この夏,アキラが《基本情報技術者》の国家試験に合格したということだ。と申したところで実際のところそれがどんな内容の試験なのかは私の守備範囲外につきトンと分からないのだけれども,16才の高校生にとってはソレナリニ難しいものであるらしい。試験前の数ヶ月間は夜遅くまでかなり勉強していたようだ。ちなみに本人は高専や工業高校に通っているわけではなく,あるいはSSH(スーパーサイエンスハイスクール)に指定された学校でもない,ごくアタリマエの県立普通科高校生である。コンピュータのプログラミングについてとりわけ興味を持つようになったのも恐らく高校に入ってからではないかと思う。もともと凝り性・拘り屋なものだから(ん?誰に似たんだ?) いったん興味を持つとトコトンのめり込むタイプだ。現在ではC++だとかPythonだとかのプログラミングに日々夢中になっている。いずれも私にはチンプンカンプンで,たまにその方面について何かを聞かれても話がまったく通じない。老いたる親はまことに無知・無力である。
いわゆる情報科学系の学問というものは,昨今の学芸・技術の世界において まさに主流・主幹となりつつあるのだろう。情報科学に関する知識・知見を抜きにしては今日びの社会経済が立ちゆかなくなるほどに,それは世の中のさまざまなシステムに深く係わりを持ち,広く浸透しているのが現状だと思われる。そして,よく言われるようにIT産業が経済を回しているというのみならず,IT文化は人々の生活の隅々にまで侵食し,IT思想は時代の動向を左右するほどになっている。もとよりそれをメシの種にしている人々は言うに及ばず,大多数の一般大衆を取り込んだ,というよりもむしろ無知蒙昧な大衆が知らぬまに取り込まれたといった方が適当か,要するに誰もがみな情報科学という「媚薬」がタップリと混入された霊験あらたかなスプリング(麗しの泉)あるいは禍々しいドツボ(底なし沼)にどっぷりと漬かっている状態なのだ。そのなかで溺れているシアワセ者もさぞ多かろう。
この一見,世界をバラ色に変貌させたとみえる媚薬,陋習に満ちあふれた閉鎖的旧社会を開放し,輝ける未来へと人々を導くことを期待されたテクノロジーは,いわゆる人類進化史的な観点からすれば,実は旧来の保守的・伝統的で安定した生態系であるところの閉鎖系湖沼に放たれたブラックバスMicropterus salmoidesのごときインパクトに過ぎないのではないか。私にはそんな風に思える。すなわち,徒に平地に乱を起こしているフトドキモノとしての存在。もちろん,それによって旧社会は大きく変容し,場合によっては脆くも崩壊してしまうのであろうケレドモ (で,そのブラックバスを密放流したのは一体誰なん?)
携帯電話という通信機器は,さしずめITの代表選手だろう。タクラマカン砂漠を往き来する遊牧民だとかナイロビ郊外のスラム街でうごめく貧民群だとかは別として,少なくとも高度に文明化された現代資本主義社会に住み暮らす人々は,まさしく今,老いも若きも「ケータイ」に首ったけだ。というかケータイに首根っこを掴まれている。特に最近ではスマートフォンの普及率に目を見張るものがあり,例えば電車に乗って車内をちょいと見渡してごらんなさい。それこそ,こまっしゃくれた小学生から,チャラチャラした美形オネーチャン,キリッとした背広姿のサラリーマン,不機嫌そうな顔つきの中年オバサン,思いっきり黄昏れたオヤジ,果てはヨボヨボ・ジーサンまで,皆が皆スマートフォンに熱心に見入って一心不乱に画面をタップ,スクロールしている。そこではある特定の限られた周波数を介して幾千億もの情報が瞬時に往き来し,交錯し,混濁している。まさに情報のカオスが そこかしこで音もなく爆発を繰り返しているのだ。静けさの騒擾,沈黙の錯乱。10年前,いや,ほんの5年前まではまるで考えられなかった,それはある意味ブキミな光景だ。未来というものは凡人にはなかなか予見できないものである。もちろん,私とてケータイの有する利便性,即時性,情報発信力の優位性などに関しては時代の趨勢として認めるにヤブサカではない。個人的にはケータイを否定ないし拒否する立場にあるものの,世の中全体としては多分もう後戻りはできないのだろうと観念している。ここは猿の惑星じゃないんだから。。。
