今年の正月は不思議なことが多く、例えば、元旦の天皇杯サッカーをテレビ観戦したら、僕が住んでいるところに一番近いチーム・柏レイソルが戦っていました。相手はガンバ大阪です。僕はレイソルが勝ちそうに感じていたのですが、後半過ぎに宅急便が届きました。何と、大阪からお餅やお味噌を頂いたのです。そうしたら、ガンバ大阪が延長後半に1点を上げ優勝です。1点はお餅へのお礼でしたね。
また、年末にオグリキャップのことを書いたのですが、2日のTBSで『夢の馬オグリキャップ』を放送したのです。さらに、モーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプスについて書いたとき、コメントでキラキラ星変奏曲の話が出ました。すると、『のだめカンタービレ』ヨーロッパ編の第2部再放送で、この2曲が登場したのです。第1部は観ていたのですが、第2部は見逃していたので今頃の確認です。うーん、ブログやコメントで書くと良いことがあるなと再認識しました。
このように、新年早々にテレビで良いことがあったので、欲を出してカラヤンのコンサート(MXテレビ~東京UHF)を録画したり、挙げ句の果てには観たことのないアニメの名作『銀河鉄道999』の劇場版まで観てしまいました(これもMXTV)。今まで観たことがなかったのは、原作者の松本零士が余り好きではなかったからです。というのも、予備校の寮(渋谷の芸者置き屋)で福岡出身のデザイナー志望の学生二人と一緒になり、その性格に辟易した記憶があるからです。福岡の男は、デリカシーがないというか、自分勝手でナルシシスト、というイメージがこびりついてしまったのです。
二人のうちの一人は漫画家志望で、『ガロ』に掲載されたと喜んでいたことがあったはずです。しかし、芸大に入ってからも、福岡県の男は人種が違うというか、工芸や彫刻科の学生も近所迷惑を顧みない性格でした。でも、女の子は二人ほどモデルとして描いたことがあるので、やはり男を甘やかす伝統なのでしょうね。それで、福岡出身の松本零士の絵はサルマタケというキノコの印象が強く、下品で好きではなかったのです。ですから、『銀河鉄道999』で人気が出てからも、余り食指が動かなかったのです。
さて、この名作ですが、一言で言えばマザコンの美学です。中学校の恩師である浅利篤先生(児童画協会長)は、子供が親の顔を描く場合、母親の顔は逆三角形に描くと分析しています。そう、メーテルの顔は逆三角形で、母親の典型的な顔立ちなのです。また、赤と黒の組み合わせは母親に対する葛藤を表し、白と黒の組み合わせは父親への葛藤と分析しています。メーテルの黒い服は葛藤の黒だったのです。赤い色の代わりに三角形で母親を表していたのです。
この母親に対する葛藤というテーマから、母親の象徴である地球、メーテルの星、メーテルの母親プロメシュームの星、という風に主題が繰り返されて行きます。これらの星は最後には破壊されますが、主人公・星野鉄郎が戦う地球にしても、機械人間に破壊されるにまかされます。これは、原作者の母親に対する葛藤が、破壊衝動を伴うものであることを表しているのです。その破壊衝動を正当化する方便として、高度な機械文明や、機械化された機械人間などが考案されている訳です。ですから、ここには救いはありません。最初から母親との絶望的な別れが用意されているだけなのです。メーテルは、永遠にして手の届かない母親の象徴なのです。
母親に対する愛情と同量の、心の奥に隠された母親に対する葛藤。これが美しい母親を求めながらも破壊するという、正反対の行動へ駆り立てさせているのです。メーテルの悲しげな目は、子供に充分に食べさせることの出来ない母親の無力感を代弁しています。メーテルの小さな口と、食べるシーンの少なさは、戦争前後の食糧難の時代に生きた母親に由来するのです。食べるシーンの多い宮崎駿との決定的な違いがここにあるのです。
しかし、作品として見た場合、宮崎アニメにも多くの影響を与えていたことに驚いています。ラピュタには同じようなシーンが多かったからです。そういう意味では才能を感じさせますが、続編は少し質が落ちましたね。『スターウォーズ』を意識しすぎたのでは…。でも、僕の高校の先輩である宮沢賢治の原作から、銀河鉄道は新たなインスピレーションを得て、メーテルという永遠なる女性を生み出しました。この時代精神。昭和はエポックメイキングな時代であったことを再認識しました。なお、僕がMXテレビで『銀河鉄道999』の放送があると知ったのは、東京大賞典という地方競馬のお陰なのです。年の瀬のレースを見逃し、放送したテレビ局の番組欄を見たら偶然の発見でした。競馬の神様に感謝です。
