「信長はなぜ葬られたのか~世界史の中の本能寺の変~」(安部龍太郎著 幻冬舎新書504 2018年8月10日第3刷発行)を読みました。
カバーを付けた状態
カバーを外した状態
この本も、ご近所の方が、入院中の退屈凌ぎに読んでくださいということで差し入れてくれたものです。
この種の本は、私好みのもので、差し入れてくれた時は嬉しかったんですが、残念ながら、1年半ほど前に既に読んだことのあるものでした(-_-;)
私も、けっこう、信長に関する歴史小説は、いろいろと読んでいるんだな~と感じました。
それでも、入院が長引き、読む本も無くなってきてしまいましたので、もう一度読み返してみることにしました。
読み返し始めてみますと、けっこう新鮮に感じ、面白く感じるではないですか!
1年半ほど前に読んだのは、図書館から借りてきて読んだものですから、返却期間もありますので、ざっと読んだという感じだったことが分かりました。
二度目、今度は返却期間もありませんし、じっくりと読みましたら、前回よりも理解が深まったように思います(^-^;
ところで、この本についての読後感につきましては、既に廃止してしまった拙ホームページ「古伊万里への誘い」の「古伊万里日々雑感」の平成30年10月4日の記事に載せていますので、それを再度引用し、この本の紹介に代えさせていただきます。
<「古伊万里への誘い」の「古伊万里日々雑感」の平成30年10月4日の記事>
本書は、戦国時代を、従来の史観にとらわれることなく、広く世界史の中から捉え直してみようとの意図のもとに書かれたもので、そうした流れの中から、本能寺の変も捉え直してみようという試みから書かれたものです。
まず、著者は、
「歴史小説に取り組むようになって以来、織田信長にこだわってきた。それは一般的な意味で「好き」だからではない。なぜあんな激烈な生き方をしたのか分からないので、かえって目が離せなくなったのである。
信長にはいくつもの顔がある。うつけといわれた少年時代。父親の位牌に抹香を投げつけた自立の時代。休む間もなく戦い続け、天下統一の目前までいった天才性。比叡山の焼き討ちや一向一揆の虐殺に手を染めた凶暴性。
秀吉の浮気に苦しむ「おね」に、お前よりいい女はいないのだから嫉妬はするなと温かく諭す一面もあり、南蛮胴の鎧を着て緋色のマントをする派手さも持っている。
西洋文明に深い理解を示し、キリスト教をいち早く保護していることや、千利休を茶頭にして「御茶湯御政道」を行っていることなど、政策的なセンスも抜群である。
そして本能寺での悲劇的な最期・・・・・・。
信長のことが分かれば日本が分かる。そんな予感に取りつかれて『信長燃ゆ』や『蒼き信長』など多くの小説を書いてきたが、いまだに道半ばで己の非才に打ちのめされるばかりである。
安土城址には十数回も訪れ、信長は天主閣からどんな気持ちで眼下の景色を眺めていたのだろうかと思いを巡らせてみるが、答えは容易には見つからない。
ただ、近頃信長のことが分からない理由だけは分かるようになった。それは江戸時代の史観によって戦国時代や信長を解釈してきたからだ。そのために起こった不都合は、およそ次の通りである。 P.116~117)」
とし、江戸史観の四つの誤りとして、①鎖国史観 ②身分差別史観 ③農本主義史観 ④儒教史観 を挙げています。
そうした、誤った江戸史観によって、これまでは戦国時代が解釈されてきたわけで、
「それゆえ戦国時代も国内だけの視野で語り、商人や流通業者の活躍には目を向けていない。しかし戦国時代は世界の大航海時代であり、日本人が初めて西洋世界と出会い、彼らへの対応を迫られた時代だった。
石見銀山や生野銀山の銀が輸出され、その見返りに明国や東南アジアの品々が大量に輸入された。その交易から上がる利益は莫大で、商人と流通業者が経済の主導権を握っていた。そのことは堺や博多の豪商たちの経済力を見れば明らかである。
大名たちも商人の意向を無視することはできなかったし、交易のためには相手国との外交が欠かせなかった。信長がいち早く堺を直轄領にしたのも、イエズス会を保護してポルトガルと友好関係をきずいたのもそのためである。 (P.20~21) 」
