悲しみについて(柄にもなく)
去る11月11日に映画評論家の淀川長治が死んでしまった,そのことが最近少し悲しい。映画評論だって? いやいや,物心ついた頃から現在に至るまでの少なからぬ期間を通じて,私は決してよい映画鑑賞者ではなかったと思う。若年の頃も長じて後も,その見方は一貫していた。スクリーン上に展開される多種多様なドラマのなかから,例えば正体不明の見果てぬ夢にすがりつくセンチメンタリズムやら,夢が現実のものとなったと錯覚するヒロイズムやら,あるいは夢に決然と背を向けるニヒリズムやら,もっぱらその時々の境遇に相応しいさまざまな意匠をスクリーンから適当に切り取っては我が身に投影させ自己消化ないし自己正当化していた(いずれもキーワードは“夢”であるのがナサケナイ)。要するに映画なんて御都合主義者の慰みものに過ぎなかった。そんな私にも,淀川長治の死は何ともいえぬ悲しみをもたらした。不思議な魅力を持った人であった。
映画を一番よく見たのは高校生の頃だ。当時,そこそこの進学校に在籍しつつも典型的なオチコボレ生徒であり,気に入らない教師やツマラナイ教科はしばしば自主休講,しかし特に熱中すべき事柄が他にあるわけでもなく,かといって昼前に帰宅するわけにもゆかず,仕方ないので,ある時は自転車に乗って学校の後背地に広がる京浜工業地帯の中枢工場群,それらを縦横に貫く産業道路や,その周辺部に展開する貧民バラック住宅群の路地裏などをあてもなくさまよったり,またある時は映画を見に繁華街へとノコノコ出掛けたりしていた。
その頃,川崎駅前にはミス・タウンという名のなかなかに賑やかな映画街があり,ロードショウ劇場から二番館,三番館,名画座,エロ映画などなど,さまざまな分野に特化した映画館が10軒あまり集まっていて,ヒマ人の時間潰しにはことかかなかった(今では何軒くらい残っているのだろう?)。しかし,私が特に好んで通ったのはミス・タウンではなく,川崎駅ビルの3階にあった小さな映画館,今ではもう名前も忘れてしまったが,洋画の新旧・軟硬とりまぜたものを安い料金で上映しており,少なくとも月に2回はそこで見ていたと記憶している。
高校3年の春,実家が川崎市から横浜市鶴見区へと引っ越し,それまでは自転車通学だったのがバスと電車を乗り継いで通学するようになった。その行程変化は映画館への寄り道を一層助長させることになった。
ところで,鶴見区というところは“山の手”と“下町”とに画然と区分されている。新しい我が家はその山の手の端っこの方,下末吉台地崖端部の谷戸に位置していた(泉谷しげるが昔語っていた“山の手のビンボー”の類である)。たかだか標高40m程の下末吉台地,それは今を去ること約12~13万年前,更新世後期の最終間氷期における海面上昇に伴う海進により形成された平坦な洪積台地であるが,その後,長い長い間の侵食を受けて谷間の開析が進み,複雑に入り組んで坂の多い現在の地形となった。その山の手界隈は芸能人,学者,財界人などのユーメージンが比較的多く居住することでも知られていた。日活映画「陽のあたる坂道」だかのロケに使われたという,すこぶる豪華で洒落ていて,まるで周囲の家々を睥睨するかのごとくにデデーンと聳え立つ大きな西洋館もウチのすぐ近くにあった(まさに「階級社会」という現実を感じさせましたがね)。実は,淀川長治の実家もウチからほど遠からぬところにあり,老いたる母親と二人暮らしとのことであった。一度だけ興味本位でその家を見物に出かけたことがあるが,思っていたより質素な佇まいで,何故だかホッと安心したことを覚えている(無論,ウチに比べりゃ数段立派ではありましたがね)。
ムカシムカシのある一時期に同じ界隈に住まっていたというかすかな記憶,かりそめの接点,同郷意識,共同幻想。それが遥か時を経た今でもアタマの隅っこに引っかかって離れない。要はそれだけのことだ。さて他に何があったかといえば,TV洋画劇場の解説(ララミー牧場の頃から見ている),新聞・雑誌に寄稿した映画批評の数々,永六輔らが熱意をもって語るその人となり,などなど。それらを断片的に受け入れていただけである。変な人だなぁ,と思いながら。しかしそのような些細な記憶の経年的累積が,今日の悲しみを生みだす源流をなしていることもまた事実である。自らの悔い多き若年に対する悲しみと,多分にオーバーラップしているのではあろうけれど。
昨夜,死の前日に収録されたという日曜洋画劇場のTV解説を見た。もうすっかりヨボヨボ・シワクチャになってはいたが,それでも,話し始めるやそのしっかりとした語り口はいつも通りの名調子,まさに映画の精が取りついているかのごときであった。あぁ,最後まで現役だったんだな。それは私にとってせめてもの救いでありました。天国にて安らかに眠り給え。アーメン。
[蛇足ながら]
実は,以上の覚書の元になった文章は16日(月曜)の夜に書き記したのだが,その翌朝ハードディスクが突然死してしまった(こちらも現役のままの往生である。クソッ!)。バックアップをとっていなかった4日間分の仕事関係の各種ファイルが哀れ消失してしまい,上記の元文章もそれらと一緒に消えた。その後は仕事の復旧に手一杯となり,Webのテスサビなぞに関わるどころではなかったが,今日になってようやく仕事の方も一段落。そして,やはり淀川長治のことはどうしても記録しておきたいという思い止まず,改めて16日夜の気分を追想しながら上記の文章を再び記した次第である。すなわちこれは第2版であり,今は亡き初版に比べると心境吐露のニュアンスは若干変化しているかも知れない。[ソレガドーシタ?]
