先日、東日本大震災で自ら被災しながらも患者の避難や治療に努めた南三陸町志津川病院の医師(当時)菅野武氏の講演を聞く機会があった。
菅野先生は、津波で多くの人の命や生活が理不尽に奪われていくのを目の当たりにし、一時はご自身も死を覚悟されたと言う。それでも先生は、最後まで医師として被災された方に寄り添い、多くの患者さんの支えになろうとした。
しかし、先生は言う。何も自分はスーパーマンではないし、誰もが皆各々の出来ることをやっていただけだと。多くの人の助けがあればこそ出来たのだと。
自衛隊による救援活動、NGOであるHuMA(災害人道医療支援会)や全国から駆けつけてくれた自治医科大学OBの支援チーム、それに国境なき医師団やイスラエル医療団など海外からの支援。そして、阪神・淡路大震災で被災された方々の支援。彼らは、あのとき多くの人に助けてもらったのに自分たちは何もお返しができていない、これで漸く恩返しができると言って、喜んで助けに来てくれたという。やっと被災者から被災経験者に変わることが出来たというのである。
先生のお話を聞き、人と人とのつながりや絆の大切さ、尊さに感動し、同時に何もできない自分の不甲斐なさを深く反省した。
震災の直後、3月16日に菅野先生に長男が誕生した。この長男・怜君は、先生一家の救世主であり、かつ先生がアメリカTIME誌で「世界で最も影響力のある100人」に選ばれるきかっけになったのであった。
実は、先生が住んでいたアパートは津波で流された。奥様と3歳のお嬢さんがアパートにいたなら、二人が生きていられたかどうかわからない。しかし、幸い、出産のため奥様とお嬢さんは仙台の先生の実家に行っていたのであった。偶然なのか、それとも神様の思し召しなのか、危機一髪、二人は難を逃れたのであった。
また、震災後、多くの尊い命が失われた中で新しく生まれた命ということで、NHKのニュースで先生と怜君のことが採り上げられ、それがNHKオンラインを通じ世界に配信され、先生がTIME誌に取材されることになったのである。
ところで、志津川病院のある南三陸町は宮城県北東部に位置し、リアス式海岸の景観が美しい町である。震災前の人口は1万7千人。町の中心部が海岸から近いため、震災による死者・行方不明者が千人、避難者が1万人と町民の半数以上が被災したという。建物は6割以上が流出した。志津川病院は5階建てであるが、なんと4階まで津波にのまれたといい、その凄まじさが窺われる。
南三陸町の復興は未だ緒に就いたばかり。先生の経験、そして今の南三陸町の姿は、将来起こり得るであろう災害に備え、語り継いで行くべきだ。まだJR気仙沼線は復旧していないが、この夏、南三陸町に行こうと思う。是非行ってみたい。
菅野先生は、津波で多くの人の命や生活が理不尽に奪われていくのを目の当たりにし、一時はご自身も死を覚悟されたと言う。それでも先生は、最後まで医師として被災された方に寄り添い、多くの患者さんの支えになろうとした。
しかし、先生は言う。何も自分はスーパーマンではないし、誰もが皆各々の出来ることをやっていただけだと。多くの人の助けがあればこそ出来たのだと。
自衛隊による救援活動、NGOであるHuMA(災害人道医療支援会)や全国から駆けつけてくれた自治医科大学OBの支援チーム、それに国境なき医師団やイスラエル医療団など海外からの支援。そして、阪神・淡路大震災で被災された方々の支援。彼らは、あのとき多くの人に助けてもらったのに自分たちは何もお返しができていない、これで漸く恩返しができると言って、喜んで助けに来てくれたという。やっと被災者から被災経験者に変わることが出来たというのである。
先生のお話を聞き、人と人とのつながりや絆の大切さ、尊さに感動し、同時に何もできない自分の不甲斐なさを深く反省した。
震災の直後、3月16日に菅野先生に長男が誕生した。この長男・怜君は、先生一家の救世主であり、かつ先生がアメリカTIME誌で「世界で最も影響力のある100人」に選ばれるきかっけになったのであった。
実は、先生が住んでいたアパートは津波で流された。奥様と3歳のお嬢さんがアパートにいたなら、二人が生きていられたかどうかわからない。しかし、幸い、出産のため奥様とお嬢さんは仙台の先生の実家に行っていたのであった。偶然なのか、それとも神様の思し召しなのか、危機一髪、二人は難を逃れたのであった。
また、震災後、多くの尊い命が失われた中で新しく生まれた命ということで、NHKのニュースで先生と怜君のことが採り上げられ、それがNHKオンラインを通じ世界に配信され、先生がTIME誌に取材されることになったのである。
ところで、志津川病院のある南三陸町は宮城県北東部に位置し、リアス式海岸の景観が美しい町である。震災前の人口は1万7千人。町の中心部が海岸から近いため、震災による死者・行方不明者が千人、避難者が1万人と町民の半数以上が被災したという。建物は6割以上が流出した。志津川病院は5階建てであるが、なんと4階まで津波にのまれたといい、その凄まじさが窺われる。
南三陸町の復興は未だ緒に就いたばかり。先生の経験、そして今の南三陸町の姿は、将来起こり得るであろう災害に備え、語り継いで行くべきだ。まだJR気仙沼線は復旧していないが、この夏、南三陸町に行こうと思う。是非行ってみたい。