時ならぬ大雪でした

2010-03-30 20:38:49 | 雑感
29日は朝から大雪でした。畑のビニールのトンネルも雪に覆われてしまいました。この日はマニフェストスクールに出席するためしなの鉄道で長野市に行きました。途中車窓からみると一面の銀世界でした。雪は昼も降ったり止んだりしていました。夜も懇親会に参加したので帰りは8時の電車になってしまいました。会場のメルパルクから長野駅まではしんしんと降り積もる雪の中を歩きました。

この時期に雪が降ることはめったにありません。今年は暖冬かと思ったのですが、なかなか一筋縄にはいかないようです。スタッドレスタイヤを履き替えようか迷っているところです。東京の桜の開花予報を見ていると、この寒さで桜の開花が遅れ、咲いている桜も長持ちしそうだとのことです。

しかし時ならぬ雪も天候が回復したらすぐに融けてしましました。

マニフェストスクールがありました

2010-03-29 22:28:59 | 議会活動
3月29日から二日間、長野市で「マニフェストスクールin長野」があり参加してきました。これは「マニフェスト・スクール長野実行委員会」(委員長 保科俶教(ほしな・よしのり)長野県議会議員)の主催、早稲田大学の北川正恭教授を中心とするローカル・マニフェスト推進地方議員連盟早稲田大学マニフェスト研究所 との共催で行われたものです。

いま政権交代と地方分権が進展する中、真の地方自治を実現するためには地方議会の活性化と刷新、住民起点・政治主導・政策中心型の地方政治の確立が求められています。マニフェストスクールではそのキーマンである地方議員の育成をはかろうとするものです。

29日の講義は3つです。北川正恭教授の「地域主権時代における地方議会の役割」、廣瀬克哉法政大学教授の「自治基本条例と議会基本条例」、松田良昭元神奈川県議会議長の「議案提案条例のつくり方」でした。30日の講義は、元北海道栗山町議会事務局長・早稲田大学マニフェスト研究所客員研究員である中尾修氏の「議会基本条例の役割と実践」でした。そのほか、「地域主権時代における地方議会の役割」をテーマにグループワークが行われ、議論と提言の発表、そして講評と密度の濃い研修となりました。

この実行委員会には東御市議会の同僚議員が加わっていたこともあり、多くの東御市議会議員が参加されました。全体では100名にも及ぶ県議会議員・市町村議会議員の皆さんが参加され、中には鳥取市の議員さんなど県外や一般からの参加もありました。

これまで議会改革について勉強してきましたが、この分野で日本を代表する方々からのお話しはまさに目からウロコでした。これからの私の議員活動の方向性を示唆してくれる内容でした。そして議会改革に対して思いを同じくする議員の皆さんがこれほどいらっしゃったということに意を強くしました。

長野県議会でも昨年保科俶教県議が中心となって議会基本条例が成立し、東御市においてもこの秋には議会報告会が計画されています。議会改革への取り組みが求められています。

それぞれのご講演の内容は後日掲載する予定です。

滋野駅を愛する会の総会でした

2010-03-28 22:13:42 | 雑感
しなの鉄道滋野駅

28日は朝から曇りがちの寒い日でした。午前中は前日に引き続き私の「議会だより」を配りました。

午後からは私の所属している「かごのと山岳会」と「東御市山岳協会」の総会に出席しました。かごのと山岳会は創立30数年、現在会員は28人です。最近忙しいことからなかなか例会にも顔を出せず山にもごご無沙汰です。昨年6人の方が入会されたとかで、お顔が分からない方がいらっしゃいました。今年は時間をとってぜひ山にも登りたいと思っています。

夜は「滋野駅を愛する会」の総会がありました。この会は「しなの鉄道滋野駅」を大切にしようという住民の皆さんでつくっている会で現在会員は341名。会ができて今年で10年になるそうです。月2回、駅の草刈りや植木の手入れを行っています。総会には会員の皆さんが大勢参加され、来賓として市長もお見えでした。

こうした地域住民が駅を支える運動はきわめて珍しいそうです。お隣の田中駅では女性グループがボランティアで花壇の整備を行っているそうですが、田中駅を愛する会という組織はないそうです。総会に参加されていたしなの鉄道の関係者にもお聞きしましたが他に例はないそうです。まさに滋野駅は地域住民の方に支えられていると感じます。

