昭和20年代の恐らくは後半の,神奈川県平塚市内における一風景である。広い表通りの両側に賑やかな商店街が形成され,路面の区切られた道路にはクルマと自転車とがそれぞれのポジションでそれぞれのペースで走り,そしてアーケード内には通行人が楽しげに行き交うといった,ノドカといえばノドカな光景だ。高度経済成長期よりも前,モータリゼーションの黎明期には,そこが都会であれ地方であれ,町というのは概ねこんな感じであったのだ。私自身,それとほぼ同じ時代に東京都目黒区内に住まっていたのだが,家の近くを通る中原街道や目黒通りの様子もこの風景写真とさほど変わらなかったと幼心に記憶している。
それにしても,ここでの自転車人は大変シアワセそうである。何しろ自転車通行帯の路面占有率がとっても広いんだもの! それだけ当時は自転車に乗る人が多くて,逆にクルマの数がまだまだ少なかったのだろう。けれど見方を変えれば,その当時においては道路利用における路上ヒエラルキーの概念が現在のように徒にフィジカルパワーに偏重することなく,何よりもヒューマンパワーに基本をおいていたがゆえ,と考えることもできる。すなわち,クルマという新時代の移動装置,すこぶる高額で特権的でパワフルな高速移動装置は,町に暮らす大多数の人々からみれば,利便性よりも剣呑性の方が勝る存在としての単なる鋼鉄の塊,しょせんは「モンスターの一種」と見なされていたのだろう。そのような社会的認知は極めて健全なものであり,それゆえに自転車人はシアワセだったのである。いや,自転車人のみならず,その当時,町で暮らす人々は皆シアワセであったに違いない(クルマを運転するヒトも含めて!)
そういう時代も確かにかつて存在したのだ。それはたかだか50年前の話なんだケレドモ。
それにしても,ここでの自転車人は大変シアワセそうである。何しろ自転車通行帯の路面占有率がとっても広いんだもの! それだけ当時は自転車に乗る人が多くて,逆にクルマの数がまだまだ少なかったのだろう。けれど見方を変えれば,その当時においては道路利用における路上ヒエラルキーの概念が現在のように徒にフィジカルパワーに偏重することなく,何よりもヒューマンパワーに基本をおいていたがゆえ,と考えることもできる。すなわち,クルマという新時代の移動装置,すこぶる高額で特権的でパワフルな高速移動装置は,町に暮らす大多数の人々からみれば,利便性よりも剣呑性の方が勝る存在としての単なる鋼鉄の塊,しょせんは「モンスターの一種」と見なされていたのだろう。そのような社会的認知は極めて健全なものであり,それゆえに自転車人はシアワセだったのである。いや,自転車人のみならず,その当時,町で暮らす人々は皆シアワセであったに違いない(クルマを運転するヒトも含めて!)
そういう時代も確かにかつて存在したのだ。それはたかだか50年前の話なんだケレドモ。