ああ,何だか久し振りに禄でもない老人性繰り言を縷々述べてしまった。イカンイカン。で,何の話だったか? そうそう,息子の試験についてであった。
そういったケッタイなケータイが蔓延するケッタイな時代のただなかにあって,ひとりのケッタイな,もといシャイな高校生が情報科学のマッタダナカにのめり込んでいるわけである。新しい学問の扉を開けて,その先に自ら積極的に進もうとしているのである。そのこと自体を咎める理由など,たとえ親といえども断じてありはしない。1年の終わり頃だったか,「情報」の授業で「Linuxについて」というプレゼンテーションを行ったそうだ。MS PowerPointを使用したそのプレゼンはなかなか好評であったという。私も後でそのプレゼン資料を見たが,いまだWindowsのWord,Excelくらいしか使いこなせていない自らの貧弱なスキルと比較すると,パワポの持つさまざまなグラフィック機能を駆使して簡潔明瞭,理路整然と作成されたその資料の出来ばえには,おお,知らぬあいだにここまで成長していたのかと,一寸我が子を頼もしく感じたほどだ。こりゃ将来有望かな? (ハイ,馬鹿親です)
けれどもされども,当然のことながら,情報科学の世界において誰もがビル・ゲイツやらスティーブ・ジョブズやらラリー・ペイジやらアラン・ケイやらになれるわけでない。ただ,彼らの華やかな活動ぶりに羨望を抱き,なしとげてきた輝かしい業績を崇め,彼らの精神に心から共感し,そしてそれと同じ方向を追従すべく,自らの身中に取り込むべく,不断の努力を重ねてゆくことは誰にも可能だろう。若さとはそういうものだ。その心意気やよし。結果としてその確率が天文学的数字であったとしても,せめてプチ・ビル・ゲイツくらいにでもなってくれれば親としては素直にウレシイわけで。。。 (ハイハイ,ったく馬鹿親でスミマセンね)
ただし,ここでシビアな現実にいちど立ち返っておく必要もあるのだよ,アキラ君! すなわち,この先すぐに控えている大学への進学ということを改めて視野に入れると,現在の我が家の財政事情からして私立大学の理工系に進むことはまず許されない。バイトして自活するというなら話は別だが,何しろアルバイトなど一度もしたことがない子である。タカシの方は高校時代には体育会系の部活にドップリ浸かっていたにもかかわらず,同時にアルバイトも多少は行っていた。それに比べてアキラの方は,バイトする時間なんかモッタイナイ,その分PCに向かって心ゆくまでプログラミングをしていたいというスタンスの,いわゆる「オタク系」まっしぐらといった様子だ。それゆえ,とにかく国公立大を目指して今から頑張りなさい! と本人に対しては大分前から予防線を張ってある。俗っぽく松・竹・梅で申せば,松=東京工業大学,竹=横浜国立大学理工学部,梅=北見工業大学,そんなところだろうか。現状ではとにかく理系一筋で,学校の勉強としては数学,物理,英語くらいしか熱心にやっておらず,国語,社会など文系科目は放ったらかしのように見受けられるので,大学入試センター試験対策だとかの受験勉強戦略を考えると,この先なかなか前途多難である。さて,松・竹・梅と,どうなることやら。
最後に,取って付けたようではあるけれども,大学受験に限らずこれからの「本統の勉強」に向けての彼の奮闘に期待してエールを送る意味で,宮澤賢治の《生徒諸君に寄せる》の一節を引用しておこう (ハイ,馬鹿親の三連発で恐縮デス。。。)
サキノハカといふ黒い花といっしょに
革命がやがてやって来る
それは一つの送られた光線であり
決せられた南の風である
諸君はこの時代に強ひられ率ひられて
奴隷のやうに忍従することを欲するか
むしろ諸君よ 更にあらたな正しい時代をつくれ
宙宇は絶えずわれらに依って変化する
潮風や風 あらゆる自然の力を用ひ尽すことから一足進んで
諸君は新たな自然を形成するのに努めなばならぬ
新しい時代のコペルニクスよ
あまりに重苦しい重力の法則から
この銀河系を解き放て...
