ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

続・大和田街道3

2017年09月05日 21時03分34秒 | ウォーキング

さあ、道を間違えているので、
神崎川を千船大橋で渡った後は、
下流の千北橋を目指して
道を修正していきましょう。

この道は河川敷も大きな
コンクリートの壁で囲まれている
のでみはらしも良くなかったですねえ。



まあ、この辺りの土地の標高が
低いので仕方ないですかねえ。

道を間違えた大和田1まで
戻って修正した方が
よかったかなあと思いつつ
歩きながら、すぐに千北橋の
ところへとやってきました。



ああ、ここの橋もやはり
水門が作られていますねえ。



川の水位が上がった時には、
先ほどのコンクリートの壁と
水門でさえぎられるんですねえ。

これでまた道は大和田街道に
戻りましたので、
この橋からまた北向いて
歩いていきましょう。



神崎川をこえたあたりは
「佃」という地域に入っていきます。

この佃は、むかし本能寺で
信長が敗れた際に、
関西に来ていた家康一行を
助けたといいます。

のちに佃の人たちは
どこの漁港でも漁を
やってもいいという許可を
もらったそうです。

そしてのちに将軍家の
御用漁を行うために
東京に住まわせられたそうです。

しかし彼らはもう関西との
往復も大変なので、
東京に住みたいといって許され、
彼らが住み着いた先が、
今の東京の「佃島」だそうです。

佃は徳川家康がつけた
という説もあるそうですが
いずれにしても大阪からの
名前を受け継いでいるわけですね。

で、佃というと何を思い出しますか。
そう、佃煮ですねえ。

この佃煮には東京の佃の人が
始めたので「東京発祥」と
いう説があるそうですが、
じつは大阪西淀川区が発祥なんだ
という説もあるそうですね。

大阪の西淀川で作っていた佃煮を、
東京の人が将軍家から
庶民にまで大きく広げて
いったのが東京の人たちと
いうのが正直なところだ
と思うんですがねえ。

そんな神崎川と左門殿川に
囲まれた佃の地域を歩いていきます。



今は小さな町工場が並ぶ
地域って感じですねえ。



佃煮工場なんかないか
とみていたのですが、
どうも歩いたコース沿いには
なさそうでした。

標高がマイナス1.5mの地域を
北向いて進んでいきますと、



道の先には堤防らしきものが
見えてきます。



これが左門殿川です。



「左門殿」は、
尼崎城主・戸田左門氏鉄が
元和3年(1617)に川を
改修したことによる呼び名なのです。

この橋の名前が「辰巳橋」で、
この川の真ん中に、
大阪市と尼崎市の境があります。



そうつまり、大阪府と兵庫県との
境でもあるわけですねえ。



まあこれで、ほぼ大和田街道は
終わりです。
ほんの五キロくらいで、
歴史的なものも
あまりなかったのですが、
西淀川区の環境を守ろうとする
人々の話や、水害との闘いの
痕跡とかもしりましたし、
「佃」という地名の持つ
歴史も知ったいい歩きでした。

それにまた大野川緑道や
神崎川歩道など
再度訪ねてきて歩てみよう
という道も見つかりましたしね。

今まで、ほとんど知識もなかった
西淀川への知識が
一気に広がった旅でした。

帰りはどこから帰ろうか
と地図を見ていたら
こんな名前の駅がありました。

「大物」(だいもつ)です。



この名前には諸説あるそうですが、
よく言われるのが、
この辺りの海に巨大な材木が
届いていたことから
という説が有力だそうです。

で、それについても調べてみますと、
この駅の周辺に
過去の遺物で城跡や神社、
どういうものかわかりませんが、
大物崩れの戦績碑や
残念さんの墓と
名付けられたようなところも
あるようです。

まあ、またいずれ楽しんでみるか
という期待も残して、
大和田街道はこれで
すべて完踏しました。

めでたしめでたし。