ああ,東京! ああ,丸の内!! (中原中也風に)

2009年01月27日 | 日々のアブク
 先週の日曜日,ある試験を受けるために東京に出掛けた(この歳になっても未だに試験!なのでアリマス)。会場に設定された場所は東京のドマンナカ,千代田区九段の靖国神社のすぐ近くで,拙宅からは自転車と電車を乗り継いで2時間以上もかかるという,首都圏辺縁部在住者にとっては一寸シンドイ距離であった。何の試験かは言うだけ野暮なので不問とさせていただくが,終了後,出来具合に概ね満足したこともあって,帰路は少し寄り道をして久しぶりに都心界隈でもウロウロ歩き回ってみようかナ,などという気分になった。 とりあえずは皇居を周回してみよう。

 ところで,存じ上げている方はさほど多くないかも知れないけれども,我が敬愛する五百沢智也さんの著作に『図解新東京探訪コース』,『歩いてみよう東京』,『新・歩いてみよう東京』というタイトルの東京ウォーキング三部作がある。いずれも岩波ジュニア新書に収められており,発行年はそれぞれ1988年,1994年,2004年である。これは,東京という超巨大都市のエコノミック・グロスというかソシアル・エクスパンションといおうか,あるいはエコロジカル・サクセッションと申しましょうか,要するにそういったものの相乗的な経時変動に伴い,それぞれの本に記載された内容が部分改訂程度ではとても追っつかなくなってしまい,あら困った,それでは書を改めて,ということで次々と新たな本が出されていった,と,そんな感じのシリーズ本である。この調子で推移すれば数年後には次作が刊行されるかも知れない(五百沢さん,未だお達者でしょうか?) それはさておき,かつては同じ地理学徒のハシクレであった者として,五百沢智也さんの卓越したジオグラフィカル・アイに基づく実証的で綿密な御仕事ぶりには,ずっと昔から感嘆,羨望,心酔,平伏の念を抱いておったのでありますが,今回の上京に際しては,それら「懐かし本」の記憶が,私をして皇居周遊に向かわせたことは確かだろう。

 それにしても,昨今ではすっかりヒキコモリ田舎人をやっているせいか,大都会のなかを歩くのは本当に久しぶりのことだ。ヨコハマの中心街にはときどき出掛けるのだが,横浜・関内を中心とする一帯は,せいぜいのところ「中都会」くらいと申しておいた方が適当だろう。トウキョウ都心部のマスぶりは,我が国の他のどこの都市と比べても圧倒的にスケールが違う。

 ここで遥かなる昔話をちょいとだけ記しておく。今から約70年ほど前の昭和初期,私の父親が係わっていた会社は東京市麻布区(現在の港区麻布)に小さな町工場を構えていたという。それが,国策的意図によるものであったか,あるいは都市計画上の線引きにでも引っ掛かったのか,はたまた単に周辺の御屋敷町住民の圧力(騒音・振動苦情等)に屈したのか,その理由は私には判らねども,戦後すぐの時期に工場は都内の目黒区下目黒へと移転することになった。当時の目黒区は現在ほどアーバナイズドされてはおらず,山手線,東急目蒲線,大井町線,玉川線などの電鉄各駅から少し離れてしまえば畑や原っぱやらがあちこちに点在する比較的閑散とした住宅地といった趣があった。そんな土地の一隅で私は生まれた。目蒲線武蔵小山駅から徒歩15分ほどの場所である。けれどそこでの工場経営も,昭和30年代後半の高度経済成長期に入ると,一介の町工場さえもが国の経済産業拡大路線の荒波に翻弄され後押しされて性急かつ分不相応な業務発展を続けた挙げ句,あるいはまた再び住民パワーに屈してという側面もあったのかも知れないが,ともかく再度の工場移転を余儀なくされ,今度は横浜市神奈川区羽沢町という所に移ることになった。横浜市神奈川区とはいっても,その移転地周辺は昭和30年代には未だ純農村地帯であり,丘陵,台地には雑木林や畑が広がり,谷戸沿いには水田が細々と耕作されているといった土地景観の,要するに全くの田舎ドマンナカであった。ちょうど佐藤春夫の『田園の憂欝』の舞台にでもなったような所,あるいは現在でいえば横浜市緑区『寺家ふるさと村』のような雰囲気だったろうか。幼心にも,これは随分な「都落ち」をしちゃったもんだなぁ,という第一印象を持った記憶がある。現在ではどうなっているのか,私自身もう何10年もその地を訪ねていないのだが,Google Earthで見る限りでは,未だに林地,農地はわずかに残存するものの,周辺部は住宅地等でかなり立て込んできているようだ。早晩、再々移転となるのかも知れない(さて,こんどは何処の方へ?)

