最近,私の身内ないし身辺で ジジババ,もとい,お年を召した方々が亡くなるのが目立っている。ここ一年ほどのあいだに逝去された方の年齢を時系列的に示すと,89才,85才,84才,91才,79才,81才,88才と,皆様かなり御高齢での死だった。それぞれの死因は心筋梗塞,老衰,呼吸不全,膵臓ガン,脳卒中,多臓器不全,肝臓ガンとさまざまだが,まぁ,ガンであろうが心臓疾患,脳疾患ないし臓器疾患であろうが,いずれも身体の老化に伴う衰弱死ということで,さしたる違いはないだろう。これがもし交通事故死,医療過誤死,あるいは自然災害による死などであれば悔やんでも悔やみきれないだろうけれど,老化による病死というのはある意味「自然死」なわけで,今の時代にあっては皆様十分に生を全うされたあげくの往生と申してよろしいのではなかろうかと思う。もちろん,遺された御家族の悲しみはいかばかりかと察するが,それはそれ,生まれた年の順番で死んでゆくのは自然の摂理,野辺の花々も季節がめぐればやがて枯れゆくように,生あるものいつかはその歩みを止める。嘆き悲しみはいずれ時が解決してくれるでしょう。それに対して交通事故死なんかは,野に咲く花がある日突然,心ない者に引っこ抜かれる,あるいは乱暴に踏みしだかれるようなもンですからね。現世における不条理の最たるものだろう。
。。。なんてぇことは,そもそもblogでの話題とするに値しない日常茶飯事であるとは重々承知しております。それをあえて記したのは,そのような昨今の現実を目の当たりにして,自らがそろそろ死を迎える順番に近づいてきたわけだなぁ,ということを改めて思い知らされたがゆえである。その心持ちや如何? そうさな,それはまるで,例えばTDL&TDSで人気アトラクションの長時間順番待ちの行列に並んでいて,その列が徐々に改札ゲートに近づいているときのウズウズ・ワクワク状態みたいなものか。さて,ゲートをくぐった向こう側には どんなスバラシイ世界が待ち受けているのだろうか?
なんて,ツマラヌ軽口はさておいて(半分は本心デスガ),実は昨晩,他ならぬ私自身が死に損なったのだ。いえ,夢のなかの話なんですけれども。でも,夢とはいえ,それはかなり直截的かつ具体的なラストシーンだった。そのことを一寸記しておきたいと思ったのがこのエントリーの主旨であります。
それは北関東の山間部の,とある渓谷での出来事だった。私はひとりで川沿いの林道をトボトボ歩いていた。時刻は午後のやや遅い時間で,秋の陽射しもだいぶ傾きかけていた。突然,地の底から突き上げるような,重低音の地鳴りを感じたのだ。地震tremblement de terreか,それとも地すべりeboulement de terrainか? 足下の地面が不安定に小刻みに揺らぎ,やがて,前方の山腹斜面で土砂崩れが発生したのが目に入った。こりゃ大変だ!
