歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

黄泉に下る菩薩―道元の遺偈についての考察

2018-05-12 |  宗教 Religion
黄泉に下る菩薩―道元の遺偈についての考察
 
前に法華経の行者としての道元について語ったときにも言及したが、入滅を前にして道元は法華経神力品の一節を唱えながらそれを柱に記した。その翌朝、道元は居ずまいを正して次の遺偈(遺言としての詩)を弟子達に残したと云われている。(建撕記)
 
五四年第一天を照らす  この𨁝跳を打し大千を触破す
咦、渾身もとむるなし  活きながら黄泉に陥つ  
 
道元禅師の遺偈の遺偈、とくに「活陷黄泉」(活きながら黄泉に陥つ)の結びの言葉についていささか私見を述べたい。
 
生前に悟りを開いた人ならば、肉体の死は「無余涅槃」に入ることを意味するのだから、輪廻転生の世界から完全に解脱するはずである。浄土を信ずる他力門の人ならば、肉体の死後極楽往生が決まっているはずであるから、地獄に落ちる心配など無いであろう。それでは、道元禅師の遺偈の「活きながら黄泉に陥つ」とは何を意味するのであろうか? 
 
道元の遺偈は単独で考察するのではなく、師の如浄と弟子の懐奘の二人の遺偈との関連で考察するのが妥当であろう。六六歳でなくなった如浄禅師、八三歳でなくなった孤雲懐奘のどちらの遺偈にも「黄泉に陥つ」ないし「地泉に没する」の句があるからである。
 
如浄ー道元ー懐奘 と受け継がれたものは「菩薩戒」による仏道の実践であったと思う。菩薩の道は、「一切の衆生を救済しようという」大悲の誓願に基づく。如浄から嗣法した道元の仏道とは「見性成仏」だけの「禅宗」という宗派ではなく、菩薩道の実践としての大乗禅であった。
 
「黄泉に陷つ」とはマイナスのイメージを持つ言葉である。端的に言えば「地獄に落ちる」ことであり、悟りを開いた人が行くべき処ではないであろう。鈴木大拙によれば、「凡ての人を救うためならば、自分はたとえ地獄に落ちてもかまわない」という心構えが菩薩道だとのこと。上求菩提下化衆生の菩薩の誓願をさらに徹底した禅師の言葉として道元の遺偈を読み直してみたい。
 
「五十四年 照第一天 打箇𨁝跳 觸破大千」
 
大千とは三千世界のことで、法華経の行者でもあった道元は、第一天から地獄に至るまで、一瞬にしてこの世界すべてに触れ、それらを突破したであろう(一念三千の徹底)。
 
「渾身無覓 活陷黄泉」
 
菩薩はあえて涅槃に入らず、地獄に落ちた罪人を救うために自ら黄泉に下っていく。「無覓」とは「求むること無し」という意味であるが、それは「自分一身の幸せを求むること無く」と解したい。
 
「渾身」という言葉は、「身の全体をあげて」という意味であるが、道元の「正法眼蔵」の「摩訶般波羅密」で引用されている如浄禅師の「風鈴頌」のキーワードでもある。道元はこの詩について「これ仏祖嫡嫡の談般若なり。渾身般若なり。渾他般若なり。渾自般若なり。渾東西南北般若なり」と云っている。般若心経の「般若」とは仏の智慧を意味するが、単なる分別知などではなく、「一切の苦しみを度する智慧」「一切を差別せずに救済する知恵」であり、菩薩道では「大悲」となって働く。
 
如浄の遺偈には「罪犯彌天」、懐奘の遺偈には「一生罪犯覆弥天」の言葉がある。これは罪の懺悔であるが、菩薩の懺悔は、衆生の犯したすべての罪を自己自身の罪として引き受けるところから発する。それこそが縁起(自己と無関係なものは何一つない相互依存性)を活きる菩薩の実感なのであろう。
 
如浄から菩薩戒をうけて嗣法した道元の遺偈を、この意味で「黄泉に下る菩薩」のことばとして読むのが妥当であろう。
 
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  如浄禅師の遺偈
 
六十六年 罪犯彌天 打箇𨁝跳  活陷黄泉 
咦 従来生死不相干
 
  道元禅師の遺偈
 
五十四年 照第一天 打箇𨁝跳 觸破大千 
咦 渾身無覓 活陷黄泉  
 
  孤雲懐奘の遺偈  
 
八十三年如夢幻   一生罪犯覆弥天 而今足下無糸去  
虚空踏翻没地泉
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仏祖の座禅と菩薩道―道元最期の在家説法について

2018-05-12 |  宗教 Religion
仏祖の座禅と菩薩道―道元最期の在家説法について
 
建長五年(一二五三)、道元は波多野義重および弟子達の請願に従って上洛、西洞院の覚念の邸で病気療養のかたわら在家の人々に説法していた。ある日、邸中で経行しつつ妙法蓮華経神力品の巻を低声にて唱えた後、それを自ら面前の柱に書付け、その館を妙法蓮華経庵と名付けたと言われる(建撕記巻下などの伝承による)。そこには次のような言葉がある。
 
「僧坊にあっても、白衣舎(在俗信徒の家)にあっても、殿堂にあっても山谷曠野にあっても、この処が即ち是れ道場であるとまさに知るべきである。諸仏はここにおいて法輪を転じ、諸仏はここにおいて般涅槃す」
 