えぃ,もうひとつ。話のついでにさらに余計を申し添えておくと,実は私自身もこの夏,試験に合格した。《実用フランス語技能検定2級》というヤツである。今更といえば今更であり,またハッキリ申して何の役にも立たない資格なのではありますが。。。 ま,長年お世話になった人々へのささやかなる恩返しとでも申しましょうか。え,誰に世話になったかって? それはですネ。ジャック・ブレルJacques Brelとか,マルセル・ムルージMarcel Mouloudjiとか,ジョルジュ・ブラッサンスGeorges BrassensとかバルバラBarbaraとか,いずれも私の知らない異国の世界,異境の文化圏に生き,歌い,そして死んでいったヒトビトである。ちなみにこの試験自体は,例えば仏文科大学生にとっての「通過儀礼」のようなものであるらしい。二次面接試験のときなど,試験会場となった東京・お茶の水にあるアテネ・フランセの控え室のなかはカワイイ系の女子学生とイカシタ系の男子学生が大部分を占めており,それらの連中がフランス語を交えながらキャピキャピワイワイ騒いでいることに気圧された。私のようなミスボラシイ老人にとってはまことに場違いな空間であった。
面接の際,試験官の中年フランス人男性と こんなやりとりを交わした。
- なにか動物を飼ってますか?
- ネコを一匹,飼っとります。
- それは若いネコか,それとも年老いたネコか?
- 3才ですから,人間なら,そうさな,,,,30才くらい?
- それは買ってきたものか? それとも譲り受けたものか?
- うんにゃ。拾ってきたものです。そこらの道端で,ウチの息子が (苦笑)
もとよりフランス語会話なんてまったく習ったこともなく,誰かと話したことすらほとんどなく,文法的にも結構イイカゲンなのだろうけれども,piqué au coin de la rue などというフレーズが多少は受けたようで,それがためか何とか合格できた。ここは捨て猫(ミー太)を拾ってきたアキラに感謝せねばなるまい。あ,それから《街角Coin de Rue》の作者であるところのシャルル・トレネCharles Trenet なんぞにも,ネ
ところで,そのアキラであるが,次には《工業英検3級》を受ける予定だという。んじゃ,私のほうは《実用フランス語技能検定準1級》,かな (マジですか!?)
いわゆる情報科学系の学問というものは,昨今の学芸・技術の世界において まさに主流・主幹となりつつあるのだろう。情報科学に関する知識・知見を抜きにしては今日びの社会経済が立ちゆかなくなるほどに,それは世の中のさまざまなシステムに深く係わりを持ち,広く浸透しているのが現状だと思われる。そして,よく言われるようにIT産業が経済を回しているというのみならず,IT文化は人々の生活の隅々にまで侵食し,IT思想は時代の動向を左右するほどになっている。もとよりそれをメシの種にしている人々は言うに及ばず,大多数の一般大衆を取り込んだ,というよりもむしろ無知蒙昧な大衆が知らぬまに取り込まれたといった方が適当か,要するに誰もがみな情報科学という「媚薬」がタップリと混入された霊験あらたかなスプリング(麗しの泉)あるいは禍々しいドツボ(底なし沼)にどっぷりと漬かっている状態なのだ。そのなかで溺れているシアワセ者もさぞ多かろう。
この一見,世界をバラ色に変貌させたとみえる媚薬,陋習に満ちあふれた閉鎖的旧社会を開放し,輝ける未来へと人々を導くことを期待されたテクノロジーは,いわゆる人類進化史的な観点からすれば,実は旧来の保守的・伝統的で安定した生態系であるところの閉鎖系湖沼に放たれたブラックバスMicropterus salmoidesのごときインパクトに過ぎないのではないか。私にはそんな風に思える。すなわち,徒に平地に乱を起こしているフトドキモノとしての存在。もちろん,それによって旧社会は大きく変容し,場合によっては脆くも崩壊してしまうのであろうケレドモ (で,そのブラックバスを密放流したのは一体誰なん?)