と書いています。また、
「それゆえ戦国時代の代表選手である信長の解釈もトンチンカンなものになったが、そうした史観は明治維新後も是正されることなく、今日まで引き継がれている。
江戸時代は戦国時代の真逆を行くことで成立した。大航海時代から鎖国、下克上から身分固定、重商主義から農本主義、実力主義から権威主義など、社会と思想のあらゆる面で改変が行われた。
次からはそうした史実を踏まえ、取材の体験などもまじえて、足でつかんだ戦国時代、そして信長の実像に迫ってみたい。 (P.120~121) 」
ということで、本書では、南蛮貿易などによる海外交易がいかに重要であったか、海外との外交関係がいかに重要であったか、キリスト教がいかに深く根付き、多くの信者を獲得し、強大な力を持っていたかなどに多くの意を注いで、世界史の中に位置付けて戦国時代を書いています。
ここで、そこに書かれている記述の多くを紹介することは省略いたしますが、次に、世界史の中に位置付けた本能寺の変に関する部分を紹介し、本書の紹介に代えさせていただきます。
「さて本能寺の変である。スペインの使者として信長に対面したヴァリニャーノは、明国征服のための軍勢を出すように要求した。ところが信長はこれを拒否し、イエズス会と断交し、キリスト教を禁じた。このために信長政権は急速に揺らぎ始めた。理由のひとつはキリシタンだった大名や武士が、宣教師らの指示に従って反信長派になったことだ。そしてもうひとつは南蛮貿易をつづけられなくなることを恐れた堺や博多の大商人たちが、やはり反信長に回ったことである。
信長はこうした動揺をしずめるために武田征伐を強行して天下統一を急いだが、その間に都では信長打倒をめざして二つの勢力が動き出していた。
ひとつは足利幕府の再興をめざす足利義昭の一派である。義昭はかつての家臣だった明智光秀や、信長の圧迫が強まることを恐れていた朝廷の有力者(その筆頭は近衛前久である)に働きかけて、信長を洛中におびき出して討ち果たす計画を立てていた。
もうひとつはこの動きを察知したキリシタン勢力である。世界中で植民地獲得のために暗躍してきた宣教師たちは、キリシタン大名たちにこの計画に加わるように命じた。義昭派と結託して当面の敵である信長を倒し、その後に義昭派を倒せば、労せずして天下を掌中にできるからだ。
この計画にひときわ重要な役割をはたしたのは、黒田官兵衛と細川藤孝(後の幽斎)だった。シメオンという洗礼名を持つ官兵衛は、秀吉の参謀として備中高松城攻めにあたっていたが、光秀による謀反が起こった場合にそなえて着々と中国大返しの準備を進めていた。
藤孝は義昭の旧臣であり光秀の与力大名なので、信長打倒の計画に深く関わっていたが、キリシタン勢力とも連絡を取っていた。妻の麝香がキリシタンだったので、本人も信仰に深い理解を示していたと思われる。
おそらく藤孝は義昭派の計略に加わりながら、その情報を宣教師たちにもらしていたのだろう。そして光秀を巧妙に誘導しながら、本能寺の変が起こった途端にキリシタン派に鞍替えした。
変の情報をいち早く秀吉に伝えたのは藤孝だったという『武功夜話』(偽書という説もあるが今は触れないでおく)の記述も、これを裏付けているように思えてならない。
かくてキリシタン派は秀吉を天下人に押し上げることによって天下を掌握した。そして変から4年後には、秀吉政権に明国出兵を承諾させることに成功した。 (P.141~142) 」
「秀吉が明国征服を明言した天正14年(1586)には、「太陽の沈まぬ国」となったスペインと同盟すれば勝てる見込みが十分にあった。ところが出兵を強行した天正20年には、この前提は無残に崩れ去っていた。
スペインは1588年にイギリスとドーバー海峡で戦い、無敵艦隊の三分の二を失う大敗北を喫していた。それゆえ明国に出兵する日本を後方から支える力を失っていたのである。
ところがスペインは自国に不利な情報を日本に伝えなかったために、秀吉はこのことを知らずに出兵を強行した。朝鮮出兵の敗北は、こうした外交的失敗がもたらしたと思えてならない。 (P.147~148) 」