終戦記念日でもありもう少し父のことを書きます。前掲の「昭和戦陣禄」の本のページに「善行証書」なる紙片が挟まっていました。内容は以下の通りです。
「善行証書
長野県 歩兵第7連隊 陸軍上等兵 若林平一郎
右、現役中品行方正勤務勉励学術技芸に熟達す、因ってこの証を付与す
昭和 年 月 日
歩兵第7連隊長 陸軍大佐従五位勲三等 朝生平四郎」(原文は旧仮名遣い)
これによれば父は歩兵第7連隊に配属されていたようです。「昭和戦陣録」によれば414部隊となっていますが、部隊名は軍事機密でありその配置を秘匿するために414部隊という通称が使われたのです。例えば森村誠一が書いた小説「悪魔の飽食」に出てくる731部隊の正式名称は「関東軍防疫給水部本部」です。
歩兵第7連隊は歩兵第19連隊、歩兵第35連隊、山砲兵第9連隊、工兵第9連隊、輜重兵第9連隊、などとともに第9師団を構成していました。第7連隊の最後の司令官は確かに朝生平四郎大佐となっています。
調べてみると第9師団はもともと対ソ連戦を想定して満州の守りについていました。ところがサイパンが玉砕するなど南方戦線の激化に及んで、満州から引き抜き沖縄に移動させられました。沖縄守備の第32軍の予備兵力として司令部を初めは首里の県立師範学校に、その後南部の大里村に置かれました。
ところが11月17日になって台湾に移動しました。台湾の守備を固めるという名目でした。その前月10月10日に台湾空襲があり、12日には台湾沖航空戦がありました。このためサイパン、テニアン、グアムの次の米軍の目標は台湾だと思われたのです。10月24日にはレイテ沖海戦で戦艦武蔵が沈んでいます。
しかしアメリカは次の目標を沖縄に定め台湾を素通りしてしまいました。このことに対して当時大本営作戦課長であった服部卓四郎元大佐が第9師団を台湾に移動させたことに対し「魔がさしたとしか思えない。一世一代の不覚であった」と述懐しているそうです。第9師団は武勲高い歴戦の師団でしたが太平洋戦争時、一度も戦うことがなかったそうです。
いずれにしても父は一度も戦火を交えることなく終戦を迎えました。もし満州にいればソ連軍との戦闘・シベリア抑留は避けられなかったでしょうし、沖縄にいれば玉砕を免れなかったでしょう。まさに運命の分かれ道の中で生き残ることができました。大本営にとっては一世一代の不覚かもしれませんが、父とわが家にとっては幸いでした。
父は31才で出征し33才で帰還を果たし、翌年34才の時兄が生まれ、1年おいて36歳の時私が生まれました。父から台湾で終戦を迎えたこと、菜園を経営していたことは聞きましたが、どのような経緯で満州から台湾に行ったのかは聞いたことがなかったので、今回調べてみて初めてその事情が分かりました。
滋野村発行の「昭和戦陣録」を久しぶりに紐解いてみて、あらためてわが家と戦争との関わりを考えさせられました。
祖父の事は余り知らないので、知っている人がいれば、話を聞きたいと思った次第です。
因みに、現在私と家族は米国カリフォルニア州に居住しており、母は東京世田谷区で弟と暮らしています。又、縁が有れば良いと思います。