25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

民主主義の陥穽(かんせい)

2015年06月03日 | 文学 思想
尾鷲もどうやら梅雨入りしたようだ。庭の紫陽花もほんの少しづつ、咲き始めた。空はどんよりと重そうな雲で被われている。しかも肌寒さがある。
 国民のマイナンバー制が導入されようとしている。タバコを買うタポスのようなものだ。やがてこのカードはパスポートや年金受給だけでなく、個人個人の履歴や借金額や銀行などともつながっていくのだろう。それを悪用する輩もでてくるのだろう。
 1970年ぐらいから1996年ぐらいまでが歴史の中で一番よかった時期なのかもしれない。僕の子供や孫たちが社会の中枢を担う頃はぎこちのない、監視社会あるいは管理社会になっていて、がんじがらめになっていそうだ。

 いつも感じることだが、旅をしていて、一番嫌なことは、入出国カウンターである。やせ細った白い顔をし、メガネをかけている若い男も、笑顔のない若い女性も同じ制服をきて、パスポートをチェックする。国民国家の権力をいつもそこで感じる。税関も同じである。国民国家とは民主主義で支えられているからよけい怖いのだ。
 この前も空港出口で友人が出てくるのを待っていたら、なかなか出てこない。着陸から1時間経ってもでてこないので、これはなにか起こったのだと思った矢先、携帯かかかってきた。税関員が何を言っているのかわからない。お金も没収された。権力の行使である。

 出口から中には入れないが、無視して税関まで走った。すると、税関員が部屋に案内してくれた。僕のパスポートをコピーし、そして説明を聞いた。ふたりのうちひとりの税関申告書に誤りがある。所持金が多すぎる、ということだった。違法である、ということだった。「こんなにバリ島でお金を使ってくれるのだからいいじゃないか」というと、他の税関員は「うんうん」とうなづく。「しか、もこの方はバリ島が初めてで観光客だ」というと、「うんうん」と言う。「二人いるのだから半々分だからいいではないか」と言っても他の税関員は「うんうん」という。リーダー格である。税関吏は、「英語読めるか」と言って、僕に税関規則書を読むようにいう。「二人で分けていなかったのだから、これは一人の違法である。罰金は26万円である」と言う。どう説明しても譲らない。まあ、こっち側のミスもあったわけだからと値段交渉をすることになった。罰金10万円で落ち着いた。頭の中でこのくらいなら為替レートでなんとか取り戻せるだろうとも思った。それにしても・・・・と思う。

 僕は国民国家というのに相当違和感をおぼえる。国民をあまり縛らず、のりしろが多くあって、どこか間抜けているほうがよい。厳格よりも。
 
 95歳の俳人金子兜太(とうた)は高校生や大学生のころ、だんだんと国民が戦争へと熱狂していく中で、そんなものとどこ吹く風といわんばかりに自由に生きていた先生たちがいたことを印象として語っている。少年たちがみな軍国少年になっていた時期である。

 権力にあぐらをかく、権威にすがる、肩書きを名誉なことだと思う人間がいる。それらをとればただの個人であり、感性や、身体の勝負である。
 国民国家である限り、限りなく開かれ、閉じないようにしなければならない。そして限りなく個人の自由を尊厳しなければならない。自由である限り責任の所在もはっかりさせる。

 この国は原発事故のときでも、事故処理の責任もあいまいで、教職員の事件でも本人ではなく上司がでてきて謝罪するというようなところがある。現在の国家の借金にしてもそうしていった責任は問われることはない。国民が議員を選び、議員が国会を作り、国会が内閣を決めるのだから、という民主主義に基づいているから、責任はリングのような国民に戻ってくる。奇妙な話だ。民主主義の陥穽でもある。