 話がだいぶ脇道にそれた。そんなわけで,今から半世紀以上もムカシに東京都目黒区内において生を受け,目黒区下目黒の友愛保育園(現在では消滅しちゃったようだ)の園児であり,目黒区立不動小学校(こちらは今でも健在なようだ)の児童であった私としては,戦後の混乱期を過ぎて『もはや戦後ではない』といわれた昭和30年代前半の時代,いわば「町っ子」としての幼少期を過ごしてきたのであり,ハズカシナガラ例の『三丁目の夕日』の体現者であったのであり,東京という都会の戦後の一時代について,そこそこの生活体験を有していた次第である。

 当時,目黒区内に住まうコドモたちにとって,街に出る(=繁華街にゆく)といえば,まずは渋谷であった。東横デパートや東急文化会館を中心とする盛り場一帯をあたりかわまずうろついて,映画を見たりデパートの食堂で洋食を食べたり,あるいはオモチャ屋に入ったり雑貨屋に入ったり本屋に入ったり,さらには昆虫屋をオソルオソル外から覗いたり,賑やかな店々の並ぶ坂道の通りをそんな風に上ったり下ったりしながらワクワク気分で「ハレの日」を味わっていたのである。私のように貧乏人のコドモであろうが,あるいは小金持ちのコドモであろうが,その点さしたる違いはなかったと思う(金銭支出の面では明らかに違っていたケレドモ)。

 渋谷の次に訪なうべき繁華街としては,家からはやや遠くなるが,新宿だった。こちらは渋谷に比べると,どこか悪所的雰囲気のある,何やら剣呑なカオス蠢く街のようでもあり,コドモらとしては若干の気後れを感じるところだった。また,ごく稀にではあったが渋谷から地下鉄に乗って銀座界隈に出掛けることもあった。こちらは渋谷とは逆に,歴史とか格式とか階級とかを感じさせる大人びた雰囲気を持った街のようでもあり,コドモらとしては多少背伸びをするようにして歩かねばならないところだった。ただ,新宿も銀座も渋谷と同じように,やはりハレの日の舞台として相応しい華やかな場所ではあった。それ以外の街,たとえば池袋という所は私共には全く未知の世界だったし(あっちも東京なのか?サイタマじゃないのか?),上野・浅草方面も目黒区民にとってはいささか疎遠な世界であった(あっちは東京じゃなくて,エドじゃないのか?)。 また,目黒,五反田,自由ヶ丘,蒲田などのエリアについては,あれらは街(=繁華街)とはいえず,単なる「駅前」でしかなかった。それから麻布とか白金とかは「御屋敷町」,赤坂とか六本木とかは「飲み屋町」に過ぎないと思っていた。いや,以上はあくまで幼児体験,それも地理好きのコドモの直接的・間接的体験にもとづく稚拙な認識に過ぎないものではございましたが。

 そんな昭和30年代東京都民として暮らした幼児期生活のなかにあって,皇居の大きなお濠と赤煉瓦の東京駅との間に広がる丸の内・大手町界隈だけは,少なくとも私個人にとっては別格の街なのであった。清岡卓行のフレーズを借用すれば,二十世紀の中頃のとある日曜日の午前,まだ小学校にあがる前の保育園児の分際で,2才年上の兄と二人でナマイキにもムボウにも電車を乗り継いでハルバル東京駅前の中央郵便局まで記念切手を買いに初めて出かけたときの鮮烈な体験,その時の第一印象がまさに「人生最大の驚愕」であったのだ。異空間をつかのま彷徨した夢幻的記憶として脳裏に強く焼き付けられたのだ。お目当ての切手を首尾良く購入したあと,小学生児童と保育園児の2名は郵便局の周りのビル街を探検気分であてもなく歩き回った。休日で人通りもほとんどなく閑散としていたが,またそれであればこそ誰にも邪魔されずに,まるでロンドンの旧市街を思わせるような重厚で冷ややかで落ち着いた洋式建築の回廊,煉瓦と大理石とコンクリートと金属とガラスとが精妙に組み合わされた建造物群からなる美しい街並みそのものを思う存分に味わうことができたのである。そして,同じ東京なのに何でこんな場所があるのだろう?という摩訶不思議感に満たされたのである。クラシカルな街灯が規則的に列をなす石畳の舗道の曲がり角からは,フロックコートを着てステッキを持った紳士が不意に現れそうな,そんな気がした。あるいはまた,古風な西洋冒険物語の作中シーンのなかに自分らがタイムスリップして取り残されたような,そんな気にもなった。