携帯電話という通信機器は,さしずめITの代表選手だろう。タクラマカン砂漠を往き来する遊牧民だとかナイロビ郊外のスラム街でうごめく貧民群だとかは別として,少なくとも高度に文明化された現代資本主義社会に住み暮らす人々は,まさしく今,老いも若きも「ケータイ」に首ったけだ。というかケータイに首根っこを掴まれている。特に最近ではスマートフォンの普及率に目を見張るものがあり,例えば電車に乗って車内をちょいと見渡してごらんなさい。それこそ,こまっしゃくれた小学生から,チャラチャラした美形オネーチャン,キリッとした背広姿のサラリーマン,不機嫌そうな顔つきの中年オバサン,思いっきり黄昏れたオヤジ,果てはヨボヨボ・ジーサンまで,皆が皆スマートフォンに熱心に見入って一心不乱に画面をタップ,スクロールしている。そこではある特定の限られた周波数を介して幾千億もの情報が瞬時に往き来し,交錯し,混濁している。まさに情報のカオスが そこかしこで音もなく爆発を繰り返しているのだ。静けさの騒擾,沈黙の錯乱。10年前,いや,ほんの5年前まではまるで考えられなかった,それはある意味ブキミな光景だ。未来というものは凡人にはなかなか予見できないものである。もちろん,私とてケータイの有する利便性,即時性,情報発信力の優位性などに関しては時代の趨勢として認めるにヤブサカではない。個人的にはケータイを否定ないし拒否する立場にあるものの,世の中全体としては多分もう後戻りはできないのだろうと観念している。ここは猿の惑星じゃないんだから。。。
ああ,何だか久し振りに禄でもない老人性繰り言を縷々述べてしまった。イカンイカン。で,何の話だったか? そうそう,息子の試験についてであった。
そういったケッタイなケータイが蔓延するケッタイな時代のただなかにあって,ひとりのケッタイな,もといシャイな高校生が情報科学のマッタダナカにのめり込んでいるわけである。新しい学問の扉を開けて,その先に自ら積極的に進もうとしているのである。そのこと自体を咎める理由など,たとえ親といえども断じてありはしない。1年の終わり頃だったか,「情報」の授業で「Linuxについて」というプレゼンテーションを行ったそうだ。MS PowerPointを使用したそのプレゼンはなかなか好評であったという。私も後でそのプレゼン資料を見たが,いまだWindowsのWord,Excelくらいしか使いこなせていない自らの貧弱なスキルと比較すると,パワポの持つさまざまなグラフィック機能を駆使して簡潔明瞭,理路整然と作成されたその資料の出来ばえには,おお,知らぬあいだにここまで成長していたのかと,一寸我が子を頼もしく感じたほどだ。こりゃ将来有望かな? (ハイ,馬鹿親です)
けれどもされども,当然のことながら,情報科学の世界において誰もがビル・ゲイツやらスティーブ・ジョブズやらラリー・ペイジやらアラン・ケイやらになれるわけでない。ただ,彼らの華やかな活動ぶりに羨望を抱き,なしとげてきた輝かしい業績を崇め,彼らの精神に心から共感し,そしてそれと同じ方向を追従すべく,自らの身中に取り込むべく,不断の努力を重ねてゆくことは誰にも可能だろう。若さとはそういうものだ。その心意気やよし。結果としてその確率が天文学的数字であったとしても,せめてプチ・ビル・ゲイツくらいにでもなってくれれば親としては素直にウレシイわけで。。。 (ハイハイ,ったく馬鹿親でスミマセンね)
