先週末、木曽音楽祭に行ってきた。毎年この時期に、長野県南部は木曽町で行われる音楽祭である。今年で34回目を迎えた。キャッチフレーズ『小さな町の素敵な音楽祭』のとおり、人口1万3千人の小さな町の人たちによる、手作りでアットホームな、本当に素敵な音楽祭である。
我々は今回で2回目。おととし、サントリーホールでもらったチラシの中で偶然見つけたのがきっかけだった。避暑を兼ねて信州に行き音楽三昧というのも悪くないなと思ったのである。去年は忙しく行くことができなかったが、今年こそはと勢い込んでやって来たのだった。
まずは木曽町について。木曽町は2005年11月に木曽福島町を中心に周りの3つの村と合併してできた町である。源平の合戦で有名な「木曾義仲」の育った町である。北アルプスと中央アルプスとに挟まれた山あいにあり、中山道の宿場町としても有名である。
行って初めて知ったが、木曽駒高原は別荘地になっており、おそらく名古屋の人にとっての箱根といった感じではなかろうか。今回はあいにくの雨だったが、前回は天気に恵まれ、星空が大変きれいだったことを覚えている。
で、肝心の音楽はというと、モーツァルトなどの室内楽が中心である。日本の著名なソリストやオーケストラの首席奏者など、錚々たるメンバーが参加している。下世話な話で恐縮だが、会場は定員700名の小さなホールであり、きっと出演料は安いに違いない。それでもこれだけのメンバーが集まるというのが凄い。今年のメンバーではピアノの野島稔やヴァイオリンの長原幸太が一番人気だったと思う。
「だったと思う」というのは、恥ずかしながら、僕はこの二人のことを昨日までよく知らなかったのである。野島稔は、日本に加えアメリカを拠点に活動していること、CDの録音が少ないことなどから、わが国での知名度こそ低いが、「知る人ぞ知る、クラッシクマニア垂涎のピアニスト」(妻の知人談)だそうである。
一方、長原幸太は1981年生まれと若いが、現在大阪フィルの主席コンサートマスターを務めるほか、ジャズも演奏するは、「のだめオーケストラ」のコンサートマスターになるは、八面六臂の活躍である。又、あしながコンサートなどチャリティ活動にも熱心とのことである。(と、昨日もらった読売日響のプログラムに書いてあった。)
お隣の松本市で行われるサイトウ・キネンほどの規模も派手さもない、いたって地味なこの木曽音楽祭の、何がこうした一流の演奏家を集めるのか。そして、何が根強いファンを集めるのか。
それは、この音楽祭が、温かい町の人たちに支えられた手作りの音楽祭であり、それが木曽の美しい自然と相俟って、人々に安らぎを与えるからだと思う。
この音楽祭は1975年に地元の有志によって始められた。こんな田舎の町だけれど、皆に生の音楽を聞かせたい、との思いからである。当時の唐沢町長と奥様が随分ご尽力されたと聞いたが、それは町としての支援ではなく、金銭面も含め、個人としての支援だったそうである。そんな中、町の人たちも宿を提供したり、食事の準備をしたり、会場のお手伝いをしたりと、今でいうボランティアとして協力したそうだ。
80年代半ばから町が運営に携わるようになったものの、今でも町の人たちのボランティア精神は受け継がれている。又、出演者の方もいまだにホテルに泊まる方は少なく、多くの方は町の人のお世話になるのを楽しみにしているらしい。
そう、言ってみれば「おらが町の、おらが音楽祭」なのである。だからこそ落ち着く、安心するのである。
ところで、木曾義仲は、倶梨伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って上洛するも、朝廷から山村育ちで知識も教養もない粗野な人物だと疎んじられた。もし義仲の時代に「木曽音楽祭」的なものがあったなら、日本の歴史は変わっていたかもしれない。
我々は今回で2回目。おととし、サントリーホールでもらったチラシの中で偶然見つけたのがきっかけだった。避暑を兼ねて信州に行き音楽三昧というのも悪くないなと思ったのである。去年は忙しく行くことができなかったが、今年こそはと勢い込んでやって来たのだった。
まずは木曽町について。木曽町は2005年11月に木曽福島町を中心に周りの3つの村と合併してできた町である。源平の合戦で有名な「木曾義仲」の育った町である。北アルプスと中央アルプスとに挟まれた山あいにあり、中山道の宿場町としても有名である。
