ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

兵庫なぎさ海道2

2017年09月27日 21時34分29秒 | ウォーキング

阪神高速神戸線をくぐってこえると、
道はもう静かな住宅街にはいっていく。

公園の中には親子連れが遊んでいる。
この公園は「明親公園」という名前だが、



この「明新」という地名には歴史がある。

1867年に神田兵右衛門、
そしてあの高田屋嘉兵衛との
関連もあった北風家の人らによって
開校された神戸最古の
学校の名前を明新館という。

漢書「大学」の中の
「上明らかにして下親しむ」
より採って、当時の兵庫県知事
伊藤博文が名付けたという。

そういった歴史が、
今の町名及び小学校の名前として
残っているそうだ。

ひゃー、歩いていると
ふと気づいた街中の公園の名前一つにも
深い歴史があるもんやねえ。
うかうかと歩いてられませんな。
それにネットで調べていると、
この辺の公園は、あの大震災の時に
いろんな役割を果たしたそうで、
なかなか調べれば
ドンドンいろんなことが
出てくるようです。

まあ、そんなことまで書き始めたら
きりがないので、
ここではこれくらいにしとこう。

住宅街を歩いていくと、
一か所線路をこえていく。



この線路が兵庫駅と和田岬をつなぐ
山陽本線の支線だ。
この電車の時刻表を見てみると、
和田岬までの下りは
平日で朝と夜の一日15便。
休日は朝と夜が1本ずつで
合計2本と超変則なダイヤである。

それもそのはず、
この電車は和田岬にある
三菱重工などの社員の通勤で
混雑するという線路なのだ。

実は、昨日書いたように
あの単独行の登山家
「加藤文太郎」は三菱重工
神戸造船所に勤務する
社会人登山家だったのだ。

読んだ小説の中で、
雪山にトンネルを掘って
ビバークするときも
エンジンの燃焼効率について
思いをめぐらすという
シーンがあったなあ。

地元の木こりなんかを
ガイドに雇って山歩きを楽しむ
という時代に、
単独行で国内の厳しい冬山にも
上っていたという彼の動きは
当時のdoironの山行きにも
大きな影響を与えたものだ。

雷の鳴り響く雪山で、
トンネル掘ってやり過ごしたという
自分の危ない山登りも、
彼に比べたら全然平気じゃないか
と思ったくらいだ。

彼は30歳で冬の槍ヶ岳で遭難する。
遭難時の当時の新聞のみだしは
「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」
だったそうだ。
そんなすごい彼の山登りだから、
われわれには全く関係ない
と思われがちだが、
実はかれは「六甲全山縦走」を
始めた人だったのだ。

マラソンやトレイルをやっている人には
良く知られた山登りですよねえ。

その創始者が彼だったのだ。

え~doironは一度だけ
このトレランをトップでゴール
したことがあるんだよ。

まあ小さな大会だったのですが、
いい思い出だあ。

ただ加藤文太郎が
同じようなことをやったか
というとやっぱり違っていて、
宝塚にゴールした彼は
また歩いて須磨まで帰ってくる
ということをやっていたそうだ。

なので総距離は100km近くになるという。

和田岬線の線路を見ながら、
若い頃に自分に影響を与えた
彼の通勤を思わず連想してしまいました。

あ、でもそんな彼だったら
電車に乗らずに、今のdoironと
同じように歩いて通勤
というのもきっとあったかもしれませんね。

さてコースに戻りましょう。

道はここから、生活用の道路
というより大きな工場の横の
通路のような感じへと変わっていきます。



この工場が川崎重工兵庫工場だ。



ネットによると、
電気機関車、ディーゼル機関車、
ロープウエイなんかも作っているそうで、
我々もきっとどこかで
お世話になっているだろう。
会社の周りには海が接しており、
神戸の海沿いという利点を生かして
頑張ってはるんだろう。

で、その先に川重の向かい側に
小さな工場の集まっている
エリアが見えてきましたよ。

ここは何でしょうか。



続く