エフライム工房 平御幸
また、年末にオグリキャップのことを書いたのですが、2日のTBSで『夢の馬オグリキャップ』を放送したのです。さらに、モーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプスについて書いたとき、コメントでキラキラ星変奏曲の話が出ました。すると、『のだめカンタービレ』ヨーロッパ編の第2部再放送で、この2曲が登場したのです。第1部は観ていたのですが、第2部は見逃していたので今頃の確認です。うーん、ブログやコメントで書くと良いことがあるなと再認識しました。
このように、新年早々にテレビで良いことがあったので、欲を出してカラヤンのコンサート(MXテレビ~東京UHF)を録画したり、挙げ句の果てには観たことのないアニメの名作『銀河鉄道999』の劇場版まで観てしまいました(これもMXTV)。今まで観たことがなかったのは、原作者の松本零士が余り好きではなかったからです。というのも、予備校の寮(渋谷の芸者置き屋)で福岡出身のデザイナー志望の学生二人と一緒になり、その性格に辟易した記憶があるからです。福岡の男は、デリカシーがないというか、自分勝手でナルシシスト、というイメージがこびりついてしまったのです。
二人のうちの一人は漫画家志望で、『ガロ』に掲載されたと喜んでいたことがあったはずです。しかし、芸大に入ってからも、福岡県の男は人種が違うというか、工芸や彫刻科の学生も近所迷惑を顧みない性格でした。でも、女の子は二人ほどモデルとして描いたことがあるので、やはり男を甘やかす伝統なのでしょうね。それで、福岡出身の松本零士の絵はサルマタケというキノコの印象が強く、下品で好きではなかったのです。ですから、『銀河鉄道999』で人気が出てからも、余り食指が動かなかったのです。
さて、この名作ですが、一言で言えばマザコンの美学です。中学校の恩師である浅利篤先生(児童画協会長)は、子供が親の顔を描く場合、母親の顔は逆三角形に描くと分析しています。そう、メーテルの顔は逆三角形で、母親の典型的な顔立ちなのです。また、赤と黒の組み合わせは母親に対する葛藤を表し、白と黒の組み合わせは父親への葛藤と分析しています。メーテルの黒い服は葛藤の黒だったのです。赤い色の代わりに三角形で母親を表していたのです。
この母親に対する葛藤というテーマから、母親の象徴である地球、メーテルの星、メーテルの母親プロメシュームの星、という風に主題が繰り返されて行きます。これらの星は最後には破壊されますが、主人公・星野鉄郎が戦う地球にしても、機械人間に破壊されるにまかされます。これは、原作者の母親に対する葛藤が、破壊衝動を伴うものであることを表しているのです。その破壊衝動を正当化する方便として、高度な機械文明や、機械化された機械人間などが考案されている訳です。ですから、ここには救いはありません。最初から母親との絶望的な別れが用意されているだけなのです。メーテルは、永遠にして手の届かない母親の象徴なのです。
母親に対する愛情と同量の、心の奥に隠された母親に対する葛藤。これが美しい母親を求めながらも破壊するという、正反対の行動へ駆り立てさせているのです。メーテルの悲しげな目は、子供に充分に食べさせることの出来ない母親の無力感を代弁しています。メーテルの小さな口と、食べるシーンの少なさは、戦争前後の食糧難の時代に生きた母親に由来するのです。食べるシーンの多い宮崎駿との決定的な違いがここにあるのです。
しかし、作品として見た場合、宮崎アニメにも多くの影響を与えていたことに驚いています。ラピュタには同じようなシーンが多かったからです。そういう意味では才能を感じさせますが、続編は少し質が落ちましたね。『スターウォーズ』を意識しすぎたのでは…。でも、僕の高校の先輩である宮沢賢治の原作から、銀河鉄道は新たなインスピレーションを得て、メーテルという永遠なる女性を生み出しました。この時代精神。昭和はエポックメイキングな時代であったことを再認識しました。なお、僕がMXテレビで『銀河鉄道999』の放送があると知ったのは、東京大賞典という地方競馬のお陰なのです。年の瀬のレースを見逃し、放送したテレビ局の番組欄を見たら偶然の発見でした。競馬の神様に感謝です。
エフライム工房 平御幸