滋野駅の利用者の多くは高校に通う学生さんです。みんなここから巣立ってゆきました。それぞれ人生の大切な一こま一こまに滋野駅との思い出が折り込まれています。私自身、議員になる前は20年近く滋野駅を利用させていただきました。これから恩返しをしていかねばならないと思います。

御牧原保育園が閉園しました

2010-03-27 20:26:45 | 雑感
(写真1)御牧原保育園

(写真2)元気に歌を歌う園児の皆さん

(写真3)会場一杯の地域の皆さん

(写真4)御牧原保育園の看板を前に記念撮影

27日は10時から御牧原保育園の閉園式が行われました。前の日までは雪が降ったりして寒い日が続きましたが、この日は朝から良いお天気になりました。真っ白い浅間山を背景にして、御牧原保育園の赤い屋根が青い空に映えていました。

御牧原保育園は昭和43年に開園し、これまで地域の方々の温かいご支援のもと42年の歴史を刻んできました。しかし園児の減少の中で中央保育園と統合し、新たに北御牧保育園として発足することになりました。このため御牧原保育園は残念ながら閉園のやむなきにいたりました。

閉園式には園児や子供たちはじめ多くの地域の皆さんが参加しました。市長や住民代表、保護者のあいさつに続き、これまでご勤務いただいた歴代の園長先生のお話がありました。その後児童の歌、そして御牧原保育園の行事のDVDの上映がありました。

こうした様子を見ていると、本当にこの保育園が地域の皆さんに大切にされ、保育園は地域のシンボルであったことが伺われました。ご参加いただいたのはお年寄りから若いお母さんや子供たちまで、会場が一杯になりました。それぞれの皆さんの人生の1ページに保育園との思い出が刻まれていることだろうと思います。

その後軽食をいただいた後、保護者の皆さんによる記念植樹。そして「みまきはらほいくえん」という看板をはずし、皆さんで記念撮影。たくさんの思い出をもらった保育園に別れを惜しんでいました。

議会発行の「議会だより」の原稿を書きました

2010-03-26 00:49:09 | 議会だより
東御市議会で発行している「議会だより」があります。3月議会の一般質問の原稿を書きましたので以下に掲載します。皆さんのお手元に届くのは5月上旬になります。

問 市民の生活保護申請権を尊重すべきだ。
答 肝に銘じて実施してまいりたい。


「当市の生活保護は昨年12月までで5件と前年の半分だ。近隣3市と比べても狭き門となっている。他の市では受理者よりも申請者が多いが当市ではまったく同数だ。受理させる者にしか申請させていないのではないか。市民の生活保護申請権を侵害していないか」
健康福祉部長「法に則って適切に行っており、結果的にそうなっている。それぞれの事情がある」

「市民の生活保護申請権を尊重し、親切な応対と生活保護希望者には申請書を交付してほしい」
市長「肝に銘じて実施してまいりたい」

「田中駅南口振興計画には南口と関係のないもの、すでに決まっているコミュニティ放送局、実現性に乏しい警察署の誘致などが盛り込まれている。もっとコンパクトな計画にすべきだ」
産業建設部長「振興計画は今後のあるべき姿だ。田中駅の橋上化は沿線市町村で検討されている。東御警察署誘致は市民の悲願だ」

「優良住宅地建設にあたっては南口周辺に限るべきではない。通学区の問題はどうするのか」
産業建設部長「通学区の調整はこれからだ」

「舞台が丘整備計画で住民説明会を開催してきたことに敬意を表する。今後設計段階に入る。さらに市民の声を聞いてほしい」
総務部長「検討委員会を作って取り組む。今後とも市民の声を聞く機会をつくって行きたい」

「地域における具体的合意のためのルールとして、自治基本条例を設ける考えはないか」
市長「いまのところそのつもりはない」

滋野保育園の卒園式でした

2010-03-25 22:28:45 | 雑感
25日は朝から一日氷雨、とても寒い日でした。そんな悪天候の中、滋野保育園の卒園式が行われました。会場は四角い広場を囲んで卒園する子供たちの席、年少・年中の子供たちの席、保護者の席、そして私たち来賓の席がありました。

いよいよ式が始まると卒園する子供たちが一人ひとり一輪車で入ってきました。滋野保育園では一輪車が盛んに行われているのです。みんな上手ですね。

卒園証書授与式はとてもこころ温まるものでした。園長先生は卒園証書を授与するにあたり一人ひとりの子供たちに対してひと言ことばを添えていました。それも子供たちの様子を日頃から十分わかっていなければ言えない内容でした。