そのときの私は,何故だか分からないがライフジャケットを身につけていた。それで迷わず川の中に飛び込んだ。そこはちょうどプール状の細長く大きな淵になっており,水深はかなり深く,流れも緩やかな場所だった。水は透明かつ清澄ゆえ,入水するのに特段の問題はない。このままゆっくりと流されてゆけば何とかなる,何とかなる,とりあえずはそう思った。しかし一方で,いや,それじゃイカン,やはり林道沿いに走り下って逃げるべきだと考えなおした。それで改めて川のなかから出ようとしたのだけれど,川の両岸は複雑な岩盤状に切り立っており,なかなか岸に這い上がることが出来ない。あら,困ったぞ。それで,上陸し易そうな場所を探すべく,再び緩やかな流れに身をまかせて大きな淵を下流へと下っていった。ライフジャケットに助けられているせいもあり,流されつつも気持ちにはまだ余裕があった。何だかユッタリ・フンワカとした気分で,水と一体化するように自らの体を川の流れに委ねていた。忙中閑有,ではないか,苦中楽有あるいは暗中明有といった感じ。差し迫った危機の中でつかのまの安楽に浸っていた。ああ,この感覚はいつかどこかで経験したことがあったなぁ。以前に係わった,どこかの河川調査での出来事だったような気がする。さて,何処だったろうか。北海道の忠類川か,芽室川か,様似川だったろうか。あるいは青森の岩木川か,岩手の気仙川か,秋田の成瀬川か,福島の只見川か,群馬の桐生川か,栃木の鬼怒川か,茨城の久慈川か,埼玉の越辺川であっただろうか。それとも,地元神奈川の道志川か,山梨の笛吹川か,新潟の三国川か,富山の黒部川か,長野の裾花川か,静岡の天竜川か,愛知の矢作川か,岐阜の揖斐川か,三重の櫛田川だったろうか。あるいは,和歌山の紀ノ川か,奈良の飛鳥川か,大阪の余野川か,京都の美山川か,福井の足羽川か,兵庫の円山川であっただろうか。それとも,岡山の高梁川か,広島の芦田川か,鳥取の日野川か,島根の江の川か,山口の椹野川か,四国の那賀川か,仁淀川か,渡川か,重信川だっただろうか。あるいは九州の菊池川か,松浦川か,川内川か,番匠川か,一ツ瀬川であっただろうか。。。 ああ,何処だったか知らん。。。
過去に訪れた全国各地の,それこそ数限りない想い出が込められた さまざまな川のことが走馬灯のように次々と浮かんでは消え,そうやってあれこれ考えを巡らせながらノンビリユックリ下ってゆくと,やがて,流れの先に石積み堰堤のような構造物が確認された。おッと,これはマズイ! このまま流されていったらトンデモナイことになる。それで慌てて再び上陸場所を探したが,やはり良さそうな場所はどうしても見付からなかった。けれども事態は逼迫している。悠長なことは言っていられない。もう必死だった。取りあえず手近な岸に取り付いて水際の岩盤を探りながら適当なホールドを両の軍手で掴み(何故か軍手をしていたのだ),何とか這い上がろうともがいた。しかしながら,ここにきて水中に浸かっている自分の体が非常に重く感じられるのだ。動作はもどかしく空回りするばかりである。おかしいなぁ。身体が全然持ち上がらないぞ。自分はこんなに重かっただろうか? かつて鉄棒少年であった頃は,自らの身体をまるで曲馬団のようにラクラクと繰っていたデハナイカ!(いつの話だ?) 止むをえず一旦その場所から離れ,別の場所で再度チャレンジしてみたがやはり無理だった。そのような試みを何度か繰り返しては いずれも徒労に終わるばかりであった。
そうこうしているうちに,緩やかであるとはいえ,流れは徐々に少しずつ,しかし確実に着実に私の身体を下流へと押し運んでいった。それに抗して上流へと泳ぎ進むことも既に困難な状態で,気がつけば流れのなかで空しくもがくばかりで為す術もない状況となっていた。加えて,心なしかライフジャケットの効力も徐々に薄れてきた?ようで,体が少しずつ少しずつ水中に沈んでゆく。ピンチじゃん! 必死になってジタバタと身体を動かしながらも,一方で,これは夢だ,夢なんだと何度も何度も自らに強く言いきかせた。そうだ,これは現実ではない。こんな現実があるものか。これは絶対に夢なんだ。そのように強固に念じ,自らの意識に絶えず語りかけることにより,いつだって悪夢から開放されることはこれまでの経験則として承知している。夢なんだ! はい,ヤッパリ夢でした。明け方の薄暮時,まるで我が身が瀕死の底から再生したかのように,全身汗まみれになって目を覚ました。
ホッとしながらも,それにしても何だか自分の末期をアカラサマに見たような気がした。いつかある日,最後は何処かの川でジタバタしながら息絶える。これは一種の野垂れ死にだろうと思う。夢の途中で流れに身を任せながら苦中楽有とともに感じた既視感déjà vu,それはまさに私自身の貧しい経験の総和であり,御清算L'addition, s'il vous plaît! であったのかも知れない。とにかく辛い夢であった。アンリ・ベルクソンHenri-Louis Bergsonによれば,人の生にまつわる経験や記憶に関して,精神と脳の運動は平行していないという。人それぞれの持つ膨大な記憶は,決して忘れ去られ失われることはなく,各人のなかで貯蔵されたままで眠っている。記憶を呼び起こすためのメカニズムが封印されているだけなのだ。それが,死ぬ間際に人は現実生活に対する注意力や興味を失い,すると眠らされていた封印が解けて全ての記憶が瞬時にしてあらわれるという。過去のあらゆる出来事が走馬燈のように駆け巡るという。なるほど。ベルクソン流に申せば,おそらく夢の中で,私は現世に対してまったくの無関心になった。すなわち,ほんの一時的にではあるが私は確かに死んだのだ。
それにつけても,そもそも自分は「老化による病死」など望まれてはいないのでないか,夢はそのことの反映ではないか,そんなことを改めて思い知らされましたですよ。しかり。自らが蒔いた種は自らが刈らねばならぬ。 C'est la vie!
