無理をせずここでお別れすることにしました。
猛暑の中、家にまで辿り着いたら12000歩。普段400歩やのに・・・

最後にレトロ建築もちらっと・・・


〈旧鶴巻邸(栗原邸)〉

1929(昭和4)年に京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)
校長・染織家でもある鶴巻鶴一氏の邸宅として建設されたもので
設計者・本野精吾氏が当時の最先端建築技術「中村鎮式コンクリート
ブロック造」で建てたものです。



外から観るだけではイマイチ分からないのですが、年に1回(5月頃?)
一般公開(入場料1000円)されるようです。
機会があれば訪ねてみたいです。リンク『レトロな建物を訪ねて』



2015.7/12、本圀寺にて。