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数日前のこと,毎度恒例・年度始めの身辺整理として仕事場のそこかしこに雑然と堆積している資料類の山の一部を切り崩してゴミ分別作業をおこなっていたわけだが,その折りに,コクヨの統計ノートに書かれた昔の日記(モドキ)なんぞがファイルの隙間からヒョッコリ出てきたりして,思わずしばし読みふけってしまった。それは今からちょうど35年前,1976年(昭和51年)の夏から冬にかけて記された日々の覚え書きである。内容にかんしては有り体に申して毎日の行動メモ的なソッケナイものが大部分なのだけれども,なかで,シャンソン関連の記述がしばしば見られることに正直驚いた。コレハシタリ,まるで《涙のシャンソン日記 Attends ou va t'en》デハナイカ!ってなもんで(ナンジャラホイ)。参考までに,それらのうち何日分かを以下に書き写してみましょう(ホボ原文ノママ:無礼御容赦)。
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・7月13日(火)
パリ祭の前日。ラジオでJeanne Moreauの歌をはじめて聴いて,いっぺんで好きになった。明日にでもDisqueを手に入れようと,もう気がせいている位だ。金はダイジョーブカ?
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・7月17日(土)
午前,横須賀にてヤボ用あり。夕方,銀座の山野楽器まで第8回シャンソンの会に出掛ける。新しいDisqueを沢山聴いたけれど,Paul Loukaという男と,Anne Sylvestreが印象に残った。それからM.Delpechのアッサリした甘い声も例によってなかなか好ましいと感じた。各社のディレクターはいずれも20代後半と覚しき若い人々で,まあ一種の花形職業に従事しているウラヤマシイ輩ではあろうが,いま自分につながっている糸をたどりたどってゆくと結局の所ああいった連中に多少とも繰られているのかと気づくと幾分アホラシイ思いがしないでもない。ナガタキ・タツジが例のショーフクテー・ツルコーみたいなヌーボー面してオイラのすぐ後ろの机の上にチョコンと腰掛けておった。いかにも業界人のお仲間という感じだ。第一次的通信は何よりもまず金じゃけんに,与える方も受け取る方も何らかの下心を持てコトバを交わしたり,あるいは行為したりするのか。帰りがけにオレ,何やらイヤイヤながらGeorges Moustakiのポスターをもらって来た。Honte! honte!
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・10月1日(金)
あれま,もう神無月になっちまった。夜,Nicolas Peyracを見に虎ノ門までゆく。全23曲中,14曲が初めて聞く歌であった。あるものは良く,またあるものはイタダケナイ。さすが知名度の無さが幸いしてか,客も少なく,1000人収容のホールがスカスカで,その点リラックスしてじっくりきけた。新鮮な感性のヘンリンといったものが伝わってきたのは確かであるが,聞き手に対するサービス精神に欠けているようだ。自己完結的,もしくは自己満足的,とでもいうか。司会は古賀力がボソボソと。キーボードはRorand Romanelli,バッテリーはMichel Jarre。料金は2000円也と,まあ妥当なところだろう。
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・12月4日(土)
何ともめまぐるしい午後の日であった。国電に久しぶりに乗って,昼過ぎ東京へ出る。12月にしては暖かな一日で,そのせいか無駄に歩きすぎたくらいだ。アキハバラ・アスカ電気にて計算機を買う。CASIO 803-MR 4700円。プラスアダプター1000円也。その他もろもろ,一日で2万円以上もゲンナマを使ったのなんか初めての事ではないか知ら。それにしても暮れの街はフトコロのあったかそーな連中がうじゃうじゃしておる。夜,日比谷の日生劇場へGilbert Becaudを見にゆく。これまでの数少ないコンサート経験のなかでいうのも何だが,実に良い舞台であった。内容コッテリ充実した,全身全霊で表現されたドラマを見ているといった風の,良い時を過ごした。5000円のA席当日売りを買ったのだが,そんな出費も何とも思わないくらいだった。ただしプログラムの1000円はちょいと余計であったか。
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引用可能な箇所はまだまだ他にも沢山あるのだが,切りがないのでこのくらいで止めておく。ったくもう,現在の老いたる身からすれば未だ十分すぎるくらいに若くて無名で貧しかった当時の私は,それなりの熱心なシャンソン・ファンであったという証拠文書ですな,これは。確かに我がジンセイを顧みれば最もシャンソンにのめり込んでいた時期は'70年代であったように思う。然しながら恥ずかしながら(そう,ここがカンジンなのだが),今あらためて記憶を辿ってみると,その当時の自分が日々行っていたさまざまな活動というか行動を,現在の自分はほとんど全く覚えていないのである。シャンソンの会だとか,ニコラ・ペイラックやジルベール・ベコーのコンサートだとか,そのような出来事ならびに経験自体をすっかり忘れているのだ。特にベコーについては,確か80年代に横浜の神奈川県民ホールで見たのが唯一のコンサート体験だった,と最近までてっきり思い込んでいた。え?日生劇場なんてホントに行ったんかい?って,ヒドイ話である。まさにボケ老人ここに極まれり!と,この厳粛なる事実を悲しむべきなのか。あるいは,♪忘れっぽいのはステキなことです,そうじゃないですか~♪(by中島みゆき)と,ここは素直に達観して開き直っておけば宜しいのでしょうか。
年代をたどって時系列的に整理してみると,当時の自分は大学を出たものの希望する職につくことが出来ず,とりあえずバイト生活(=フリーター)をおこなって日々の食い扶持を稼いでいるといった不本意な時期なのであった(ま,いつだって不本意なジンセイでしたが)。横浜の小さな書店でフルタイム・アルバイトをやっていたのだが,そこは文芸出版社を傍らで営んでいる一風変わった新刊書店で,店主もかなり癖のある老人だった。ただし,私の仕事はその出版方面とは関係なく,もっぱら書店での店番,棚卸し,梱包配送,それからときどきは外商配達なども行っていた。配達は横浜市内の広域にわたっており,鞄に持てるだけ本を詰め込んで電車に乗って京浜東北線,相鉄線,京浜急行,東横線などの沿線各地に出掛けた。まっ昼間からタダで電車に乗り,鼻歌気分で知らない場所に出掛けていった。日々本に埋もれ本と付き合う仕事はそれなりに満足していたが,将来的な展望はまったくなかった。そんななかでのシャンソン・フリークである。本屋のアルバイト収入なんてたかが知れている。恐らく懐具合はすこぶる乏しかっただろう。家計はいつも火の車であっただろう。いや,そもそも家計Family financesなんていう観念を持っていたかどうか,はなはだ疑問である。♪なるようにしかならないわ。悲しく沈む夕陽でも,明日になれば昇るのよ♪(by狐狸庵?) それは要するに現在の自分とほぼ共通する心情ないし信条なわけであって,35年の歳月を経て今再び同じフィールドに立脚している自分を見出して思わず頭をポリポリと掻いてしまう。♪回る回るよ,時代は回る♪ フムフム。(感心してドースル!)
