縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

藤田嗣治と戦争画

2015-12-09 22:53:17 | 芸術をひとかけら
 昨日、辻井信行のピアノ・リサイタルに行って来た。テレビ東京の『美の巨人たち』という番組の15周年記念スペシャルコンサートに運良く行くことができたのである。

 この番組は土曜の夜10時からの放送。毎回一つの絵画や彫刻などの美術作品を取り上げ、単なる作品の紹介に止まらず、時代背景や作者の制作の動機、想いまで、作品を掘り下げて紹介する番組である。地味な番組だし、おそらく視聴率もあまり高くない(失礼)と思うが、よく15年も続いたものである。番組のスポンサー(当初はエプソン、今はキリン)に敬意を表したい。

 ところで、今、藤田嗣治(ふじた つぐはる)がちょっとしたマイブーム。勿論、彼の作品を買うお金などない。先月映画『FOUJITA』を観て、先週『美の巨人たち』で彼の『寝室の裸婦キキ』の放送を観たのである。
 藤田といえば、20世紀前半のエコール・ド・パリを代表する画家である。女性と猫を好んで描き、彼にしか出せない「乳白色の肌」はフランスで大絶賛された。日本画のような輪郭線に、透明感のある女性の肌。こうした彼独自の技法、作品は、あのピカソにも称賛されたという。

 が、僕は、彼の作品よりも彼の人生に興味がある。

 藤田は1886年生まれ。父親は陸軍軍医。彼は東京美術学校で絵を学び、1913年にフランスに渡った。第二次世界大戦でパリが陥落するまでの30年近く、主にパリで過ごした。
 1920年代、第一次世界大戦後の好景気に沸くパリ、狂乱の時代。藤田は、毎夜繰り返される乱痴気騒ぎの中、その渦の中心にいた。もっとも彼は酒が飲めず、日本人である自分がパリで受け入れられるため、意図的にバカを演じていたらしい。彼の計算通り、彼は時代の寵児ともてはやされた。

 昨年、僕は東京国立近代美術館で偶然彼の『アッツ島玉砕』を観た。そう、太平洋戦争中、藤田は「戦争画」を描いていたのである。戦後、彼は罪にこそ問われなかったが、画壇から戦争協力を強く非難され、ついには再度パリへと移住した。後にフランス国籍を取り、彼は生涯日本に戻らなかった。

 藤田はどのような気持ちで戦争画を描いたのだろう。彼の描いた『アッツ島玉砕』や『サイパン島同胞臣節を全うす』(同じく東京国立近代美術館所蔵)は、いずれも戦意高揚には程遠い絵だ。戦争の悲惨さ、あるいは人間の死そのものが描かれている。そこには「乳白色の肌」はなく、あるのはただ暗い色彩のみ。
 こうした絵は、本土決戦・1億総玉砕を唱えていた軍部の要請により、ある種のプロパガンダとして描かれたのであろう。彼自身、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いた」と後に記している。即ち、日本国民として、画家として、義務を果たしただけなのである。また、フランスで成功を収めたものの日本では無視され続けていた藤田には、日本の画壇、さらには日本社会に認められたいとの想いもあったのかもしれない。

 しかし、パリで自由を謳歌した藤田、第一次世界大戦下のパリで戦争の恐怖、悲惨さを感じたであろう藤田に、心の葛藤はなかったのだろうか。
 映画『FOUJITA』では、戦争画を描く藤田の気持ち、内面はあまり触れられていなかった。『美の巨人たち』は『寝室の裸婦キキ』がテーマであり、話題はもっぱら「乳白色の肌」。『美の巨人たち』には末永く番組を続けて頂き、今度は是非藤田の内面に踏み込んだ番組をお願いしたい。