歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

律法について-旅人さんとの対話

2006-01-08 |  文学 Literature
旅人さん:
「怒り」そのものを禁じた律法は旧約聖書にはないように思います。ちなみに、パウロが例示した「むさぼるな」という規定は、「箴言」の第二十三章にあるだけであり、パウロの言う律法自体は、旧約聖書の律法というよりは、かなり一般的な道徳律のように思いますがいかがでしょうか。
旧約聖書の神の姿は「聖なる怒り」を本質的な特徴として持ちますから、「怒り」そのものを禁止する律法は、旧約にはたしかにないですね。もっとも、肯定的な「怒り」は「義憤」と訳すべきかも知れませんが。

同時に、神ならざる人間の「怒り」を「嫉妬」と同じく人間性に内在する根源悪と見なす思想も、旧約聖書の中に既に存在します。たとえば、創世記4-5のカインの怒り、創世記27ー41のエサウの怒りのように、嫉妬から殺人へと発展しかねない怒りは原罪によるものと解釈できるでしょう。松本さんが、「怒り」に駆られた御自身を罪深いものと思われたのも、そのような激情を自己の内に感じられたからではないでしょうか。

貪りについては、モーゼの十戒の最後(出エジプト記20-17)は「貪りを戒めたもの」と理解できないでしょうか。(箴言ではそれを、個人の内面的な道徳へと展開させているともとれるでしょう)

福音書の記者達やパウロが律法によって何を意味していたかというのは大きな問題ですが、律法に当たるヘブライ語トーラーはギリシャ語のノモスや英語のLAWよりも意味が広い。「主の教え」(詩編第一)という根本的な意味から、モーゼの十戒のような、「ユダヤ教の根本的な戒め」を指す場合もあるし、レビ記に定められているような「煩瑣な宗教的禁忌」まで、広狭様々な意味で使われます。

新約聖書で、たとえば「キリストの律法」(1コリ9-21)という言葉が出てきますが、これは「キリストの教え」という意味でしょう。それはユダヤ教の律法(トーラー)の根源にまで遡ってそれを刷新しました。その教えは「霊」によるものであり、「文字は殺すが、霊は活かす」と言われ、キリストの教えは、律法を破棄するのではなく完成させるとも言われました。

異邦人の使徒でもあったパウロが、キリストの教えについて語る場合、異邦人がそれまでに従ってきた宗教や倫理道徳は、ユダヤ人の律法と同じく「古き教え」となります。ロマ書の課題の一つは、ユダヤ人と異邦人の双方に対して、そういう「古き教え」から「新しき教え」への転換を促すことにあったといえるでしょう。

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