それにしても,'70年代の自分,20代の私は一体全体シャンソンのどこに惹かれたのだろうか? あるいは,シャンソンというものに何を求めていたのであろうか? 時代の閉塞感からの逃避(たとえば高橋源一郎や内田樹のごとく)なんてモンでは勿論なかった。世間に蔓延している俗悪大衆芸能に対する異議申し立て(たとえば赤瀬川原平や片瀬山大二郎のごとく)なんて大それた覚悟も根性も当然持ち得なかった。せいぜいのところ,それが善人であれ悪人であれ,あるいはオプチミストであれペシミストであれ,愛だの恋だのをやたらと声高に唄っておればそれで良かれとする当時のニッポン歌謡界の風潮,言葉を変えれば恋愛至上主義的なハヤリ歌の世界に対するヒガミ・ネタミ・ソネミの気持ちが心のどこかにあったくらいだろう。そして恐らく,私の内部においてはシャンソン・フランセーズとは霧の彼方の約束されないカウンター・カルチャーの類だったのだろう。なんだ,単なるヘソマガリじゃないか!と指摘されれば,そりゃまぁ,返す言葉もないケレドモ。
ちなみに,その年に流行った歌謡曲の主だったところをWikipediaから拾い出してみると,以下のとおりである。
およげ!たいやきくん(子門真人)
ビューティフル・サンデー(田中星児)
北の宿から(都はるみ)
春一番(キャンディーズ)
ペッパー警部(ピンク・レディー)
わかって下さい(因幡晃)
あの日にかえりたい(荒井由実)
木綿のハンカチーフ(太田裕美)
横須賀ストーリー(山口百恵)
夏にご用心(桜田淳子)
俺たちの旅(中村雅俊)
哀しい妖精(南沙織)
あばよ(研ナオコ)
東京砂漠(内山田洋とクール・ファイブ)
嫁に来ないか(新沼謙治)
まちぶせ(三木聖子)
セクシー・バスストップ(浅野ゆう子)
なごり雪(イルカ)
どうぞこのまま(丸山圭子)
おお,どれもこれも懐かしい。そりゃ,私とてヘソは曲がっていても曲がりなりにも人の子でありましたから,南沙織とか太田裕美とか浅野ゆう子とか,若くてカワイイ女の子が歌う姿に心惹かれること決してヤブサカではなかった(荒井由実とかイルカとかにはあんまり引かれなかったケレドモ...)。彼女らの歌声にじっと耳をそばだて,彼女らの挙動を眩しげに眺めることを全面的に拒絶したとは断じて申しますまい。それが証拠に,今現在の自分にあっても上記のヒット曲のなかで知らない曲はまったくない。すべてを諳んじているとまでは言えないが,メロディー・ラインの全体と,それに乗っかる断片的な歌詞はほとんど承知しているのだ。このあたりの我が記憶回路のカラクリは一体どうなっているのだろう? 自分では表向き否定したつもりでいても,否応なしに我が身に染み付いてしまった浮き世の喜怒哀楽,世俗的な恋愛模様,大衆文化の共通認識,そういったものが見え隠れするままに時代の波間を漂いながら歌が世につれ世が歌につれてしまう,ケセラセラの人生とはいいながら,盲目的な時代の宿命とはいいながら,これには一抹の淋しさを感じるのである。
とまれ,'70年代の私は,彼女らの魅力的な姿態に後ろ髪を引かれつつも,そのような華やいだニッポン歌謡界とは決然と袂を分かち,遙か彼方の西方の音に帰依すべく,ワケノワカラン異文化世界に向けてひとり旅立っていった,そのことだけは確かである。それは私なりの《孤独への道 J'arrive!》を追い求める旅路であったのかも知れない。菊から菊へ。迷った挙げ句の精神的な出家Bonze moralのようなものであったのかも知れない。キャンディーズからアンヌ・シルヴェストルへ。そうか,要するに宗教にカブレていたんだ。シャンソンのなかに神を見出さんとしていたのだ。あー,あれから30余年。そのときカブレた傷はいまだ完全に癒えることがない。それが証拠に,今日も今日とてデスク作業のBGMに'70年代のシャンソンの数々を聴いていたりするのだ。ほら,つい今さっきはジャン・ギャバンの《いま私は知る Maintenant, je sais》が流れていた。なるほど,最後の最後までお芝居を演じてるわけなのか。それにしても何ともシブイ声だなぁ,なんて,ついウットリしたりして。。。 デモシカシ,《俺の人生》って,それはないだろう!