歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

公現の主日に

2006-01-09 | 日誌 Diary
昨日は、愛徳会の新年ミサに出席しました。カトリック教会では、新年のミサは普通は「公現の主日」といいます。私は、以前ブログで、「キリストは今何処におられますか」というエッセイの中で、1456年の公現の主日にニコラス・クザーヌスが行った説教を引用したこともあって、550年前の彼の説教の言葉を、改めて思いだしました。公現の主日を單に祝うだけではなくて、イスラエルの王の所在を問う東方の博士達の問を、歴史的な事実の単なる報告ではなく、いつでも何処でもキリスト者に対して問われる、「キリストは今、何処におられますか」という実存的な問に変えて、クザーヌスは、「道であり真理であり命である」キリストを証言していました。

昨年のクリスマスには、愛徳会のBさんから拙宅に電話を頂き、クリスマスパーティに招待されました。パーティには秋津教会のかたも多く来られ、楽しい交わりの時を過ごさせて頂きました。この教会に来るようになってから一年半になりますが、これからも、戦前と戦後のもっとも困難な時代に信徒の方々の書かれたものを蒐集・編集して散逸しないように保存しておきたいと思っています。

昨日の新年礼拝では、ミサの終わりの故人への祈りのなかで、昭和17年の1月13日になくなられた東條文子さんのお名前が、「今週の永眠者」の一人として読み上げられました。ご本名で呼ばれたので、直ぐには気づきませんでしたが、後になってから確認した次第です。帰宅してから、愛徳会からガリ版刷りで出された冊子「いづみ」に掲載された渡辺立子さんのエッセイや、東條耿一の遺稿(書簡)などを改めて読みました。
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