17日、北京パラリンピックが閉幕した。オリンピックほどではないが、いくつかの競技をテレビで見た。種々のハンディを抱えながらも立派に競技を行っている障害者の方々の姿は、正直、驚きであったし(僕など足元にも及ばないレベルの高さである)、まったく、ここに至るまでの皆さんの努力に対して敬服せざるを得ない。
日本のメダル獲得数は金5、銀14、銅8の計27個と、前回アテネの52個から半減したそうだが、僕は、メダルの有無に拘わらず、参加された方全員に称賛とねぎらいの言葉を伝えたい。
北京のメダル獲得数のトップは 211個獲得した開催国の中国である。2位はイギリスで102個、以下、米国、ウクライナ、オーストラリアと続く。中国は開催国の面子をかけ、国として強力なバックアップを行い、選手の育成・強化に努めてきたのであろう。中国のメダル数は、アテネより種目数が1割減った中で、なんと5割増である。
貧富の差が激しく、かつ利己主義の強い中国において、障害者の生活は一般に極めて厳しいものと思われる。それこそ日々の生活を憂うことなく安心してスポーツに打ち込める環境など程遠いであろう。にもかかわらず、この結果である。僕は国の支援自体を否定するものではないが、一部の選ばれた人だけを支援するよりも、国は他の多くの障害に苦しむ人々の生活を助けることに力点を置くべきではないかと思う。
勿論、こうした動きは中国だけでなく、大なり小なり他の国にも言えるであろう。オリンピック開催国での同時開催となって以降、パラリンピックの競技性が高まっていることは事実である。今回種目数が減らされたのも、障害の度合いに応じ細かにクラス分けしていては金メダルの数が多くなり、その価値が低くなってしまう、との理由からなのである。
そもそもオリンピックの精神は「参加することに意義がある」であり、つまり、オリンピックは勝つことではなく、参加するまでの努力や過程、そして参加することを通じて他の参加者と交流し世界平和の実現を目指す、というものである。最近のオリンピックは商業化が進み、又、国威発揚など政治目的にも利用されているが、パラリンピックも同じ道を歩もうとしているのだろうか。
障害を乗り越えてスポーツを行っているパラリンピックの参加者こそ、それまでの努力のプロセスが評価、称賛されるべきであり、参加できるだけで素晴らしいと思うのだが、今のパラリンピックにそうした考えは通用しないのだろうか。障害者の方の生きがい、喜びのためにスポーツの場を、と考えたとき、何か別の方法を作らないといけないのだろうか。
が、一方で、こんなことを考えるのは、ある意味、健常者の傲慢かもしれないとも思う。即ち、障害者の方々も技術やスピードの極みを追及しているのであって、そんな甘い考えなど要らない、ということかもしれないのである。ウーン、難しい問題である。
日本のメダル獲得数は金5、銀14、銅8の計27個と、前回アテネの52個から半減したそうだが、僕は、メダルの有無に拘わらず、参加された方全員に称賛とねぎらいの言葉を伝えたい。
北京のメダル獲得数のトップは 211個獲得した開催国の中国である。2位はイギリスで102個、以下、米国、ウクライナ、オーストラリアと続く。中国は開催国の面子をかけ、国として強力なバックアップを行い、選手の育成・強化に努めてきたのであろう。中国のメダル数は、アテネより種目数が1割減った中で、なんと5割増である。
貧富の差が激しく、かつ利己主義の強い中国において、障害者の生活は一般に極めて厳しいものと思われる。それこそ日々の生活を憂うことなく安心してスポーツに打ち込める環境など程遠いであろう。にもかかわらず、この結果である。僕は国の支援自体を否定するものではないが、一部の選ばれた人だけを支援するよりも、国は他の多くの障害に苦しむ人々の生活を助けることに力点を置くべきではないかと思う。
勿論、こうした動きは中国だけでなく、大なり小なり他の国にも言えるであろう。オリンピック開催国での同時開催となって以降、パラリンピックの競技性が高まっていることは事実である。今回種目数が減らされたのも、障害の度合いに応じ細かにクラス分けしていては金メダルの数が多くなり、その価値が低くなってしまう、との理由からなのである。
そもそもオリンピックの精神は「参加することに意義がある」であり、つまり、オリンピックは勝つことではなく、参加するまでの努力や過程、そして参加することを通じて他の参加者と交流し世界平和の実現を目指す、というものである。最近のオリンピックは商業化が進み、又、国威発揚など政治目的にも利用されているが、パラリンピックも同じ道を歩もうとしているのだろうか。
障害を乗り越えてスポーツを行っているパラリンピックの参加者こそ、それまでの努力のプロセスが評価、称賛されるべきであり、参加できるだけで素晴らしいと思うのだが、今のパラリンピックにそうした考えは通用しないのだろうか。障害者の方の生きがい、喜びのためにスポーツの場を、と考えたとき、何か別の方法を作らないといけないのだろうか。
が、一方で、こんなことを考えるのは、ある意味、健常者の傲慢かもしれないとも思う。即ち、障害者の方々も技術やスピードの極みを追及しているのであって、そんな甘い考えなど要らない、ということかもしれないのである。ウーン、難しい問題である。