。。。なんてぇことは,そもそもblogでの話題とするに値しない日常茶飯事であるとは重々承知しております。それをあえて記したのは,そのような昨今の現実を目の当たりにして,自らがそろそろ死を迎える順番に近づいてきたわけだなぁ,ということを改めて思い知らされたがゆえである。その心持ちや如何? そうさな,それはまるで,例えばTDL&TDSで人気アトラクションの長時間順番待ちの行列に並んでいて,その列が徐々に改札ゲートに近づいているときのウズウズ・ワクワク状態みたいなものか。さて,ゲートをくぐった向こう側には どんなスバラシイ世界が待ち受けているのだろうか?
なんて,ツマラヌ軽口はさておいて(半分は本心デスガ),実は昨晩,他ならぬ私自身が死に損なったのだ。いえ,夢のなかの話なんですけれども。でも,夢とはいえ,それはかなり直截的かつ具体的なラストシーンだった。そのことを一寸記しておきたいと思ったのがこのエントリーの主旨であります。
それは北関東の山間部の,とある渓谷での出来事だった。私はひとりで川沿いの林道をトボトボ歩いていた。時刻は午後のやや遅い時間で,秋の陽射しもだいぶ傾きかけていた。突然,地の底から突き上げるような,重低音の地鳴りを感じたのだ。地震tremblement de terreか,それとも地すべりeboulement de terrainか? 足下の地面が不安定に小刻みに揺らぎ,やがて,前方の山腹斜面で土砂崩れが発生したのが目に入った。こりゃ大変だ!
そのときの私は,何故だか分からないがライフジャケットを身につけていた。それで迷わず川の中に飛び込んだ。そこはちょうどプール状の細長く大きな淵になっており,水深はかなり深く,流れも緩やかな場所だった。水は透明かつ清澄ゆえ,入水するのに特段の問題はない。このままゆっくりと流されてゆけば何とかなる,何とかなる,とりあえずはそう思った。しかし一方で,いや,それじゃイカン,やはり林道沿いに走り下って逃げるべきだと考えなおした。それで改めて川のなかから出ようとしたのだけれど,川の両岸は複雑な岩盤状に切り立っており,なかなか岸に這い上がることが出来ない。あら,困ったぞ。それで,上陸し易そうな場所を探すべく,再び緩やかな流れに身をまかせて大きな淵を下流へと下っていった。ライフジャケットに助けられているせいもあり,流されつつも気持ちにはまだ余裕があった。何だかユッタリ・フンワカとした気分で,水と一体化するように自らの体を川の流れに委ねていた。忙中閑有,ではないか,苦中楽有あるいは暗中明有といった感じ。差し迫った危機の中でつかのまの安楽に浸っていた。ああ,この感覚はいつかどこかで経験したことがあったなぁ。以前に係わった,どこかの河川調査での出来事だったような気がする。さて,何処だったろうか。北海道の忠類川か,芽室川か,様似川だったろうか。あるいは青森の岩木川か,岩手の気仙川か,秋田の成瀬川か,福島の只見川か,群馬の桐生川か,栃木の鬼怒川か,茨城の久慈川か,埼玉の越辺川であっただろうか。それとも,地元神奈川の道志川か,山梨の笛吹川か,新潟の三国川か,富山の黒部川か,長野の裾花川か,静岡の天竜川か,愛知の矢作川か,岐阜の揖斐川か,三重の櫛田川だったろうか。あるいは,和歌山の紀ノ川か,奈良の飛鳥川か,大阪の余野川か,京都の美山川か,福井の足羽川か,兵庫の円山川であっただろうか。それとも,岡山の高梁川か,広島の芦田川か,鳥取の日野川か,島根の江の川か,山口の椹野川か,四国の那賀川か,仁淀川か,渡川か,重信川だっただろうか。あるいは九州の菊池川か,松浦川か,川内川か,番匠川か,一ツ瀬川であっただろうか。。。 ああ,何処だったか知らん。。。