証書をもらった子供たちはそこで自分の将来なりたい職業を述べていました。男の子はサッカー選手、女の子はケーキ屋さんと保育園の先生というのが多かったようです。その後保護者のところに行き、「お母さん、ありがとう」などと感謝の言葉を述べました。保護者は「頑張ったね」などと言い、子供たちの頭をなでたり抱きしめたりしていました。

子供たちの成長が確かに感じられ、何か胸にジーンとくる卒園式でした。

助産所への期待高まる

2010-03-25 00:07:38 | 病院改革
24日は朝から雨降りの寒い日でした。トラクターでブドウ園の耕運を行うつもりでしたが断念。25日以降もお天気が悪そうで、農作業の予定が立ちません。

午前中に娘が孫を連れて遊びに来ました。娘は来月22日にオープンする「助産所とうみ」に期待しているそうです。これまで上田・小県地域ではお産が大きな問題でしたが、やっとここで解決に向けて一歩前進することになります。オープンに先立って10日に内覧会が計画され、誰でも見学できるそうです。娘の友達も行ってみたいと言っているそうです。

助産所はすでにお産の予約でいっぱいだそうです。娘の友達も予約し、お産には家族でお泊まりしたいそうです。助産所では家族に見守られてのお産もできるんですね。こうして若いお母さん方の中で助産所が注目されていることはうれしい限りです。

午後には印刷に出していた「議会だより」第6号が届きました。3月議会の報告のためにこれから一軒一軒配って歩くつもりです。集落ごとに必要な部数をまとめました。配るのも6回目になると段取りよく進めることができます。遅くとも4月上旬までには皆様のお手元にお届けできそうです。届いていない方で、ご希望の方はご連絡いただければお届けしますのでご一報ください。

夜は県道東御嬬恋線期成同盟会の監査があり同僚議員と出席しました。

ジャガイモには思い出があります

2010-03-24 02:47:39 | 趣味・野良仕事
23日は午前中いっぱいかかってジャガイモの植え付けをしました。昨年は4月11日に行いましたので、昨年と比べて20日弱早い植え付けです。これからいろいろな行事が立て込んでくるので早めに農作業を済ませようと思ったからです。ジャガイモの植え付けはわが家にとって恒例の仕事であり、ここから春の農作業が始まります。明日からはブドウ園をトラクターで起こさなければなりません。

私はジャガイモにはいろいろな思い出があります。昨年のジャガイモの収穫には甥っ子が手伝ってくれました。昨年の春甥は大学を卒業し関西の企業に就職しました。新社会人となり忙しいはずなのに、これから信州にはこれなくなるからと、弟と一緒に夏休みに父と母のお墓参りに来てくれました。弟一家はお正月とお盆には必ず4人と一匹で帰省していました。一匹というのはやんちゃなワンちゃんのことです。

そんな甥っ子と弟と私と3人暑い夏の日、ジャガイモ掘りをしました。それまでブドウ園の作業にかかりっきりでしたので、もう雑草は伸び放題。ジャガイモは雑草に覆われていました。まず雑草を退治してからイモ掘りです。昨年は雨も多かったこともあり大収穫でした。

一昨年のイモ掘りはなんと北風が吹く12月でした。この年の秋、私の市議会議員選挙がありました。私は8月に出馬を決意、それからは毎日出て歩くことばかりでした。9月に入るとブドウの収穫、10月には選挙準備。結局ジャガイモを掘る機会を逸してしまいました。

最初の議会が終わって12月中旬、いよいよ翌年のために畑を整理しなくてはならなくなりました。ジャガイモはもうとっくにあきらめていました。寒い中妻と二人で掘り始めました。そうしたら土の中からみずみずしいジャガイモが出てきました。私にとって冬のジャガイモの収穫は始めての体験で感動ものでした。

私が農作業を行うようになったのは父が体調を崩してからです。そのころ私は営業店勤務で夜も遅く仕事一途で父にまかせっぱなしでした。父の健康が衰えたことと、私の勤務が変わり時間的に余裕もできたことで農作業に手を出すようになりました。

そんな中、苦い思い出があります。ある年、妻にテントウムシがたくさんジャガイモの葉にいるから消毒したらと言われました。私はテントウムシはジャガイモの葉は食べないから大丈夫だと気にも留めないでいました。

そうしたらジャガイモの葉はみごとに食べられてしまいました。後で調べてみたら、そのテントウムシは本当のテントウムシではなく、テントウムシダマシという別の虫でジャガイモの葉が好物でした。あわてて消毒したのですがあとの祭りでした。トマトもキュウリもみんなやられました。