僧坊にあっても在家の弟子の家であっても、今自分がいるその場所こそが「道場」であり、転法輪の場所であり、完全なる涅槃に入る場所であるというのが、道元の最期の在家説法の趣旨であろう。
 病中でありながら在家説法を続けていた道元によせて、私は、なぜか宮沢賢治が病死する直前まで農民の相談に乗っていたことを思い出した。
 晩年の道元は厳しい出家主義の立場であったといわれることが多いが、私は、道元は最期まで在家の信徒のことを忘れていたわけではないと思う。
 
道元禅には菩薩道の実践という意味があったことは、「傘松道詠」所収の次の和歌からもうかがわれる。
 
 愚かなる我は仏にならずとも衆生を渡す僧の身ならん
 草の庵に寝ても醒めても祈ること我より先に人を渡さん
 
道元の師、如浄禅師もまた、「座禅の中において衆生を忘れないこと」一切の衆生を慈しみつつ座禅の功徳を廻向する」ことの大切さを説いている。
 
「いわゆる仏祖の座禅とは、初発心より一切の諸仏の法を集めんことを願ふがゆえに、座禅の中において衆生を忘れず、衆生を捨てず、ないし昆虫にも常に慈念をたまひ、誓って済度せんことを願ひ、あらゆる功徳を一切に廻向するなり。」
(『宝慶記』ー入宋沙門道元自身が記録した如浄との問答記録ーによる)
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道元の男女平等観ー「礼拝得髄」再読

2018-05-12 |  宗教 Religion
道元の男女平等観ー「礼拝得髄」再読
 
「平等」は「博愛」と「自由」とならんでフランス革命以後の西欧近代の人権思想を特徴付ける基本語であるが、その意味するところが真に理解されているとは言いがたい。人権思想はキリスト教に由来する欧米の価値観の表現に過ぎず、それ以外の宗教を背景に持つ東洋の文明には無条件で適用できないということが、日本の伝統思想を重んじると自負する人から語られることが多い。しかし、日本思想を形成した仏教の古き伝統にさかのぼることによって、「平等」「博愛」「自由」という三つの基本語の意味するものに、単に西洋近代にのみ限定された特殊なイデオロギーではなく、古今東西を超えた普遍思想を見いだすことはできないであろうか。
 
まずはじめに「平等」について、それも最近問題となっている「女人禁制」の宗教的制度の批判や仏教に於ける「男女平等」について考えてみたい。
 
道元は正法眼蔵の「礼拝得髄」の巻で次のように「女人禁制」の「結界」を批判している。
 
「日本国にひとつの笑ひごとあり。いはゆる、あるいは結界の地と称し、あるいは大乗の道場と称して、比丘尼・女人を来入せしめず。邪風ひさしくつたはれて、ひとわきまふることなし。稽古の人あらためず、博達の士もかんがふることなし。あるいは権者の所為と称し、あるいは古先の遺風と号して、さらに論ずることなき、わらはば人の腸もたえぬべし。権座とはなにものぞ。賢人か聖人か、神か鬼か、十聖か三賢か、等覚か妙覚か。また、ふるきををあらためざるべくば、生死流転をば捨つべきか」
 
女人禁制は、「邪風(誤った風習)」であるにもかかわらず、長い間おこなわれているために何人もその間違いを知らず、「稽古の人(伝統を考慮する人)」も改正せず、博学達識の人が考慮も論議もしないのは、腸がよじれるほど可笑しなこと、古くからのしきたりであると言うだけで現状維持に甘んじてそれを変革しないというのは、生死流転の世に執着してそれを捨てないのと同じだ、という道元の舌鋒は鋭い。
 
 男性中心的な価値観の浸透した社会で制度化された仏教には様々な女性差別が行われてきたことは歴史的事実であるが、道元は、「極位(最高位)の功徳は(男女)差別せず」
とのべたあとで、優れた女人の仏弟子の実例を挙げ、「阿羅漢(聖者)となった尼僧は多く、女人が既に仏となったときには、その仏の功徳は世界中に充満しただろう」とまで言っている。
 
 最近、相撲の土俵の上に女性をあげることの是非が新聞を賑わせたが、相撲はもともと「神事」であり、レスリングのような単なる格闘技ではない。土俵の上は聖なる空間と俗なる空間を区別する「結界」の意味がある。したがって「結界」の持つ宗教的意味を考慮しないで単に世俗の男女平等倫理だけで女人禁制について論じることはできないであろう。それでは仏教者として男女平等論を説く道元は、「結界」についてどう言っているのか。
 
 道元は「諸仏の結びたもう結界に入る者が諸仏も衆生も大地も虚空もあらゆる繋縛から解脱して諸仏の妙法に帰源すること」を重視し、結界という小世界のみを清浄な場所として女人を排除するのではなく、「一方や一区域を結するときは宇宙全体が結せられる」ことをわきまえ、「済度摂受に一切衆生みな化を蒙らん功徳を礼拝すべし」と結んでいる。
 
 「諸仏の妙法」という根源に帰ったところから看れば、結界に女人を入れないという差別思想が入り込む余地はない。
 
 以前、道元から深く学んだ岡潔の思想について述べたときにも言及したように、「無差別智」をもって真智とし、差別構造を生み出す「分別知」を妄知として退ける仏教的智の伝統を我々は思い起こす必要があるだろう。それこそが、男女の平等を実践する宗教的基盤を与えていると思う。
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