「忠義に死す 島津豊久」(近衛 龍春著 角川書店 2019年2月1日初版発行)を読みました。
島津家15代当主島津貴久には4人の男子がいました。その内の3人が正室の子で、長男が義久、次男が義弘、3男が歳久です。もう一人は側室の子で4男の家久です。
島津家15代当主島津貴久の嫡男の島津義久が16代当主となりますが、この本は、その頃の時代を中心に扱ったものです。
なお、この本の題名に出てくる「島津豊久」なる人物は、島津貴久の4男の島津家久の長男のことです。
島津豊久は、父島津家久とともに「沖田畷(おきたなわて)」の戦い(龍造寺隆信との戦い)に出陣します。豊久にとっては初陣でした。
その後も、戦名人と言われた父に従い、数々の戦場に赴き、父に見習って、多くの手柄を立て、九州統一に尽力します。
しかし、島津家は、九州統一を間近にして、豊臣秀吉に降伏することになります。なお、豊臣秀吉軍が引き揚げる際に開かれた饗応の席に招かれた家久は、何者かによって毒殺されてしまいます。
豊久は、毒殺したのは16代当主の義久ではないかと疑いますが、確証がありません。その後、豊久は、同じく戦名人と言われた叔父の島津義弘を父とも思い、島津家当主とも思って私淑します。なお、豊久は、秀吉から、父家久の領地であった日向の佐土原を安堵され、島津家から独立した大名となっています。
その後は、秀吉の命で、義弘等とともに在京することが多くなります。
文禄・慶長の役では、義弘とともに朝鮮半島に赴き苦労を共にします。
秀吉没後、関ヶ原の戦いが生じますが、島津義弘、日向の佐土原の城主の豊久は、西軍につきます。
ご承知のとおり、関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わるわけですが、その際、負けた西軍の中では、島津軍のみが関ヶ原の真っ只中に取り残されてしまうわけですね。
その時、島津軍は、群がる敵中を突破し、島津義弘を何としても郷里の薩摩に帰そうと考えたわけですね。それが有名な「島津の退き口」というものですね。
その際、豊久は殿(しんがり)を努め、みごと義弘を薩摩に帰すことに貢献することになりますが、その時に壮絶な最期を遂げてしまいます。