地元の地蔵さんを
みんなで信仰しようという、
地元地蔵講に入ってもう5年がたつ。
早いものだ。
講は村のはずれにある地蔵を、
地域の神様として信仰し
自分らの幸せを守ろうとする
ほぼ60歳以上の地域の人々の集まりだ。
今年は3歳年下の男性が
頭屋を務めた。
頭屋というのは地蔵盆に
関することを一人でまとめ、
村の人々におにぎりを配って、
今年から地蔵講に入りますよ
というのを知らせる役である。
用意して買わないといけないもの、
手配しないといけないもの、
村人たちにお願いしないといけないこと
がたくさんあって、
それらは一冊、いやもう3冊くらいの
ノートになってずっと引き継がれてきている。
普段からどれくらい村の中で
いろんなことに貢献しているか
ということがこんな時に現れるのだ。
しっかり普段からやっている人だと、
あああのひとあれをするのを
忘れてるんちゃうか
というようなことがあったら、
知らないうちに誰かが
処理しといてくれるけど、
普段からええ加減な人間だと
「ああ適当に誰かが処理するやろ」
みたいな感じで
放置されていたりすることもある。
そんな感じで村社会は、
微妙にごそごそと育っているのだ。
今回の頭屋がどんな人間だったか
なんてことは書きませんが、
まあそこそこ皆さんの協力を得て
仕事を終えたんじゃないですかねえ。
doironの今年の仕事の一つが
「たくわん洗い」である。
おにぎりに入れるたくわんを
50本、樽で買うのだが
これを一本ずつ洗って行かないといけない。
ビニール手袋をはめているが、
汁は飛び手なんかは
ぬかみそ臭くなるし、
下手すると服のあちこちに
黄色い塗料が飛んでいたりする。
水溶性なんで洗えば取れるけど、
下手にその服を着たまま
ほかの作業をしていると、
自分ではもうわからないのに
みんなに
「臭いから着替えておいで」
といわれたりするのだ。
準備はおにぎりを握る公民館に
飛びちったゴマを集めるために
シートを引いて、テーブルとかを配置する。
一方で地蔵さんの周りには
テントを張ったり、供物を並べる
場所を作ったりとバタバタするよ。
そしてようやくあたふたあと
動き回っておにぎりもできたら
やっと準備完了。
周りを夕方からのお参り分だけを
整理し終えて、そこから
地蔵講の宴会が始まるのだ。
頭屋が振る舞うお弁当をつつきながら、
ワイワイと大騒ぎ。
ああ、こういう大騒ぎが
昔は貴重な癒しのひと時
やったんやろねえ。
そして夕方、和尚さんが現れて
度胸が始まるのだ。
般若心経も唱えていたなあ。
地蔵さんの前に座る女性連中は、
町内の大御所おばさんたち。
われらは周辺の交通警備や、
ほかの訪れてきた人たちの
お相手などに従事する。
そしてお参りが終わったら
配るおにぎりがこれ。
子どもは一人一個、
大人は2個までとして配りまくるのだ。
で、一方でお参りのお供えを
くれた人たちへ、
お供えのお返しを作成し
配布も手配する。
そんなのがすべて終わったら、
今度はテントの片づけと
地蔵さん周りの整理をし、
ようやく地蔵講の一日が終わる。
1週間後に地蔵の周りに
張り付けた提灯用の配線を外して、
頭屋はやっと地蔵講の一因となるのだ。
いやあ、アフリカの集落の中にある
なんか一定の儀式みたいなものやなあ。
バンジーを飛び降りて
初めて大人になるみたいに
わが町では地蔵講頭屋を終えて、
無事地域の年寄りになる、
みたいなねえ。
地域ではこの後、
村の最大行事である祭りを迎える。
地元で一庶民として
生きていくのはなかなか大変なのだが、
こうしていろんなルールも守って、
その逆に地域の人々に
いろんなことに守られながら
生きていくっていうのが
大事なんだろうなと最近は思っている。