 当然のことながらチビッコごときに都市機能や都市景観の持つ意味などというものは全く理解できなかったけれども,東京のなかでもそこは明らかに違った独自世界として存在しているのだということだけはハッキリと実感した。例えば,当時若手の売れっ子漫画家であった手塚治虫が描くところの近未来都市に「生で」触れているのだといった胸躍るヨロコビとトキメキ。子供心にも何だかムズムズ嬉しくなって,帝都侵略,都会征服,ビルの街にガオッ~,ってな感じであった。和田倉門交差点から見渡せる皇居外苑広場や壕端に居並ぶ美しいビル群を目を輝かして眺めていた私は,遥か未開の国からやって来たチビクロサンボ,あるいは少々ませたブッシュマンの子供みたいな顔つきだっただろう。そうか,渋谷なんかとはまるで違う,これが本当の都会というものなのか。マイリマシタ! 爾来,東京丸の内界隈は,私の世界観にとって正統的な,洗練された都会の代名詞として刷り込まれた。

 その後,慌ただしい世相に追われるように流されるように歳月はズンズンと過ぎてゆき,コドモらもまた,いやでもオトナへの階段をアタフタと駆け昇っていった。そして長じたのちは,私自身何の因果か仕事関係の用事で丸の内や大手町に事務所を構える会社ないしは公益団体に度々足を運ぶことになった。そこでは,我が憧れの丸の内オフィスビルを日々の仕事場としている人々が,実は私共とさして変わらぬ人種であることを,いや,むしろ玉石混淆,優れて有能なビジネスマンや極めて凡庸なサラリーマンの混成部隊であることを実感した。ま,当然といえば当然の話ですが。それは1970年代の後半から80年代にかけての約10年間のことである。

 そのような次第で,東京・丸の内とは個人的にかなり長い付き合いになるのだが,いつの頃からか,東京の街全体が私の知らない世界の方角に向かって徐々に変貌をとげていったのである。丸の内・大手町界隈もそのトレンドに漏れず,新たな時代のコンセプトに基づく再開発,要はCBD(中心業務地区)の高層化に過ぎないのであるが,それらが急速に進んでいった。最後に丸の内方面に足を運んだのは,確か元号が昭和から平成に改まった1989年の春だったと思うが,竹橋の気象庁まで野暮用で出掛けた。それはちょうど東京都庁の丸の内庁舎が新宿移転に伴い消滅しようとしている時期で,ああ,この街ともこれでお別れかな,という一抹の淋しさを何となく感じたのであった。

 そして今,ときおりニュースやドラマの映像などで垣間見る丸の内界隈のありさまは,既にして私の見知らぬ異国ないし別世界となっている。あるいは,老いたる者が決然と分け入ってゆくには,東京という街はあまりに変わりすぎてしまった。丸の内や大手町のキレイで整然としたビル街をさっそうと行き交う人びとを見ると,まるで自分が明治初期の文明開化の時代,西洋文化の毒気に当てられたハイカラびとの群れを建物の陰からアンビバレンツな眼差しで眺めている裏町の素浪人にでもなったような気持ちになってくる。あるいは,晩年の中原中也のように,平日のお昼時,口をあんぐり開けて 《ぞろぞろぞろぞろ出てくるは,出てくるは出てくるは。。。》 とか 《なんのおのれが桜かな,桜かな桜かな。。。》 などと,呆けるように呟きたくもなってくる。そのいずれもに共通するところは,文化的ないし精神的な違和感,喪失感である。すべてが凡庸な歌謡曲に描かれる絵空事のようで,そこには決して私の居場所はない。もう,終わりだネ。(オダ・カズマサではないゾ) ええ,ままよ。なべては一炊の夢。叶わぬ夢が常ならば,やがては夢もマボロシに。あるがままに生きるか,しからずんば死か。酔生夢死のジンセイさ。 サヨナラ,東京! サヨナラ,丸の内!!

