満蒙開拓平和記念館に行ってきました

2013-12-01 04:31:53 | 雑感


11月30日、今年の春オープンされた長野県下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館に行ってきました。中国東北部にかつて13年間だけ存在した幻の国「満州国」へ日本から約27万人の農業移民が渡って行きました。そのうち長野県からは全国一の3万3744人(全体の12.5%)が参加。そして飯田下伊那からは8389人(長野県の25%)が送り出されました。これが満蒙開拓です。

「20町歩の地主になれる」と言われ、夢を抱いて大陸に渡ったはずでしたが、1945年8月9日、突然のソ連侵攻で満州は戦場と化し、開拓団の人たちは広野を逃げ惑います。すでに男たちは戦争に召集され残っているのは女子ども、年寄だけ。馬賊に襲われ多くの開拓民が殺されました。行き場を失って集団自決したり、逃避行の中で命を落とす者も数知れず。終戦後も祖国に帰ることができず、難民収容所では飢えと寒さで大勢亡くなりました。

日中双方に多くの犠牲を出した「満蒙開拓」とはいったい何だったのか。記念館はこの歴史を風化させることなく後世に伝えるために、多くの人々の善意と協力でつくられたものです。パンフレットには「戦争に導かれていく道筋を学び、人々の体験に耳を傾け、平和な社会とは何かを皆さんと一緒に考えていきたい」と結ばれていました。

記念館に展示されている数々の証言を読んだり、ビデオで見てきました。お一人おひとりの言葉に胸がつまされました。語られる事実の重みに言葉がでませんでした。国策に沿って満州に渡り開拓に励み、最後は国からも見放され塗炭の苦しみを負わされたのです。

開拓団を守ってくれるはずの関東軍(満州駐屯軍)の主力はすでに南方戦線に送られ、ソ連軍の侵攻をはばむ力は残されていませんでした。それどころか開拓団にも知らせないで、防衛線を満州から朝鮮国境にまで後退させました。開拓団は日本軍からも見放されたのです。それが開拓団に多大な犠牲を生むことになりました。

帰りに満蒙開拓に家族7人で参加し、九死に一生を得てひとり祖国に帰り、その後中国残留婦人・孤児の引揚げにすべてを捧げた中島多鶴さんの半生を綴った「沈まぬ夕陽―満蒙開拓の今を生きる中島多鶴」(中繁彦著・信濃毎日新聞社刊)を買い求め読みました。あらためて満蒙開拓の実態を知らされました。

以前から行ってみたいと思っていた記念館でしたが、とても多くのことを教えられました。今度は家族で訪れてみたいと思いました。

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