歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「小さき声」22号を読む:信仰による決断ということ

2006-01-17 |  文学 Literature
なぜ、既成教会を離脱しなければならなかったか、その問題と、関根正雄先生から示唆された「信仰による決断」ということがどのようにかかわるのかについて、松本馨さんは、10年ほど経過して、自治会活動に深く関わるようになってからも、何度も何度も「小さき声」のなかでとり上げています。

「信仰による決断」によって既成の教会を離れたことの意味は、御自身にとってもすぐに理解されたわけではないようです。それは、様々な二律背反、ジレンマの中での苦しみに満ちた選択で、決断した当人にも、はたしてそれが「信仰による決断」であったのかどうか、決して明瞭ではなかったようです。

けれども、そのときの決断の苦しみは決して無駄なものであったのではなく、あとになってから、自分が失ったキリスト者との交わりを、主が何倍にもして返して下さったのだ、と述べています。松本さんは既成の教会を離れたことにすら、摂理的なものを感じられたようです。なぜならば、既成教会のメンバーとなって、教会という聖域のなかで安心を獲得し、世俗の生活と教会生活の二つを使い分けるのではなく、自治会活動という100%世俗の中で生き抜くことが、そのまま福音を生きることであるということこそが、松本さんが関根正雄から学んだ教えだったからでしょう。

「信仰による決断」は、自由意志を前提します。自己に代わって誰かが決断するということではありません。ただし、多くの場合、なにが最善であるかは私達には見通せないし、対立する選択肢のどちらにも犠牲が伴うことがある。そういう場合、決断をせずに、だれか別のものに、あるいは、外的な権威に決断を委ねたくなるのが人情でしょう。教会では霊的な指導者に決断を委ねることが行われる。そういう信仰は、意志よりも感情に訴える部分が多く、困難な選択を回避しているように松本さんには見えた。関根正雄の教えは、信仰は、なによりも意志の問題であり、信仰により自己が決断することであるということでした。松本さんにとって、信仰は教会のなかで「習慣」として固定された典礼のなかに安心するのではなく、困難な二律背反的な状況の中で、十字架の前に死ぬことによって、そのつど恵みとして与えられるものであったということでしょう。

ただし、松本さんが歩まれた道は、あくまでも「主」が松本さん御自身に示されたものであって、すべての人が松本さんと同じように決断すべきだとは、彼は決して言っていません。松本さんに聖書の言葉を教えられたかたが、無教会主義を捨てて既成教会に入ることについては、松本さんは、それがそのひとの「信仰による決断」ならば、決して反対していないのです。

松本さんが秋津教会の教会籍を離脱した後の秋津教会の信徒の方との交流がどうなったのか、「小さき声」の第263号(1984年12月号)に次のような記事がありました。
「1951年より始まった小松(松本さんのこと)の聖書暗記は、秋津教会を退会したことから一時中断したが、教会の長老、小野宏、泉信夫、それに隣室の立川正一の協力を得て再び始められた。1960年までに共観福音書とヨハネによる福音書、使徒行伝、パウロ書簡、旧約聖書では詩編全編とヨブ記全章を暗記した」
これをみますと、秋津教会の籍を離れたとはいえ、秋津教会の長老をはじめ信徒の方が、教会に籍があるかないかにはこだわらずに、松本さんが聖書を暗記するのを手助けされた事が分かります。
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