ただし,ここでシビアな現実にいちど立ち返っておく必要もあるのだよ,アキラ君! すなわち,この先すぐに控えている大学への進学ということを改めて視野に入れると,現在の我が家の財政事情からして私立大学の理工系に進むことはまず許されない。バイトして自活するというなら話は別だが,何しろアルバイトなど一度もしたことがない子である。タカシの方は高校時代には体育会系の部活にドップリ浸かっていたにもかかわらず,同時にアルバイトも多少は行っていた。それに比べてアキラの方は,バイトする時間なんかモッタイナイ,その分PCに向かって心ゆくまでプログラミングをしていたいというスタンスの,いわゆる「オタク系」まっしぐらといった様子だ。それゆえ,とにかく国公立大を目指して今から頑張りなさい! と本人に対しては大分前から予防線を張ってある。俗っぽく松・竹・梅で申せば,松=東京工業大学,竹=横浜国立大学理工学部,梅=北見工業大学,そんなところだろうか。現状ではとにかく理系一筋で,学校の勉強としては数学,物理,英語くらいしか熱心にやっておらず,国語,社会など文系科目は放ったらかしのように見受けられるので,大学入試センター試験対策だとかの受験勉強戦略を考えると,この先なかなか前途多難である。さて,松・竹・梅と,どうなることやら。
最後に,取って付けたようではあるけれども,大学受験に限らずこれからの「本統の勉強」に向けての彼の奮闘に期待してエールを送る意味で,宮澤賢治の《生徒諸君に寄せる》の一節を引用しておこう (ハイ,馬鹿親の三連発で恐縮デス。。。)
サキノハカといふ黒い花といっしょに
革命がやがてやって来る
それは一つの送られた光線であり
決せられた南の風である
諸君はこの時代に強ひられ率ひられて
奴隷のやうに忍従することを欲するか
むしろ諸君よ 更にあらたな正しい時代をつくれ
宙宇は絶えずわれらに依って変化する
潮風や風 あらゆる自然の力を用ひ尽すことから一足進んで
諸君は新たな自然を形成するのに努めなばならぬ
新しい時代のコペルニクスよ
あまりに重苦しい重力の法則から
この銀河系を解き放て...
えぃ,もうひとつ。話のついでにさらに余計を申し添えておくと,実は私自身もこの夏,試験に合格した。《実用フランス語技能検定2級》というヤツである。今更といえば今更であり,またハッキリ申して何の役にも立たない資格なのではありますが。。。 ま,長年お世話になった人々へのささやかなる恩返しとでも申しましょうか。え,誰に世話になったかって? それはですネ。ジャック・ブレルJacques Brelとか,マルセル・ムルージMarcel Mouloudjiとか,ジョルジュ・ブラッサンスGeorges BrassensとかバルバラBarbaraとか,いずれも私の知らない異国の世界,異境の文化圏に生き,歌い,そして死んでいったヒトビトである。ちなみにこの試験自体は,例えば仏文科大学生にとっての「通過儀礼」のようなものであるらしい。二次面接試験のときなど,試験会場となった東京・お茶の水にあるアテネ・フランセの控え室のなかはカワイイ系の女子学生とイカシタ系の男子学生が大部分を占めており,それらの連中がフランス語を交えながらキャピキャピワイワイ騒いでいることに気圧された。私のようなミスボラシイ老人にとってはまことに場違いな空間であった。
面接の際,試験官の中年フランス人男性と こんなやりとりを交わした。
- なにか動物を飼ってますか?
- ネコを一匹,飼っとります。
- それは若いネコか,それとも年老いたネコか?
- 3才ですから,人間なら,そうさな,,,,30才くらい?
- それは買ってきたものか? それとも譲り受けたものか?
- うんにゃ。拾ってきたものです。そこらの道端で,ウチの息子が (苦笑)
もとよりフランス語会話なんてまったく習ったこともなく,誰かと話したことすらほとんどなく,文法的にも結構イイカゲンなのだろうけれども,piqué au coin de la rue などというフレーズが多少は受けたようで,それがためか何とか合格できた。ここは捨て猫(ミー太)を拾ってきたアキラに感謝せねばなるまい。あ,それから《街角Coin de Rue》の作者であるところのシャルル・トレネCharles Trenet なんぞにも,ネ
ところで,そのアキラであるが,次には《工業英検3級》を受ける予定だという。んじゃ,私のほうは《実用フランス語技能検定準1級》,かな (マジですか!?)