行って初めて知ったが、木曽駒高原は別荘地になっており、おそらく名古屋の人にとっての箱根といった感じではなかろうか。今回はあいにくの雨だったが、前回は天気に恵まれ、星空が大変きれいだったことを覚えている。
で、肝心の音楽はというと、モーツァルトなどの室内楽が中心である。日本の著名なソリストやオーケストラの首席奏者など、錚々たるメンバーが参加している。下世話な話で恐縮だが、会場は定員700名の小さなホールであり、きっと出演料は安いに違いない。それでもこれだけのメンバーが集まるというのが凄い。今年のメンバーではピアノの野島稔やヴァイオリンの長原幸太が一番人気だったと思う。
「だったと思う」というのは、恥ずかしながら、僕はこの二人のことを昨日までよく知らなかったのである。野島稔は、日本に加えアメリカを拠点に活動していること、CDの録音が少ないことなどから、わが国での知名度こそ低いが、「知る人ぞ知る、クラッシクマニア垂涎のピアニスト」(妻の知人談)だそうである。
一方、長原幸太は1981年生まれと若いが、現在大阪フィルの主席コンサートマスターを務めるほか、ジャズも演奏するは、「のだめオーケストラ」のコンサートマスターになるは、八面六臂の活躍である。又、あしながコンサートなどチャリティ活動にも熱心とのことである。(と、昨日もらった読売日響のプログラムに書いてあった。)
お隣の松本市で行われるサイトウ・キネンほどの規模も派手さもない、いたって地味なこの木曽音楽祭の、何がこうした一流の演奏家を集めるのか。そして、何が根強いファンを集めるのか。
それは、この音楽祭が、温かい町の人たちに支えられた手作りの音楽祭であり、それが木曽の美しい自然と相俟って、人々に安らぎを与えるからだと思う。
この音楽祭は1975年に地元の有志によって始められた。こんな田舎の町だけれど、皆に生の音楽を聞かせたい、との思いからである。当時の唐沢町長と奥様が随分ご尽力されたと聞いたが、それは町としての支援ではなく、金銭面も含め、個人としての支援だったそうである。そんな中、町の人たちも宿を提供したり、食事の準備をしたり、会場のお手伝いをしたりと、今でいうボランティアとして協力したそうだ。
80年代半ばから町が運営に携わるようになったものの、今でも町の人たちのボランティア精神は受け継がれている。又、出演者の方もいまだにホテルに泊まる方は少なく、多くの方は町の人のお世話になるのを楽しみにしているらしい。
そう、言ってみれば「おらが町の、おらが音楽祭」なのである。だからこそ落ち着く、安心するのである。
ところで、木曾義仲は、倶梨伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って上洛するも、朝廷から山村育ちで知識も教養もない粗野な人物だと疎んじられた。もし義仲の時代に「木曽音楽祭」的なものがあったなら、日本の歴史は変わっていたかもしれない。
源平合戦の頃、木曽義仲軍のみが京都で乱暴を働いたと平家物語などによる通説ですが、これは平家物語やその解説者の捏造(つくりばなし)です。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の言葉通り、勝者に都合の悪いことは歴史物語、歴史書に記述しにくい。敗者については悪事を強調し捏造して記述される。
1.平家物語や「玉葉」にも平家軍の乱暴(略奪)の記述がある。
2.平家物語・延慶本には鎌倉軍の乱暴(略奪)の記述がある。
3.「吉記」には義仲軍入京前に僧兵や京都市民の放火略奪の記述がある。
4.「愚管抄」には義仲軍入京前に平家の屋敷への火事場泥棒や京都市民の略奪の記述がある。
義仲軍入京後には放火略奪などの記述は無い。
5.「吾妻鏡」には鎌倉軍の守護・地頭の乱暴の記述が多数ある。
つまり通説とは逆に義仲軍以外は全て乱暴を働いていた。
詳細は「朝日将軍木曽義仲の洛日」
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/
HPも拝見しました。
併せて、他の義仲ファンの方々のHPも拝見しました。詳しく知りませんでしたが、義仲は多くの方を惹き付ける魅力ある人物だったんですね。
一度、当時のことをしっかり勉強してみたいと思います。