歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「中」の教え-中庸章句を読む

2008-07-07 |  宗教 Religion
 江文也の「上代支那正樂考」は正しくは、「上代中国正樂考」と呼ばれるべきものであった。是はその内容から言うのであって、江氏自身も、「支那」とは地理的名称としての便宜のためと言っている。当時の日本人が一般に使っていた「支那」を彼もまた使ったわけであったが、これが妥協であったことは言うまでもない。

 江氏の本を再読して、私は地理的名称としての「中国」ではなく、文明の名称としての「中国」ということを考えるようになった。「中國」の道徳の根本は、「中」でなければならず、朱子学で言う「中」の美徳こそが中華文明の根本に無ければならぬと思うようになったのである。敢えて言うならば、今の日本人はもちろんのこと、現在の中国人もまた、「中國文明」の核心にある「中」の美徳を忘却してしまったのではないかと思うことが屡々ある。朱子の「中庸章句」から、「中」の教えが如何なるものであったかを学ぼう。

 天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教。

 tian1 min2 zhi1 we4i xing4, shua4i xin4 zhi1 we4i da4o, xiu1 da4o zhi1 we4i jia1o.

天の命ずるをこれ性と謂い、性に率(したが)うをこれ道と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。

 朱子学の魅力の一つは、それが総合思想、普遍思想であるということである。いうなれば中華文明のカトリシズムである。朱子が中国のアリストテレスと呼ばれる所以である。しかし、中国にはアリストテレスをキリスト教化したトマス・アクイナスの如き人物はいない。彼は世俗の政治倫理を説いたのみであるし、トマスの如き超自然の啓示にもとづく恩寵概念はない。しかし、朱子は、古代ギリシャに淵源する西洋哲学に比肩すべき独自の自然哲学、倫理学を体系化したのみならず、アリストテレスと同じく、特定の宗教的ドグマに拘束されはしないが、人間の道の中に、「天の道」すなわち超越的なるものへの開けをもつ思想家である。

 「性」xing4 とは、万物の本性であり、それは天の命ずるところであるという。「天」は、それ自身はキリスト教の神の如き人格神ではないが、人格を可能ならしめる超越者であり、人の本性を理解することは、それが天命であること知ることである。言い換えるならば、人間の本性のなかには、超越的なるものへの開けがある。そのような人間の本性に従うことが道であり、道を修めること、すなわち修道が「教」だという。

朱子学が儒教・道教・仏教の三つの教えを儒教の側から統合したものであるとはよく言われるが、この哲学的宗教の射程は長い。そこには自然環境の破壊、競争原理と市場経済における私益追求による社会環境の破壊に直面している現代文明が学ばなければならぬ叡智がある。

 現代文明は宗教を忘れた文明であり、宗教的基盤なき道徳は單なる形式的な建前にすぎず、力無きものである。道徳の基礎には宗教がなければならぬが、そのような宗教の本質を、哲学的に「天命」「性」「道」「教」の四つの概念によって簡潔に示した文によって中庸章句は始まる。きわめて理に適った普遍思想であり、久遠の哲学philosophia perennis et universalis と謂うべきではなかろうか。 
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