Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

塞王の楯

2023年07月02日 15時03分23秒 | 読書

 「塞王の楯」(今村翔吾著 集英社 2021年10月30日第1刷発行)を読みました。

 

 

 内容は、「穴太衆(あのうしゅう)」に関するものでした。

 「穴太衆」とは、この本に依りますと、

 

「その名の通り近江国穴太に代々根を張り、ある特技をもって天下に名を轟かせていた。それこそが、

 ──石垣造り。

 であった。世の中には他にも石垣造りを生業とする者たちがいるにはいるが、いずれも細々とやっているのみ。この技術においては穴太衆が突出しており、他の追随を許さないからである。

 穴太衆には二十を超える「組」があり、それぞれが屋号を持って独立して動いている。銘々が諸大名や寺院から石垣造りの依頼を受け、その地に赴いて石垣を造る。軽微な修復など一月足らずで終わるものから、巨城の大石垣など数か年掛かる仕事もあった。 (P.24) 」

 

ということです。そして、この本は、穴太衆のうちの「飛田屋」という「組」の頭(かしら)を主人公とした話であることが分かりました。

 それで、読み始めたばかりの頃は、「何だ、石垣造りの職人の話か! 戦国時代の武将に関する歴史小説かなと思って借りてきたわけだけれど、それじゃつまらなそうだから、もう、読むのを止めようかな」と思いました(~_~;)

 でも、せっかっく借りてきたのだからと、少し我慢しながら読み進めていましたら、だんだんと面白くなってきました(^_^)

 といいますのは、穴太衆は、依頼を受ければ、陸奥から薩摩まで出かけて行くのですね。しかも城の石垣造りや修復の依頼に関連するわけですから、全国の大名との関わりが出てくるわけで、この本の随所に有名な大名の名前も登場してくるわけです。また、城の石垣造りや平時の修復だけではなく、時には、籠城中に攻撃を受けて石垣が破損した場合には攻撃をうけているさ中にもかかわらず破損した箇所を修復しながら石垣を守るという作業も行ったようです。

 そんなわけで、この本は、主人公は石垣造りの職人ではありますが、全体的には、石垣造りの職人の目を通しての戦国武将の話でもあったわけです。

 この本の中に登場してきた戦国武将の中での中心人物は、「蛍大名」と揶揄された京極高次でした。

 京極高次は、戦国武将としての資質に欠け、自分の妹の「竜子」が秀吉の側室になったことや、自分の妻が信長の妹のお市の方の三人の娘のうちの一人の「初」(秀頼の母・茶々の妹)であったことから、自身にはなんの戦功も無いのに大名となり、しかも、どんどんと所領も増やしていったことから「蛍大名」と揶揄されてきたわけですね。

 その京極高次が、この本の中での戦国武将の中心人物として書かれていました。ただ、「蛍大名」としてではなく、確かに戦国武将としての資質には欠けますが、部下に慕われ、領民に慕われる、人物的には人間味溢れる優れた人間であったように書かれていました。

 この本のハイライトは、関ヶ原の戦いの際の大津城攻防戦でした。

 関ヶ原の戦いの際、大津城の城主は京極高次でした。京極高次は、関ヶ原の戦いの際、当初は西軍に付きましたが、間もなく、石田三成が関ヶ原の戦いでの決戦場を大津の地にしていることを知り、大津の地が蹂躙されれば大津の地の領民が困るので、大津の地が決戦場とならないようにするため、大津城に立て籠もり、東軍に寝返ります。

 そこで、大津城の近くにいた西軍側の毛利元康、小早川秀包、筑紫広門、そして西国無双と言われた立花宗茂が率いる総数四万の精強な兵が大津城に襲いかかります。

 京極高次率いる大津城側は、たった三千の兵で守るわけですから、兵力差は圧倒的で、風前の灯火、誰が考えても間もなく落城と思っていました。

 ところが、城側の結束は固く、特に、穴太衆が、攻撃されて壊れた石垣を、その都度修復したりして防戦しますので、なかなか落城しません。

 しかし、ギリギリまで頑張りましたが、もう、これ以上は持ちこたえられないというところで、遂に、京極高次は、切腹を覚悟で開城します。

 ところが、攻城の将、全員の総意で、「京極高次の戦いぶり、敵ながらあっぱれ」ということで、一命を許され、代わりに大津の地から離れることを命じられます。そして、京極高次は高野山へと向かいます。

 もっとも、その結果、大津城の攻防戦に手間取った西軍側の総数四万の精強な兵と諸将は、結局は、関ヶ原の戦いの決戦には間に合わなくなってしまいました。

 そのことに関して、関ヶ原の戦いの後、家康は、「──大津宰相が足止めしてくれねば、西国無双が加わっていたことになり、儂も危うかったかもしれぬ。(P.545)」と、この足止めを激しく称賛したということです。

 京極高次は、この功績を認められ、若狭一国八万五千石に加増転封され、大津の地を去ります。明くる年には近江国高島郡のうち七千石がさらに加増され、合わせて九万二千石を食むまでになりました。


