今年はウナギがバカ高いそうだ。フントニモウ!こんなに高くっちゃ,庶民には遙か彼方の高嶺の花で,土用の丑の日に鰻も食べれやしない!などと国民の多くが不平不満の吐息を漏らしている。。。 といった怪しげな情報をバカな大マスコミ(NHKとかフジテレビとか,あるいはアサヒシンブンとかヨミウリシンブンとかを そのように称するらしい by菊池英博参考人)が いかにも尤もらしく垂れ流している今日この頃,皆様いかがお過ごしでしょうか。 で,そりゃ本当デスカ?
念のため,私がごくたまに利用する外食店における鰻丼の値段をチェックしてみると,吉野家が650円,すき家が780円,となっていた(他の外食店は寡聞にして承知しません。いわんや鰻専門店においておや)。まぁ,牛丼の並に比べれば少々高いけれども,日頃,小洒落た洋風レストランやら,純和風懐石モドキやら,コダワリのラーメン専門店やら,魚市場隣接食堂やら,チャラチャラスイーツ店やら,あるいは金太郎飴的ファミレスやらでちょくちょく外食される人々におかれては,この程度の値段ならば別にドッテコトナイのではなかろうかと思う。
あるいは,吉野家とかそんな貧民御用達店なんぞを例えに出すな!と反論される向きもおられるかも知れない。ある意味ゴモットモです。しかしながら現在の私は鰻料理の専門店なんぞとは全く無縁の日々を過ごしており,加えて今後もその手の店とお近づきになることがまず見込めない境遇にありますゆえ,では致し方ない,昔々の自らの乏しい体験を思い出しつつ,それらを別の事例として挙げておきましょう。
今から四半世紀あまりを遡る1980年代の中頃,横浜・関内の尾上町通りに面した雑居ビルに4年間ほど住んでいたことがある。関内地区というところは幕末の開国以来 文明開化の先進地として開けた由緒ある土地柄であるが,第二次世界大戦の敗戦とともに進駐軍が駐留して広い範囲にわたって接収占領地となってしまい,昭和26年のサンフランシスコ講和条約締結後もその接収解除はなかなか行われず,戦後しばらくの時期はペンペン草の生い繁る「関内牧場」と揶揄されるような土地状態であったという。私の幼少時の記憶のなかにもそんな荒涼とした牧場風景の一部がハッキリと残存している。確か昭和30年頃だったろうか,当時は東京・目黒区内に住んでいたのだが,ある秋の日の日曜日,横浜港で船を見物するために遠路ハルバル!日帰り旅行に出掛けたことがあった。父の勤める会社の同僚の子供に私と同じ保育園に通うマーちゃんという子がおり,そのマーちゃんちの家族旅行に「オトモダチの誼み」で私も御一緒させていただけることになったのだ(今にして思えばオジャマ虫だったかも知れない。その節は有り難うございました!)。一行4名(3+1名)は目蒲線の武蔵小山駅から電車に乗り,途中,多摩川園前駅で東横線に乗り換え,すぐに多摩川の鉄橋を渡って神奈川県に入り,武蔵小杉,元住吉などの川崎の町を通過したあとは いかにも田舎っぽい風景が広がる横浜郊外の丘陵地帯を延々と走り過ぎてゆき,やがて町並みが賑やかになって横浜駅に到着するとそこでいったん多くの客を慌ただしく乗降させたのち,さらに電車は先へと進んで左手に大きな造船所を望みながら やがて終点の桜木町駅へと至る,ざっとそんな行程で,私にとってはかなり長い電車旅だった。駅を降りてからは,爽やかな海風に吹かれて潮の匂いを感じつつ,本町通りの舗道を皆でブラブラ歩きながら大桟橋,山下公園方面を目指した。通りの両側には戦災を免れた古風なビルがいくつか残っていたが,当時の私にとって既知のオフィスビル街といえば何よりもまず東京・丸ノ内であって,それに比べると横浜の中心街は全体にビルの高さが低く小じんまりとしていて,ああ,ここは大したことないナ,などと小生意気にも感じたように記憶している。大桟橋および山下公園界隈では大小の貨物船やら汽船やらポンポン船やらの「現物」をじかに眺めて港の雰囲気,景色を十分に堪能し,大いに楽しんだ。何しろその頃の東京には港がなかったのである(と,幼心には信じていた)。帰路は日本大通りから尾上町通りを抜け,それから吉田橋を渡って伊勢佐木町に向かい,どこかの料理店で中華ソバなど食べ,その後ごちゃごちゃした野毛の下町を経由して桜木町駅に戻り,再び東横線・目蒲線で帰京した。