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 いや,グダグダとお恥ずかしい。すべてはME(マルノウチ・エレベーション)の為せる業であります。しかし,それにしても過去の貧しい思い出をダシに妄想の迷路をいくら彷徨っていてもイイカゲン切りがない。もう,終わりだネ~(シツコイ!) 閑話休題。ふたたび平成ニッポンの現実に戻るとしよう。

 ところで,皇居周辺というエリアは,その特殊な場所柄,オマワリもとい警察関係者(機動隊及び皇宮警備員)が大変に多い。いわゆるレ・ジャンダルムles gendarmesという人種もとい職種で,いずれも無表情な相貌で長時間にわたってカタクナに周囲を睥睨し続けている。お気楽オノボリサンにとっては,そんな彼らの視線を全身に受けて散歩を行うことは,安心感と圧迫感とが交錯する何やらコソバユイ感じがする。たとい穏やかな小春日和の午後だからとて,彼らは少しでも気を抜くことは許されない。謹厳実直,眼光鋭利,滅私奉公,直立不動。それはまぁ,さぞ大変な御仕事であろうと傍目にも重々察しまする。察しながらも,思わずジョルジュ・ブラッサンスの次のような文句が思い浮かんだりするワタクシなのであります。


   オマワリたち,オマワリたち,
   もちろん皆ウスノロばかりなんだが
   奴らだって
   その美しい眺めに うっとり見とれていたんだ

   Les gendarmes, meme les gendarmes
   Qui sont par nature si ballots
   Se laissaient toucher par les charmes
   Du joli tableau



 そしてもうひとつ,皇居周回道路にはジョギングをしている人々が大変多い。昨今は良くも悪くも都心部における格好のスペシャル・ジョギング・コースとして健康志向の人々のあいだですこぶる人気なのだろう。排ガス汚染も何のその,枯れ木に花の大賑わいである(ちょっと意味が違うか)。ただ,彼らパレス・ジョガーは概してマナーがよろしい。あるいはレ・ジャンダルムの監視に常に晒されているゆえかも知れないが,変てこな走り,無茶な走りをする者はほとんどいない。そのため,同じコースに併存しながらも,散歩人は心おきなく皇居周辺の景観を眺めつつ周回舗道をのんびりゆっくり歩くことができる。

 そのいっぽうで,ジョガーに比べれば数は少ないものの,皇居周辺には自転車乗りも比較的多く見られる。特に親子連れや若いカップルの自転車が目立つ。こちらは少々問題である。彼らのなかには,かなり無茶な走り,品のない走りをする者が少なくない。そもそも,広くて立派な車道があるというのに,何でワザワザ歩行者やジョガーが繁く往来する舗道の方を走るのか。もし,皇居の緑やお濠の風景を眺めたいというのであれば,自転車から降りて押して歩きなさ~ぃ!とでも言いたくなる。そして,レ・ジャンダルムが彼らを検問・誰何・指導の対象としていないところが,これまた不可解である。業務範疇外だと思っているのか。デモシカシ,君ら方が本当に守るべきは,「皇居」などというシンボライズされたシンボルなどではなく,その皇居を巡る「無辜の民」la foule anonymeの方ではないのか~ぃ!(パレスサイドだけに,鬚男爵かよ)

 とかなんとか,例によってショーモナイことをブチブチブチブチ考えながら,夕暮れ時の心地よい冷気のなか,北の丸を過ぎ,千鳥ヶ淵を過ぎ,英国大使館を過ぎ,半蔵門を過ぎ,国立劇場・最高裁を過ぎ,レ・ジャンダルムの総本山たる桜田門を過ぎ,とにもかくにもキョロキョロ姿のオノボリサン1名は,周囲の景色に目を瞠りつつ,ただひたすらに歩き続けたのであった。二重橋前では記念写真なんぞも撮りました。定番中の定番観光スポットゆえ,そのあたり一帯はガイジン観光客で溢れかえっていた。内訳は東アジア系7割,欧米系3割といったところで,この日は特に中国人観光客が多かったようだが,我もまた彼らと同類,しっかりとガイジン観光客の一員になりきってしまいましたですよ。そして,黄昏迫る頃に皇居をほぼ一周し終えて,皇居外苑広場を通り抜け,ようやっと丸の内のビル街へと辿り着いた。和田倉門交差点で信号待ちをしながら,ああ,はるばる遠く来つるものかな!と,そのかみの懐かしさに涙流るる,というほどではないけれども,まるで半世紀を隔ててどこかの保育園児と再会したかのような思いがフト湧き上がってきたというのも,また正直な気持ちでありました。 オワリ。

 話が少々長すぎたようだ。申し訳ない。次回からはこの手の話題は800字程度にまとめるべく努力する所存です(出来るのか?)
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