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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
padaさんへ (Dr.K)
2023-07-03 10:50:46
京極家は、その後、丸亀に行ったのですよね。
丸亀城の石垣の高さ日本一なんですか!
この本に依りますと、大津城の改修で、京極家と穴太衆とが強く繋がったわけですので、その縁で、穴太衆は丸亀城の石垣造りや改修に従事したのかもしれませんね(^-^*)

これから、近江に住むようになるのですね。
近江にはいろんな遺跡がありますから、それを見て回るのも楽しみですね(^-^*)
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遅生さんへ (Dr.K)
2023-07-03 10:41:59
この本、穴太衆の目を通して時代歴史小説を書くというような、斬新な視点で書いています。面白い書き方ですね(^_^)

「近江には、戦国時代を支えた技術者集団が育つ」ったようですね。
京に近く、激戦地の一つだったので、いろんな技術集団が育ったのかもしれませんね。
その中で、「矛盾」に由来する、攻撃の矛の手段の鉄砲鍛冶の国友衆と、それを守る楯の石垣を造る穴太衆が特に有名だったのかもしれませんね。

故玩館の改修の際には、もう既に石積みをする職人がみつかりませんでしたか。
戦国時代が過ぎてからは、お城の石垣造りの仕事などはなくなり、細々と棚田の石垣造りなどに従事したようですけれど、今ではその仕事も無くなりましたものね。
茅葺き職人がいなくなったのと同じですね。
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Unknown (pada)
2023-07-03 09:45:57
穴太衆~石組みの名人~聞いたことはありましたが、湖西の坂本辺りが出身地なんですね。琵琶湖辺りは歩けば遺跡に当たるなんて言うくらい遺跡の多い所ですが、ちょっとしたところでも上手に石垣を作っているのには驚きです。安土城あたりが、この集団が有名になった所みたいですね。京極氏の居城は丸亀城~石垣の高さ日本一、これなにか関係があるのかと思いましたが、見つけれませんでした。ですが、穴太衆の元は四国の東部らしいと書かれていましたので、何らかの関係があるかもしれませんね。
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Dr.Kさんへ (遅生)
2023-07-03 09:29:53
穴太衆、非常に興味深いですね。
時代歴史小説の視点としても斬新です。
国友衆もふくめ、近江には、戦国時代を支えた技術者集団が育つ素地があったのでしょう。

故玩館は、石垣の上に建っていたのですが、相当崩れ、建物も不当沈下。改修の際、すべて擁壁にかえました。石積みをする職人がみつからなかったからです(^^;
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tkgmzt2902(ちゃぐまま)さんへ (Dr.K)
2023-07-02 20:29:31
穴太衆のことをご存知でしたか(^_^)

戦国時代のお城は、とにかく守りに強いことが重要でしたから、石垣造りも重要だったわけですね。
見た目の綺麗さよりも強度が問題だったわけで、当時のお城の石垣は、野面積が基本だったようですね。
熊本城のお城も野面積を基本としていれば、少し前の地震でも、あれほどの被害は出ていなかったかもしれませんね。

まっ、穴太衆の仕事も、乱世だった戦国時代にこそ需要があり、力を発揮したのでしょうけれど、太平の世となっては需要もなくなり、衰退してしまったのですね。

この本には、戦国武将の話が多く登場してきますので、十分に戦国時代の歴史小説として読めますね。
案外面白いです(^-^*)
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クリンさんへ (Dr.K)
2023-07-02 20:08:46
「塞王の楯」は有名なタイトルなんですか!
全く知りませんでした(~_~;)

穴太衆の当世最高の称号を「塞王」と言ったようなんですね。
まっ、攻撃から守る側というか、楯になる側の最高の称号なんですね。
それに対して、攻撃側の、鉄砲鍛冶集団の国友衆随一の者の称号は「砲仙」と言ったようですね。

この本によりますと、穴太積みの石垣のすき間に、勝手に、落ちてる小石をはめ込んだりしますと、地震等の際にバランスが崩れ、石垣全体に影響するようですから、やってはいけないかもかもしれませんね(笑)。

クリンさんたちは、かなり前から、穴太積などのことを知っていたのですね。
歴史にかなり詳しいようですね(^_^)
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Unknown (tkgmzt2902(ちゃぐまま))
2023-07-02 18:33:07
穴太衆、読み方の面白さから知っていました。
内容を読んで興味がわき、読んでみたくなりました。
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Unknown (クリン)
2023-07-02 17:00:32
「塞王の楯」・・📚有名なタイトルですので聞いたことはありましたが「穴太衆」が出てくるお話なのですね!
うちのチットが15年くらい前に「穴太積み」を見にびわ湖のほとりまで行きまして・・🌈※その時「建築関係」のお友だちがいたんです💡
「うまく組み合わせて石垣を作るんだよね💡私も穴太積みの石垣のすき間に落ちてる小石をはめ込んできたわ🎶」なんて言っていて、クリンたち絶句しました・・
(今日のお話、やはり戦国がお好きなDrは熱が入っていらっしゃると感じます🔥)
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