歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

いのちの歌

2008-03-21 |  宗教 Religion
松本馨は、ルカ伝の「放蕩息子の譬」の核心が「永遠の生命」の問題であると述べていた。
永遠の生命をぬきにしては政治活動も平和運動も無意味であります。私は小学校五年生のとき、二階で首を縊っている兄を発見しました。そのとき以来、「人生とは何か、何のために自分は生きているのか」という一生のテーマを与えられました。癩の宣告を受けたときより、観念ではなく現実の問題として、一日としてこの問題から離れて生きることが許されませんでした。それほどに私にとっては切実な問題であります。」(「小さき声86号」より)
「永遠」という言葉を我々はどのように理解すべきであろうか。内村鑑三は、「聖書の研究」93号(明治40年11月10日)の「花巻座談」のなかで、聖書で云う永遠の生命とは、果たして「永い生命であるか?」という根本的な問を出している。もし、「永遠の生命」が、死することなくして無限に永く生きるということ意味であるならば、そのような「永生」を説く教えは、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と云った中国の道徳家にも劣るであろう、と明言して、次のように云っている。
私一個人の経験に於きましても、私が神より新たの真理に接したときに、此真理に接したれば今此時に死んでしまってもよいと思ふた事があります。神の真理に一分時間接すれば人生の苦痛はすべて償はれるのであります、真理とはかくも貴いものであります。必ずしも生命の永きを要求しません。(内村鑑三全集15巻、259頁、旅人さんの「晴読雨読」にもこの文書の復刻版があります。)
つまり、永生などは、決してキリスト教本来の教えではない。量的に「永い生命」ではなく、「一分時間(瞬間)」の内にも体験される「いのち」の根源こそが、聖書のいう「永遠のいのち」である。「永生」を願うことの中には、死すべき定めにある人間的現実の拒否がある。そういう「永生」ではなく、生死の現実の根源にあって、ひとを真に活かしている「いのち」に目覚めることこそ、内村が理解している永遠の生命であるようだ。

私も、内村と同じく、無限に永い生命を望むと云うことのうちには、神々の如くなろうとする不死への願望が潜む点に於いて、非キリスト教的なものがあると思う。

アッシジの聖フランシスの「平和の祈り」には、
我等は、与えるが故に受け、ゆるすが故にゆるされ、おのが身を捨てて死するが故に、永遠の生命を得る
という言葉がある。これは、カトリック教会、とくにフランシスコ会の教会ではミサの後でよく唱える祈りであるが、「死するが故に永遠の生命を得る」とは、ヨハネ伝の「一粒の麥」の譬えとおなじく、新約聖書の核心にあるメッセージである。それは、無限に永く生きようとする人間的な願望を否定している点で、むしろ、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉と共鳴している。
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