☆手の記憶を遺して逝った母
Aujourd'hui, maman est morte.
――Albert Camus『L'etranger』
今日、ママンが死んだ。
――アルベール・カミュ『異邦人』
ぼくの2011年は死のリフレインのなかにある。3月の東日本大震災で多くの人々の死を間接的であれ目の当たりにした。7月にむぎが逝き、ついひと月前には母の妹の叔母を送った。
そして、今日、母が死んだ――Aujourd'hui, maman est morte.
10月の誕生日で90を迎えたばかりの母だった。
午前0時06分、死に目には会えなかったが、搬送された病院で夕方までは一緒に時間を過ごしている。長い間、母の手を握ることができた。長い指のきれいな手だった。ぼくが悪戯っぽく強弱のリズムで握ると、苦しい息の下から同じ動作で応じてくれた。
90の老母と66の愚息の最後の親子の遊びだった。24歳だった母がみどり児のぼくの小さな手を握り、同じように遊んでくれたことがあったかもしれない。
夜、末の妹からのケータイで、「今夜危ない」という報せを受け、クルマで東名道を横浜町田インターを入ったところで、弟から、「いま、心臓が止まった」と連絡が入った。
ぼく以外の三人の弟妹たちは、死に目に立ち会ってくれた。もうそれだけでじゅうぶんだった。90という母の年齢から、いつ、訃報が舞い込んでもおかしくないと常日頃から臍を固めていた。最期の別れにはじゅうぶんすぎる時間を、運命は与えてくれた。
☆死のリフレインに満ちて
急に老いを深めたシェラにかまけているうちにむぎの不調を見落として呆気なくむぎを喪い、いままた、悪性腫瘍に魅入られたシェラよりも先に動脈瘤で突如として老母を彼岸へと送る羽目になった。ぼくの2011年は、やっぱり死の色が濃厚な年である。
シェラを人間の年齢に換算したら母の90歳には届かないまでも80も半ばの年齢であるという。やはり、限りある時間が残り少なくなっている現実を直視し、覚悟を決めている。
母の動脈瘤の破裂から心臓が停止するプロセスが実に珍しいために、病院から「医学の発展のために」と、解剖を乞われた。即答できずに迷う弟や妹たちを説得して、解剖を承諾した。死してのち社会の役に立つと、母は喜んでくれるはずである。死してなお医学の進歩に役立つ母をぼくたちも誇りに思う。
明日、解剖後に納棺し、明後日に荼毘に付す。母の遺言により、通夜、告別式といった葬祭の類は一切排し、家族だけでひっそりと送ることになっている。「死に顔なんか家族以外の誰にも見られたくない」という母の強烈な遺志を継いでの「家族葬」である。わが母ながらあっぱれだ。
☆生きようという意志はあれども
今日、シェラを病院へ連れていった。腫瘍の状態をチェックしていただくためだった。投与しているステロイドの副作用で、シェラは四六時中、食べ物を欲しがっている。悲痛なまでの姿である。対応する家人もほとほと疲れ果て、電話でお医者さんに相談したところ、「連れてきてください」ということになった。
腫瘍の様子はほとんど変化がない。この上は、腫瘍を小さくさせる効果を狙うことから一段目標を下げてシェラの負担を楽にするための薬に切り替えることにした。
ものを食べる、水を飲むという行為には、いまのところ支障がないようだが、気道を圧迫しはじめたのか、暑いころのように呼吸が荒くなり、ときとして、ヒューヒューという異音も混じりはじめた。
毛艶は決して老犬のそれではない。顔も崩れていない。だが、足腰は確実に衰えを増している。しかも、足早に……。
いまはまだ「生きよう」とする意志を捨ててはいない。それだけが支えである。
昨日、臨終を数時間後に控えた老母が、腹部の痛みに耐えながら、「まだ、あと10年は生きないと!」と繰り返し呟いていた。「生きよう」という意志だけで生命の灯が消えないほど現実は甘くない。それでも、遺される者にはどれだけ心強いかはかりしれない。
愛するものをまとめて喪う年――これもまた憂き世の現実である。
Aujourd'hui, maman est morte.
――Albert Camus『L'etranger』
今日、ママンが死んだ。
――アルベール・カミュ『異邦人』
ぼくの2011年は死のリフレインのなかにある。3月の東日本大震災で多くの人々の死を間接的であれ目の当たりにした。7月にむぎが逝き、ついひと月前には母の妹の叔母を送った。
そして、今日、母が死んだ――Aujourd'hui, maman est morte.