過去に訪れた全国各地の,それこそ数限りない想い出が込められた さまざまな川のことが走馬灯のように次々と浮かんでは消え,そうやってあれこれ考えを巡らせながらノンビリユックリ下ってゆくと,やがて,流れの先に石積み堰堤のような構造物が確認された。おッと,これはマズイ! このまま流されていったらトンデモナイことになる。それで慌てて再び上陸場所を探したが,やはり良さそうな場所はどうしても見付からなかった。けれども事態は逼迫している。悠長なことは言っていられない。もう必死だった。取りあえず手近な岸に取り付いて水際の岩盤を探りながら適当なホールドを両の軍手で掴み(何故か軍手をしていたのだ),何とか這い上がろうともがいた。しかしながら,ここにきて水中に浸かっている自分の体が非常に重く感じられるのだ。動作はもどかしく空回りするばかりである。おかしいなぁ。身体が全然持ち上がらないぞ。自分はこんなに重かっただろうか? かつて鉄棒少年であった頃は,自らの身体をまるで曲馬団のようにラクラクと繰っていたデハナイカ!(いつの話だ?) 止むをえず一旦その場所から離れ,別の場所で再度チャレンジしてみたがやはり無理だった。そのような試みを何度か繰り返しては いずれも徒労に終わるばかりであった。
そうこうしているうちに,緩やかであるとはいえ,流れは徐々に少しずつ,しかし確実に着実に私の身体を下流へと押し運んでいった。それに抗して上流へと泳ぎ進むことも既に困難な状態で,気がつけば流れのなかで空しくもがくばかりで為す術もない状況となっていた。加えて,心なしかライフジャケットの効力も徐々に薄れてきた?ようで,体が少しずつ少しずつ水中に沈んでゆく。ピンチじゃん! 必死になってジタバタと身体を動かしながらも,一方で,これは夢だ,夢なんだと何度も何度も自らに強く言いきかせた。そうだ,これは現実ではない。こんな現実があるものか。これは絶対に夢なんだ。そのように強固に念じ,自らの意識に絶えず語りかけることにより,いつだって悪夢から開放されることはこれまでの経験則として承知している。夢なんだ! はい,ヤッパリ夢でした。明け方の薄暮時,まるで我が身が瀕死の底から再生したかのように,全身汗まみれになって目を覚ました。
ホッとしながらも,それにしても何だか自分の末期をアカラサマに見たような気がした。いつかある日,最後は何処かの川でジタバタしながら息絶える。これは一種の野垂れ死にだろうと思う。夢の途中で流れに身を任せながら苦中楽有とともに感じた既視感déjà vu,それはまさに私自身の貧しい経験の総和であり,御清算L'addition, s'il vous plaît! であったのかも知れない。とにかく辛い夢であった。アンリ・ベルクソンHenri-Louis Bergsonによれば,人の生にまつわる経験や記憶に関して,精神と脳の運動は平行していないという。人それぞれの持つ膨大な記憶は,決して忘れ去られ失われることはなく,各人のなかで貯蔵されたままで眠っている。記憶を呼び起こすためのメカニズムが封印されているだけなのだ。それが,死ぬ間際に人は現実生活に対する注意力や興味を失い,すると眠らされていた封印が解けて全ての記憶が瞬時にしてあらわれるという。過去のあらゆる出来事が走馬燈のように駆け巡るという。なるほど。ベルクソン流に申せば,おそらく夢の中で,私は現世に対してまったくの無関心になった。すなわち,ほんの一時的にではあるが私は確かに死んだのだ。
それにつけても,そもそも自分は「老化による病死」など望まれてはいないのでないか,夢はそのことの反映ではないか,そんなことを改めて思い知らされましたですよ。しかり。自らが蒔いた種は自らが刈らねばならぬ。 C'est la vie!