絶不調の時期なので、古代史における夥しい発見という成果をもたらす、僕の日頃の思索法を書いてみます。
思索法として一般に、仮定から結論を導き出す演繹(えんえき)法が用いられます。Ifで始まるものですね。「もしもAという前提ならば、Bという結論が導かれる」というもので、いわゆる推論に属します。対して、帰納(きのう)法と呼ばれるものは、集めたデータが結論を指すものです。理科の観察の方法や、地検の証拠固めに見られます。結論先にありき、というのは思索ではないのです。
例えば、僕の古代史で太陽角度連動メートル法というオリジナル説が出てきます。古代オリエントの、ギザ、ウル、エルサレムの三都市の太陽角度(日没角度や南中高度など)の数値が、そのまま遺跡にセンチやメートルで出現する事から、太陽角度と物差し(尺度)の間に相関関係があるという説です。この場合、数値が同じだというのは集めたデータを分析した結果だから帰納です。対して、相関関係を説明する仮説は演繹なのです。
このように、演繹法と帰納法は密接に結びついていて、頭の中でほとんど同時に進められます。しかし、このような普通の考え方をしていては、夥しい新発見には至りません。というのも、この世界にあるものは大半が結果だからです。結果を導く考え方では、結果という熟れた果実は理解できないのです。このような必然から、結果から過程を推理する逆思考が必要となります。推理小説を、最後のページから読んで行くと、構成がよりよく理解できるのと似ています。
リンゴの果実はなぜ赤いのか?なぜ歪んだ五角形なのか?このように、逆思考は疑問から始まります。そして、一番大事な事は、どんな事にも理由がある、あるい必然性があるということです。その必然性を説明するために、推理したりデータを集めて分析したりが必要となるのです。演繹も帰納も、そういう意味では疑問の奴隷に過ぎません。
さて、僕の思索方法で、疑問の次に大事なのは「極論に振ってみる」という事です。例えば、グレーは白と黒の中間色です。最初からグレーを問題視しても、その本質は見えてきません。そこで、何事も白か黒かに分けてみます。神かサタンかという二元論ですが、これはあくまでも(悪魔ではないニダよ)方便であって、ある特徴を浮き出させる試薬でしかないのです。
両極端に振ってみるという行為は、バイアスをかけるのと同じです。例えば、藤原不比等は日本書紀で歴史を捏造した、と考える研究者がいます。これは極論なので、反対側に振ってみます。藤原不比等は日本書紀に正しい歴史を記した。これも極論なので、大半の研究者はグレーゾーンに落ち着きます。しかし、最初からグレーゾーンにいると、極端に振ったときに見える現象には気がつきません。実は、先の疑問というのは、この極端に振ったときにピコーンと閃くものなのです。
水に酸とアルカリの試薬を混ぜて中和させても、それは純粋な水ではありませんね。でも、見かけは普通の水でも、酸に反応して沈殿する物質や、アルカリに反応して姿を見せる物質もあります。このようにして反応物質(不純物)として取り出せば、分析は極めて楽になります。試薬の酸やアルカリという概念を、古代史や古代遺跡に持ち込み、常識という中和点を破壊する事で、今まで見えなかったものが見えてくるのです。
疑問に思う→逆思考。両極端に振ってみる→バイアス思考。仮説から推理する→水平思考、あるいは円冠思考。データを集めて分析する→垂直思考。このような思考を有機的に行うのが立体思考の世界なのです。東大出の数学者でも、疑問に思うという能力が決定的に欠けているからこそ、古代日本とオリエントの尺度が同一とは理解できないのです。コンピューターが発達した今こそ、コンピューターに出来ない能力が評価されるのです。計算やメモリーはコンピューターに任せましょう。
エフライム工房 平御幸
思索法として一般に、仮定から結論を導き出す演繹(えんえき)法が用いられます。Ifで始まるものですね。「もしもAという前提ならば、Bという結論が導かれる」というもので、いわゆる推論に属します。対して、帰納(きのう)法と呼ばれるものは、集めたデータが結論を指すものです。理科の観察の方法や、地検の証拠固めに見られます。結論先にありき、というのは思索ではないのです。
例えば、僕の古代史で太陽角度連動メートル法というオリジナル説が出てきます。古代オリエントの、ギザ、ウル、エルサレムの三都市の太陽角度(日没角度や南中高度など)の数値が、そのまま遺跡にセンチやメートルで出現する事から、太陽角度と物差し(尺度)の間に相関関係があるという説です。この場合、数値が同じだというのは集めたデータを分析した結果だから帰納です。対して、相関関係を説明する仮説は演繹なのです。
このように、演繹法と帰納法は密接に結びついていて、頭の中でほとんど同時に進められます。しかし、このような普通の考え方をしていては、夥しい新発見には至りません。というのも、この世界にあるものは大半が結果だからです。結果を導く考え方では、結果という熟れた果実は理解できないのです。このような必然から、結果から過程を推理する逆思考が必要となります。推理小説を、最後のページから読んで行くと、構成がよりよく理解できるのと似ています。
リンゴの果実はなぜ赤いのか?なぜ歪んだ五角形なのか?このように、逆思考は疑問から始まります。そして、一番大事な事は、どんな事にも理由がある、あるい必然性があるということです。その必然性を説明するために、推理したりデータを集めて分析したりが必要となるのです。演繹も帰納も、そういう意味では疑問の奴隷に過ぎません。
さて、僕の思索方法で、疑問の次に大事なのは「極論に振ってみる」という事です。例えば、グレーは白と黒の中間色です。最初からグレーを問題視しても、その本質は見えてきません。そこで、何事も白か黒かに分けてみます。神かサタンかという二元論ですが、これはあくまでも(悪魔ではないニダよ)方便であって、ある特徴を浮き出させる試薬でしかないのです。
両極端に振ってみるという行為は、バイアスをかけるのと同じです。例えば、藤原不比等は日本書紀で歴史を捏造した、と考える研究者がいます。これは極論なので、反対側に振ってみます。藤原不比等は日本書紀に正しい歴史を記した。これも極論なので、大半の研究者はグレーゾーンに落ち着きます。しかし、最初からグレーゾーンにいると、極端に振ったときに見える現象には気がつきません。実は、先の疑問というのは、この極端に振ったときにピコーンと閃くものなのです。
水に酸とアルカリの試薬を混ぜて中和させても、それは純粋な水ではありませんね。でも、見かけは普通の水でも、酸に反応して沈殿する物質や、アルカリに反応して姿を見せる物質もあります。このようにして反応物質(不純物)として取り出せば、分析は極めて楽になります。試薬の酸やアルカリという概念を、古代史や古代遺跡に持ち込み、常識という中和点を破壊する事で、今まで見えなかったものが見えてくるのです。
疑問に思う→逆思考。両極端に振ってみる→バイアス思考。仮説から推理する→水平思考、あるいは円冠思考。データを集めて分析する→垂直思考。このような思考を有機的に行うのが立体思考の世界なのです。東大出の数学者でも、疑問に思うという能力が決定的に欠けているからこそ、古代日本とオリエントの尺度が同一とは理解できないのです。コンピューターが発達した今こそ、コンピューターに出来ない能力が評価されるのです。計算やメモリーはコンピューターに任せましょう。
エフライム工房 平御幸