10月の誕生日で90を迎えたばかりの母だった。
午前0時06分、死に目には会えなかったが、搬送された病院で夕方までは一緒に時間を過ごしている。長い間、母の手を握ることができた。長い指のきれいな手だった。ぼくが悪戯っぽく強弱のリズムで握ると、苦しい息の下から同じ動作で応じてくれた。
90の老母と66の愚息の最後の親子の遊びだった。24歳だった母がみどり児のぼくの小さな手を握り、同じように遊んでくれたことがあったかもしれない。
夜、末の妹からのケータイで、「今夜危ない」という報せを受け、クルマで東名道を横浜町田インターを入ったところで、弟から、「いま、心臓が止まった」と連絡が入った。
ぼく以外の三人の弟妹たちは、死に目に立ち会ってくれた。もうそれだけでじゅうぶんだった。90という母の年齢から、いつ、訃報が舞い込んでもおかしくないと常日頃から臍を固めていた。最期の別れにはじゅうぶんすぎる時間を、運命は与えてくれた。
☆死のリフレインに満ちて
急に老いを深めたシェラにかまけているうちにむぎの不調を見落として呆気なくむぎを喪い、いままた、悪性腫瘍に魅入られたシェラよりも先に動脈瘤で突如として老母を彼岸へと送る羽目になった。ぼくの2011年は、やっぱり死の色が濃厚な年である。
シェラを人間の年齢に換算したら母の90歳には届かないまでも80も半ばの年齢であるという。やはり、限りある時間が残り少なくなっている現実を直視し、覚悟を決めている。
母の動脈瘤の破裂から心臓が停止するプロセスが実に珍しいために、病院から「医学の発展のために」と、解剖を乞われた。即答できずに迷う弟や妹たちを説得して、解剖を承諾した。死してのち社会の役に立つと、母は喜んでくれるはずである。死してなお医学の進歩に役立つ母をぼくたちも誇りに思う。
明日、解剖後に納棺し、明後日に荼毘に付す。母の遺言により、通夜、告別式といった葬祭の類は一切排し、家族だけでひっそりと送ることになっている。「死に顔なんか家族以外の誰にも見られたくない」という母の強烈な遺志を継いでの「家族葬」である。わが母ながらあっぱれだ。
☆生きようという意志はあれども
今日、シェラを病院へ連れていった。腫瘍の状態をチェックしていただくためだった。投与しているステロイドの副作用で、シェラは四六時中、食べ物を欲しがっている。悲痛なまでの姿である。対応する家人もほとほと疲れ果て、電話でお医者さんに相談したところ、「連れてきてください」ということになった。
腫瘍の様子はほとんど変化がない。この上は、腫瘍を小さくさせる効果を狙うことから一段目標を下げてシェラの負担を楽にするための薬に切り替えることにした。
ものを食べる、水を飲むという行為には、いまのところ支障がないようだが、気道を圧迫しはじめたのか、暑いころのように呼吸が荒くなり、ときとして、ヒューヒューという異音も混じりはじめた。
毛艶は決して老犬のそれではない。顔も崩れていない。だが、足腰は確実に衰えを増している。しかも、足早に……。
いまはまだ「生きよう」とする意志を捨ててはいない。それだけが支えである。
昨日、臨終を数時間後に控えた老母が、腹部の痛みに耐えながら、「まだ、あと10年は生きないと!」と繰り返し呟いていた。「生きよう」という意志だけで生命の灯が消えないほど現実は甘くない。それでも、遺される者にはどれだけ心強いかはかりしれない。
愛するものをまとめて喪う年――これもまた憂き世の現実である。
私の母も今年の5月に亡くなりました。
享年90歳でした。
肺炎と心不全の為に緊急入院し、10日後に亡くなりました。
老犬のさくらまで逝ってしまったら私は立ち直れないと思い、老犬介護を続けています。
老いの先に必ずやって来る死は「寿命」だと分かっていながらも、一日でも長く一緒にいたいと思っています。
お母様のご冥福を心よりお祈りいたします。
母上様もぼくの老母と同じ90歳でしたか。
この世代は太平洋戦争で苦労し、戦後の大変な時代に子育てを強いられています。
「お疲れさまでした」と心からのねぎらいを捧げたいと思います。
母上様は肺炎が引き金でしたか。
わが母は動脈瘤でしたので、病院へ搬送されてから15時間後の臨終でした。
痛みを訴えていたので、何日もかからずに送ってやることができてむしろホッとしています。
さくらちゃんと一日でも長くいたいというお気持ち、ぼくもまた同じです。
一日一日がとっても大切に思えてきます。
本来、人はそうやって生きていかなくてはいけないのですよね。
老犬から、生きていることへ感謝する心を教わりました。