去る11月11日に映画評論家の淀川長治が死んでしまった,そのことが最近少し悲しい。映画評論だって? いやいや,物心ついた頃から現在に至るまでの少なからぬ期間を通じて,私は決してよい映画鑑賞者ではなかったと思う。若年の頃も長じて後も,その見方は一貫していた。スクリーン上に展開される多種多様なドラマのなかから,例えば正体不明の見果てぬ夢にすがりつくセンチメンタリズムやら,夢が現実のものとなったと錯覚するヒロイズムやら,あるいは夢に決然と背を向けるニヒリズムやら,もっぱらその時々の境遇に相応しいさまざまな意匠をスクリーンから適当に切り取っては我が身に投影させ自己消化ないし自己正当化していた(いずれもキーワードは“夢”であるのがナサケナイ)。要するに映画なんて御都合主義者の慰みものに過ぎなかった。そんな私にも,淀川長治の死は何ともいえぬ悲しみをもたらした。不思議な魅力を持った人であった。
映画を一番よく見たのは高校生の頃だ。当時,そこそこの進学校に在籍しつつも典型的なオチコボレ生徒であり,気に入らない教師やツマラナイ教科はしばしば自主休講,しかし特に熱中すべき事柄が他にあるわけでもなく,かといって昼前に帰宅するわけにもゆかず,仕方ないので,ある時は自転車に乗って学校の後背地に広がる京浜工業地帯の中枢工場群,それらを縦横に貫く産業道路や,その周辺部に展開する貧民バラック住宅群の路地裏などをあてもなくさまよったり,またある時は映画を見に繁華街へとノコノコ出掛けたりしていた。
その頃,川崎駅前にはミス・タウンという名のなかなかに賑やかな映画街があり,ロードショウ劇場から二番館,三番館,名画座,エロ映画などなど,さまざまな分野に特化した映画館が10軒あまり集まっていて,ヒマ人の時間潰しにはことかかなかった(今では何軒くらい残っているのだろう?)。しかし,私が特に好んで通ったのはミス・タウンではなく,川崎駅ビルの3階にあった小さな映画館,今ではもう名前も忘れてしまったが,洋画の新旧・軟硬とりまぜたものを安い料金で上映しており,少なくとも月に2回はそこで見ていたと記憶している。
高校3年の春,実家が川崎市から横浜市鶴見区へと引っ越し,それまでは自転車通学だったのがバスと電車を乗り継いで通学するようになった。その行程変化は映画館への寄り道を一層助長させることになった。
ところで,鶴見区というところは“山の手”と“下町”とに画然と区分されている。新しい我が家はその山の手の端っこの方,下末吉台地崖端部の谷戸に位置していた(泉谷しげるが昔語っていた“山の手のビンボー”の類である)。たかだか標高40m程の下末吉台地,それは今を去ること約12~13万年前,更新世後期の最終間氷期における海面上昇に伴う海進により形成された平坦な洪積台地であるが,その後,長い長い間の侵食を受けて谷間の開析が進み,複雑に入り組んで坂の多い現在の地形となった。その山の手界隈は芸能人,学者,財界人などのユーメージンが比較的多く居住することでも知られていた。日活映画「陽のあたる坂道」だかのロケに使われたという,すこぶる豪華で洒落ていて,まるで周囲の家々を睥睨するかのごとくにデデーンと聳え立つ大きな西洋館もウチのすぐ近くにあった(まさに「階級社会」という現実を感じさせましたがね)。実は,淀川長治の実家もウチからほど遠からぬところにあり,老いたる母親と二人暮らしとのことであった。一度だけ興味本位でその家を見物に出かけたことがあるが,思っていたより質素な佇まいで,何故だかホッと安心したことを覚えている(無論,ウチに比べりゃ数段立派ではありましたがね)。
ムカシムカシのある一時期に同じ界隈に住まっていたというかすかな記憶,かりそめの接点,同郷意識,共同幻想。それが遥か時を経た今でもアタマの隅っこに引っかかって離れない。要はそれだけのことだ。さて他に何があったかといえば,TV洋画劇場の解説(ララミー牧場の頃から見ている),新聞・雑誌に寄稿した映画批評の数々,永六輔らが熱意をもって語るその人となり,などなど。それらを断片的に受け入れていただけである。変な人だなぁ,と思いながら。しかしそのような些細な記憶の経年的累積が,今日の悲しみを生みだす源流をなしていることもまた事実である。自らの悔い多き若年に対する悲しみと,多分にオーバーラップしているのではあろうけれど。
昨夜,死の前日に収録されたという日曜洋画劇場のTV解説を見た。もうすっかりヨボヨボ・シワクチャになってはいたが,それでも,話し始めるやそのしっかりとした語り口はいつも通りの名調子,まさに映画の精が取りついているかのごときであった。あぁ,最後まで現役だったんだな。それは私にとってせめてもの救いでありました。天国にて安らかに眠り給え。アーメン。
[蛇足ながら]
実は,以上の覚書の元になった文章は16日(月曜)の夜に書き記したのだが,その翌朝ハードディスクが突然死してしまった(こちらも現役のままの往生である。クソッ!)。バックアップをとっていなかった4日間分の仕事関係の各種ファイルが哀れ消失してしまい,上記の元文章もそれらと一緒に消えた。その後は仕事の復旧に手一杯となり,Webのテスサビなぞに関わるどころではなかったが,今日になってようやく仕事の方も一段落。そして,やはり淀川長治のことはどうしても記録しておきたいという思い止まず,改めて16日夜の気分を追想しながら上記の文章を再び記した次第である。すなわちこれは第2版であり,今は亡き初版に比べると心境吐露のニュアンスは若干変化しているかも知れない。[ソレガドーシタ?]