子供における“やさしい心”

1998年11月13日 | タカシ
 タカシは小学生になった今でもひとりで寝ることができない。で,毎晩8時半を過ぎると母か父のどちらか一方が二階の寝室までタカシのお供をして,しばし一緒に添い寝をする。父の場合,寝つくまでの間おもにゲームの話をしたり学校での出来事をいろいろと訊ねたりする。

 昨夜などはこんな具合だ。ポケモンの技についてタカシから熱心な講釈を二,三受けたあと,少しの間黙り込んでしまったので,そろそろ眠くなってきたのかな,と思いかけたとたん,急にタカシが「あー,今日はとても楽しかった!」とシミジミ嬉しそうに,まるで独り言のように口を開いた。オヤオヤまだ寝ないのか。しょうがないので,どうして?と聞き返すと,概略次のような事情であったらしい(どうもタカシは物事を人に説明するのが下手なので,詳細についてはアイマイであるが)。

 学校での「せいかつ」の時間に「秋を遊ぼう」というテーマで自由制作があり,タカシは『あてクジ』を作ったそうだ。家から持っていったダンボールの菓子箱をきれいに密封して,その端っこに小さな穴をあけ,箱の中には学校近くの野山で拾ってきたドングリを赤やら青やら緑やら黄やらの色に塗って入れ,それぞれの色は大当たり,当り,ハズレ,大ハズレなどと決めて。その箱をオミクジみたいによーく振って,中のドングリを1個だけ取り出す。賞品には,前夜,家で一生懸命作っていた折り紙の「ピアノ」と「クジラ」と「セミ」と「パックンチョ」が供された由。その『あてクジ』がクラスのなかでとても“人気”だったそうな。

 そう,それはよかったね。タカシはクジが得意だからね。というと,タカシは甘えるようにして父の方に擦り寄ってきた。そしてまた,こんなことを言う。

 「アオキヒデキ君も同じようなクジを作ったのに,あまり人気じゃなかったみたい。何でかなあ?」

 その言葉は,決して自らの優位性を自慢しているのではなく,むしろオトモダチのことを素直に気づかい思いやっているように受け取れた(甘父の僻目だろうか?)

 いまさら言うまでもないが,タカシは精神的にとても弱い子だ。他人から受けるほんのちょっとした言動に対しても,すぐにキズツイテしまう子だ。強い子にとっての遊び相手(モテアソビ相手?)として,いわば恰好の存在だ(アライグマに対するシマリス)。そんなタカシから発せられた上記のような言葉を,父は素直にうれしいと感じる。

 子供における“やさしい心”(ジャック・ブレル唄うところのle coeur tendre),それは正直なところ,家庭内ではなかなか育まれ難いと思う。無論そうあってはいけないことだが,多くはそれが現実である(例えば我が家においては一番隊長から四番兵士,憂欝姫まで厳然たるヒエラルキーが存在しており,その意味を理解するのは子供にとってすこぶる困難であり)。しかるに,学校という家庭からは一応切り離された小社会における同世代どうしの付き合い,集合と離散,融合と拮抗,妥協と反感,喜びと悲しみ,ケンカとナカナオリ,日々そのようななかにあってこそ“やさしい心”は少しづつ育まれてゆくような気がする。親としては,そんな学校社会の存在を実にアリガタイと思うとともに,一方では学校に下駄を預けているだけではいかんいかん!と改めて反省する次第であります。

 ところで,“教科学習”の問題はまた別であるが,そっちについてもいずれ態度表明をせねばなるまい。
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