今になって古い記憶を再構成してみると,概ねそんな感じの日帰りの旅だった。横浜中心部の牧場風景はそのときの,恐らくは尾上町付近で受けた印象である。何だか随分サツバツとしているなぁ,そんな風にも感じた。まさかそれから数十年後に自分がその地に住まうことになろうとは,当時は思いもよらなかった。そんな関内牧場一帯にも昭和30年代になってようやくポツポツと新しいビルが建ちはじめたそうだが,昭和の末期に私が暮らしたアパートもそのひとつで,昭和30年代前半に建てられた「下駄履きアパート」形式の4階建てのビルであった。私が住んでいた当時も,既に築30年近くを経て かなり老朽化していた。住環境としてはすこぶるイイカゲンで,隣の部屋は探偵事務所?らしきに利用されていたり,またすぐ下の階には当時流行のテレクラが店を構えているなど(あいにく入店経験なし),別の意味でサツバツとしておりました。
あれれ,本来の話題になかなか進めないゾ(今暫しの御辛抱を!)。そんな横浜・関内地区でありますが,幕末,明治初期以来の長きにわたる歴史的変遷を反映して,馬車道界隈を中心に食べ物屋,衣料品店,宝飾店,食器金物店等々の老舗店が多く立地していた。で,ようやく鰻の話になりますが,私が住んでいた雑居ビルの並び,馬車道入口のすぐ近くに鰻料理の「わかな」という有名な老舗店があった(今でもあるようです)。始終お金にピーピーしている貧寒給与生活者であった自分にとってはめったに行ける店ではなかったが,それでも たまの「ハレの日」などには奮発して暖簾をくぐることもあった。その当時,わかなの鰻丼は確か2,000円くらいだったと思うが(いや,もう少し高かったかな?) さすがに結構な値段だけのことはあり,大変美味しゅうございました。そして現在,ネット検索して同店のメニューを拝見してみると,鰻丼2,625円とある。ヲイヲイ,30年間で ほとんど変わってはいないデハナイカ!
もう一例。小田原市・国府津の東海道沿いにある「うな和」という老舗うなぎ店に,今から24年前の正月,とある寄り合いで出掛けたことがあった。当時は現在のように立派な店構えではなく古ぼけた質素な建物だったが,それでも店の評判は近隣のみならず平塚,藤沢,鎌倉方面にまで,湘南地方一帯に広く知られていたようだ。鰻丼は確か1,500円くらいだったと思う。こちらも大変美味しゅうございました。で,「わかな」と同じように現在の鰻丼状況をネット検索してみたが,あいにく同店については最新の鰻丼の値段は判らなかった。ただ,去年の秋における記録が見つかり,その時点では鰻重が1,785円とあったので,恐らく現在は2,000円くらいだろうか。いずれにしても20数年たっても大して変わっちゃいない。
以上の乏しい事例をもってしても,昨今におけるウナギの値段なるものに関してテレビ,シンブン等が過剰なまでに大騒ぎしていることは間違いない。それにしても,バカな大マスコミは何でそんな風に世論を煽るのだろうか。それによって何を意図しているのだろうか? ウナギ資源の減少を地球温暖化の影響にでも絡めたいのか? 親中・親韓的な立場から東アジア地域におけるウナギ生産流通再編化の必要性を主張したいのか? あるいは単に季節の風物誌的なネタを脳天気に提供しているに過ぎないのか? それともこれは昨今流行のステマの一環として,限りなく限りなくオロカナル現政権に対する大衆の鬱積した不平不満を少しでも逸らすべく,世間の耳目をドジョウからウナギへと誘導することを企んでいるのであろうか? 実際のところ,それに釣られるようにして,例えばネット・ブログなどでは「ウナギが高い!ウナギが食えない!」というブツブツ発言が全国津々浦々で発生しているとも聞いている。いずれにしても,いかにもバカが言い出しバカが拡散しバカが追従する,バカバカしい話である。三題噺ならぬ三枚下ろし,これがほんとの鰻のバカ焼き,ってなモンで(座布団,三枚取んなさい!)
駄言の数々,失礼しました。なお,ウナギについては,ニホンウナギAnguilla japonicaとヨーロッパウナギAnguilla anguillaのことなど,まだまだ言いたいことがあるのだが,それはいずれまた項を改めて。 というわけで,今夜も,あー暑い!