私は現職の時企業の人事制度設計のコンサルタントをしていました。それまでの年功序列型人事制度に替わり実績にもとづく人事制度を提案してきました。その際良く口にしたのが「頑張った人が報われる人事制度」というフレーズでした。
頑張った人が報われるということはそれ自体としてはなんら間違っていません。むしろ当然のことです。しかしこの言葉の裏には世の中には頑張った人と頑張らなかった人がいるという思いがあります。
そうなのでしょうか。頑張りを誰がどのような基準で判断するのでしょうか。頑張りとは実は業績のことではないのでしょうか。頑張ったけれど実績に結びつかなかった人と、運よく実績をあげることができた人なのではないでしょうか。
それではどのような要因が業績に結びつくのでしょう。その人の頑張りだけでその実績は可能だったのでしょうか。これまでの多くの先輩の努力、まわりの同僚からの目に見えない支援、そして万一失敗してもそれを許容してくれる制度などが無数にからみあって実績が上げられたのではないでしょうか。
それを本人の能力や努力に注目して、数値化し、詳細な基準をつくってきました。いまそれが正しかったかどうか私は自信がありません。
3・11以後、人々の絆の大切さが見直されてきています。人間はまだ信ずるに足りると思わせる取り組みが次から次へと実施されて来ました。被災された方々が自分さえ良ければというのではなく、まわりの人々に気を使って行動されてきたことは海外から賞賛されています。そして多くの人々は被災者に対して募金活動を行い、全国の自治体からは被災された自治体に対して職員を派遣して来ました。多くのボランティアが被災地に駆けつけ、生活支援の地道な取り組みを実施してきました。
あれから7ヶ月がたちました。私たちの人間理解はまさにその表層をなぞっただけの浅はかなものであったのではないかと思いつつあります。人間を評価するにはその本人の資質だけではなく、まわりの人々とのかかわりを除いて考えられるものではありません。
私はいまの若者が仕事を選ぶ基準に「人の役に立つ仕事」をあげていることに希望を見出します。私たちのころは「寄らば大樹の陰」で仕事を選んできました。時代はますます厳しさを増していますが、こうした若者が一人でも増えることを願うものです。
頑張った人が報われるということはそれ自体としてはなんら間違っていません。むしろ当然のことです。しかしこの言葉の裏には世の中には頑張った人と頑張らなかった人がいるという思いがあります。
そうなのでしょうか。頑張りを誰がどのような基準で判断するのでしょうか。頑張りとは実は業績のことではないのでしょうか。頑張ったけれど実績に結びつかなかった人と、運よく実績をあげることができた人なのではないでしょうか。
それではどのような要因が業績に結びつくのでしょう。その人の頑張りだけでその実績は可能だったのでしょうか。これまでの多くの先輩の努力、まわりの同僚からの目に見えない支援、そして万一失敗してもそれを許容してくれる制度などが無数にからみあって実績が上げられたのではないでしょうか。
それを本人の能力や努力に注目して、数値化し、詳細な基準をつくってきました。いまそれが正しかったかどうか私は自信がありません。
3・11以後、人々の絆の大切さが見直されてきています。人間はまだ信ずるに足りると思わせる取り組みが次から次へと実施されて来ました。被災された方々が自分さえ良ければというのではなく、まわりの人々に気を使って行動されてきたことは海外から賞賛されています。そして多くの人々は被災者に対して募金活動を行い、全国の自治体からは被災された自治体に対して職員を派遣して来ました。多くのボランティアが被災地に駆けつけ、生活支援の地道な取り組みを実施してきました。
あれから7ヶ月がたちました。私たちの人間理解はまさにその表層をなぞっただけの浅はかなものであったのではないかと思いつつあります。人間を評価するにはその本人の資質だけではなく、まわりの人々とのかかわりを除いて考えられるものではありません。
私はいまの若者が仕事を選ぶ基準に「人の役に立つ仕事」をあげていることに希望を見出します。私たちのころは「寄らば大樹の陰」で仕事を選んできました。時代はますます厳しさを増していますが、こうした若者が一人でも増えることを願うものです。