25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

「遠い太鼓」を読む

2015年06月06日 | 文学 思想
もう30年前に書かれた本だから、イタリアもギリシャも変わっているだろう、と思いながら村上春樹の「遠い太鼓」を読んでいる。ギリシャのエーゲ海の島々も、ハイシーズンが終わると、雨や風がひどく、人々は観光シーズンを嫌だ、嫌だと、本当に働くのが嫌らしい。イタリアのシチリー島などは、マフィアによる支配があって、抗争事件が多く、ひどいもんだ。

30年経って、 思えば働かない、ストの多いギリシャは今転覆の危機にある。几帳面なドイツを中心として、金融支援をしたが、国民は緊縮財政に不満なのか、EUの提案する策を拒否している。いつの間にか他のEU諸国はギリシャ破綻から影響を免れる算段を着々と準備してきた。知らないのはギリシャ国民というだけのように。それでもギリシャの借金 などたかがしれている。日本はその5倍以上あり、国民の貯金を担保にしてき。借金を重ね続けている。

日本人は勤勉でよく働くが、国に対しては特別な感情をもっているようで、お上のすることに、従順である。戦争で人間 、特別 に自衛隊員が死ぬかもしれない法案が審議されている今でも激しい論争がない。強固な反対運動も起こらない 。借金を重ねて他国を援助するここともやめないし、無駄に思える、またメンテナンスがかかる公共工事もやめない。

職人技を褒め称えるのもいいが、アメリカのGEが、アップルやマイクロソフトや、アマゾンのように、今度は日本の中小企業のもつ技を支配しようとしているが、GEに負けない新産業をつくる気配もない。借金はやめられず、国民の貯金を食い潰すところまですでにきている。追い打ちをかけるのは少子化と高齢化である。

30年前のギリシャ国民は今日の状況がくることを予想していなかっただろう。それは日本人もどうやら同じである。几帳面で、清潔好きで、勤勉な日本人にもあるまじき財政危機が迫っているというのに、株価はあがっている。
日本人の「なにか」が不足しているのだ。市民革命を経験していないから、上意下達に弱いのか、遺伝子的に、どこか、権力に逆らう神経がないのか、不思議なものだ。
30年前のイタリアもひどいものだった。食べ物と異性の話で今日が過ぎていけばいいや、という感じだ。そう言えば、男がじーっと女をいやらしそうな笑顔の目で見つめ、女がそれをにんまりとみつめたら、つぎの場面ではある種の関係になっていた、といっようなイタリア映画での場面をよく見た。「あしたのことは考えない。今日を楽しくやろうぜ」というのはもう生きる時間が少なくなってきている人の言う言葉だと思っていたが、どうやら、イタリアンはみなではないかもしれないがおおよそそんな雰囲気である。コネ、手続きの煩雑さ、裏経済。
曲がりくねった道を走るバスの運転手と車掌は、バスを止めて 、大瓶のワインとバレーボールくらいあるチーズを買い込んでくる。運転しながら酒盛りが始まる。だいたいこんな調子だ。
そのイタリアも財政危機である。実直なドイツに助けられている。もう、30年経ったバスの運転手も、かなりの老年か、今は死んでいるのだろう。

今ぼくらの世界に生きている人は百年経つとみな世界の土か、宇宙に漂う元素のようなものになっている。
次世代、次の百年を考えておこなければ、僕らはひどい遺産を残すことになる。

日本人にとってヨーロッパはエレガントで、ブランド力があって、美しい気もするが、僕はパリで全荷物を盗まれたことがあったなあ。
今度恭くん(フランスのパリでシェフをしている)をたずねがてらヨーロッパを旅行したいと思っているのだが。
「遠い太鼓」は驚きの連続であった。村上春樹は南ヨーロッパ、すなわち、ギリシャ、イタリアで、「ノルウェーの森」「ダンス、ダンス、ダンス」、他翻訳本を数冊だした。帰国してからの大ヒットに、相当気分をよくしたことだろう。このあたりから、彼の小説は本格化する。