ことしもジャガイモ9キロの植え付けが終わりました。遅霜が少し心配です。

私の立場と提言を掲載します

2010-03-23 07:12:56 | 議会活動
私はこれまでブログでの情報発信に努めてきました。その一環として「議会だより」をPDFファイルでダウンロードできるようにしたりリンクを張ったりしてきました。しかし毎日毎日新たな記事を掲載する中で、重要な記事が埋もれていってしまうという問題も生じてきています。そこで新たにリンクを作ることにしました。

このブログの左側の欄の中に「私の立場と提言」というコラムを設けました。これまでに掲載してきた記事の中から重要なものを選び一覧で掲載します。ここをご覧いただければ私の考えや政策をご理解いただけます。ご利用ください。

今後ともより読みやすいブログにするために頑張りますのでよろしくお願いいたします。

私はなぜ市会議員になったのか?

2010-03-22 22:41:21 | プロフィール
私は平成20年11月の市会議員選挙で議員に当選し現在1期目です。市会議員になる前は30数年にわたり金融マンとして地方銀行である八十二銀行に勤務し、朝から夜遅くまで営業活動を行っていました。ですから地域社会とはほとんど係わることもなく、政治の世界とは無縁の生活を送っていました。

そんな私の大きな転換点となったのは1995年の2月のことでした。八十二銀行のシンクタンクである長野経済研究所に出向することになりました。私はここで調査研究のノウハウ、経営相談のスキル、コンサルタントとしての経験を積みました。一方、研究所勤務する中で時間的余裕も生まれました。そんな中地域にかかわることも多くなり、PTAや公民館活動を行ったり、そして区の役員を仰せつかったりしました。銀行の現場にいたのではかかわることのできなかった方々とのつながりもできました。

そして忘れることができないのは1998年から私たちの滋野地区で取り組まれた中部電力高圧送電線反対運動でした。当時中部電力は長野オリンピックをひかえ、高速道路・新幹線が開通することにより電力需要が増大することを見込み、中信と北信を結ぶ50万ボルトの超高圧送電線網を計画。この送電線が私たちの滋野地区を縦断することになりました。これに対し送電線からの電磁波による健康被害を心配するお母さん方を中心に、反対の声があがりました。その後反対運動は滋野全地域に広がり数年間にわたって粘り強く続けられました、

私はちょうどこの時、区の三役であったため運動にもかかわるようになりました。そこで初めて議会への陳情や請願を経験し、お母さん方とともに議会傍聴も行いました。これが行政とのかかわりの最初でした。ちょうど長野県においても田中知事が誕生した時でもあり、住民が自分の要求を自分の言葉で伝えることがごく普通に行われていました。住民運動においても高揚期であったと思います。

そんな中、私は仕事の関係でいまの東御市長である花岡俊夫さんにお会いしました。当時はお菓子屋さんの社長さんでした。その経営手腕、時代を見る目、まわりの人をまとめるリーダーシップは素晴らしいものがありました。そして3度目の挑戦で市長に当選しました。これまでのハコモノ行政からの転換が実現すると喜んだものでした。

しかしその後の議会との関係が思わしくなく、花岡さんの思いが実現していないということをお聞きするようになりました。そんな中、私たちの地域から出ていた議員さんが引退するという話がありました。その方は行政を厳しい目で見ている方で辛口の批判を行っており、私は次の選挙に出てみないかと声をかけられました。

私自身60才を前にして、これからどのように生きていったらいいのか悩んでいる時でもありました。コンサルタントとしてお世話になっている会社も数社あり、ここでやめたらご迷惑をかけることになるという思いもありましたし、果たして選挙で勝てるのかという不安もありました。一方でこれまでお世話になってきた地域へ貢献したいという気持ちや、私を後押ししてくださる友人や地域の皆さんへの感謝の気持ちもありました。

そんな中、選挙の3ヶ月前に決断し、それからは選挙戦一色で取り組んできました。幸い地域の皆様のお力で何とか当選させていただくことができました。

いまにして思うと、これまでのすべてのことを集大成したことが、いまの市会議員ということに結びついたのだと感じています。銀行の勤務、研究所の経験、住民運動の取り組み、花岡さんとの出会い、引退した先輩議員さん、そして地域の仲間たち、どれひとつ欠けてもいまの自分はなかったのだと思います。そうした意味ですべての皆さんに感謝したいと思っています。

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