「墨龍賦」(葉室麟著 PHP 2017年2月7日 第1版第1刷発行)を読みました。
内容は、絵師海北友松の生涯を書いたものでした。
この本の流れとしては、次のように構成されていました。
京都に住む絵師小谷忠左衛門は、父親が高名な絵師であったことは知っていましたが、その父親がどのような人物であったのかをほとんど知らずに、京の片隅で、名もない絵師として35歳まで暮らしていました。
ところが、突然、春日局から、京都所司代をとおして、江戸に下るようにとの命令が出されました。
小谷忠左衛門は、おそるおそる江戸城に赴いたわけですが、そこで、春日局が、小谷忠左衛門に父海北友松の生涯について話して聞かせたという構成です。
なお、ご承知のように、春日局は、斎藤内蔵助の娘の「お福」ですね。
春日局の語った概要は次のようなものでした。
海北友松は、近江の大名浅井長政の家臣海北善右ヱ門の子として生まれましたが、3男であったため、13歳の時に京の東福寺に入れられました。そして、その東福寺で、安芸国から来ていた恵瓊(後の安国寺恵瓊)と知り合います。
二人は共に将来の夢を語り合います。恵瓊は外交僧となることを夢見、友松はいずれ還俗して武士に戻ることを夢見ますけれども、当面、絵にも才能のあることがわかったため、絵の修行と武芸の修練の両方に努めることとしました。
恵瓊が外交僧となるため、諸国に赴いて天下の情勢を学ぶわけですが、二人はよく行動を共にしましたので、友松も自然と天下の情勢に明るくなっていきます。
そのようなこともあり、この本には、当時の全国の有名な武将の名がきら星のように登場してきます。
そうしたなか、友松は、たまたま、春日局の父親の美濃出身の斎藤内蔵助と知り合い、二人は生涯の友となります。
ところで、浅井長政の居城小谷城が織田信長の猛攻によって落城するわけですが、その際、海北家も壊滅してしまいます。そこで、友松は、信長を討って海北家を再興しようと決意します。そのため、永年住み慣れた東福寺を後にし、狩野永徳の住む狩野屋敷に身を寄せます。
といいますのは、以前、斎藤内蔵助から、斎藤道三から織田信長への「美濃譲り状」が妙覚寺に保管されているということを聞いていたからです。狩野派に入れば、妙覚寺への出入りがしやすくなると考えたわけですね。その「美濃譲り状」には何が書かれているのか、いったい、そもそも「美濃譲り状」というものが存在するのかどうかの秘密をつかめば、信長に仕える明智光秀たち美濃衆を離反させることができるかもしれないと考えたからでした。明智光秀たち美濃衆の力を借りて信長を討とうという思いを描いたわけです。
なんとか、妙覚寺の住職(斎藤道三の息子の一人)に会うことが出来、住職から「美濃譲り状」なるものを渡されますが、そこには譲り状の文面はなく、我が子との別れを嘆く哀切な文言のみが書かれた父から子への手紙にすぎませんでした。つまり、「美濃譲り状」というものはなかったということがわかったわけです。
それで、友松は、それを斎藤内蔵助に渡し、そこから更に明智光秀に渡してくれるように頼みますが、斎藤内蔵助は、それを信長の正妻の美濃出身の帰蝶に渡すように指示します。そして、後日、無事、帰蝶に渡すことができました。帰蝶から明智光秀に渡ったかどうかは明らかではありませんが、これが美濃衆の離反につながり、本能寺の変が起こったとしています。
本能寺の変の後、斎藤内蔵助の首は本能寺の獄門台に、遺骸は粟田口で磔にされて晒されますが、友松は、その遺骸を処刑場から奪い、真如堂という寺に密かに弔っています。
その後、友松は沈潜したかのように消息を絶ちますが、狩野永徳が亡くなってから数年後、独立した絵師として世間に顔を出すようになります。
それからは、恵瓊が再興中の京の建仁寺で、恵瓊の伝手で、襖絵や障壁画などを描いています。
また、64歳のとき、近江の浅井家に仕えた武士の娘で、友松の遠縁にあたる「清月」を娶り、2年後には長男が生まれています。
そして、大坂夏の陣の直後、83歳で、戦国時代の終焉を見届けたかのように亡くなりました。
なお、友松の最晩年、宮本武蔵が友松に師事してるとのことです。実際に武蔵が友松の弟子であったかどうかはともかく、「武人の気迫が込められた絵を描いた友松の系譜に連なることは間違いないだろう」ということです。
ところで、友松の子の絵師小谷忠左衛門のその後については、次のように書かれていました。
「忠左衛門は春日局によって徳川家光への推挙を受け、江戸に屋敷を与えられた。そして海北家を再興して友雪の号を用いるようになる。
また、狩野探幽の教えを仰いで明暦、寛文、延宝の内裏造営にともなう障壁画制作にも狩野派以外の絵師として参加した。後水尾上皇の御用もしばしば務めて法橋に叙せられた。
狩野派の影響を受けながらも友松の画風を受け継ぎ、さらに大和絵の技法を生かして絵を描き続けた。
やがて海北友雪は友松を思わせる妙心寺鱗祥院殿の、
雲龍図
西湖図
のほか、<一の谷合戦図屏風>、<花鳥図屏風>などの秀作を遺した。
友松の画業は、斎藤内蔵助との奇縁により子に伝えられたのである。 P.284 」