25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

元少年Aに

2015年06月15日 | 文学 思想
元神戸A少年が「絶歌」という本を書いて、出版されてテレビニュースがこの一週間騒いだ。僕には騒いだというしか言葉がない。この本をいずれは読んでみたいと思っている。1997年だったと思うがこの事件は1997年までの世界を象徴する事件で、僕も大きな衝撃を受けた。遺族に申し訳ないからと言って、出版を停止する必要はない。彼の文章がどこまで表現できているか、あのような事件を起こした真実の暗闇に迫っていく第一歩のものとなるだろう。
 もう18年前の新聞や雑誌の記事、それから「新潮45」で高山文彦の祖父母から父母、家庭でのことなどがルポされたのを読んだが、どこか釈然としなかった。母親についても結構詳細に書かれていたが、それは小説という力でも借りない限り、無理なことであったろう。
 元少年Aはあきらかに病気であった。精神を病んでいた。その契機は「祖母の死」というもので、表面化したのかもしれないが、その背景の奥にやはり少年の資質や精神や肉体の育ち、母や父の性質、態度、そして時代的な(例えばいい学校にいけばいい大人になれるみたいな風潮)や経済の発展が著しかった背景や、少年の胎児期や幼年期のところまで遡っていくしかないのではないかと、僕はそのときにそう思い、それを知るのは父母しかいない、と思っていた。しかし父母でさえ憶えていないことも多々あることだろう。無意識に父母がやっていることを思いださせるのも困難なことである。おそらく彼の治療にあたった医師はそんな世界まで立ち入っていったことだろう。
 遺族の方は気の毒だけれども、これは「ある種の事故だった」と思うほうがいいのではないか。それよりもこのような事件、それに続くさまざまな同種の事件の奥にあるものを追究し、家庭教育や学校教育にいかしたほうがいいと思う。
 彼が執筆したその本はどこまで堀下げられいるか、そこから何が得られるか、そういうことを論じたほうがよいと思う。しかし今日の「サンデー・ジャポン」でも非難するだけで、誰もこの本がでたことの別面での意義」を申すものがいなかった。

 この事件の前に神戸の震災、オウム事件があった。麻原は口を閉ざしたままだ。彼が口を開かない限り、この事件の真相には近づけない。
 以後に続く同様の事件でも動機のニュースで一週間も経てば、本当の原因がわからないまま時は流れて過ぎていき、裁判のときにまたニュースネタとなって、結局わからないまますんでしまう。

 僕は殺された二人や切りつけられた人達も被害者であるが、元少年Aも別の面では被害者だと考えている。わずか14歳の子供が猫殺しを続けて、人間を殺す妄想に取り憑かれた。「何がか」と思うのは当然であり、そこにこの事件の核心に迫る態度があると思う。おちゃらけた芸人やコメンテーターはテレビの画面に出てきて、おそらく書いては直し、また読んで加筆訂正して自分の力で書いたことは自己慰安でもあり、自己を客観視することになる。タレント芸人やコメンテーターはその意味をまるで茶化すかのように言っている。「おまえだって、いつそんなことをするかはしれないぞ」と思う。絶対オレはしないなんて誰が言えるか。こういう犯罪に対して厳罰に処するようなことをしたって、解決策にはならない。やはり「何が妄想を作りだしたか」に迫らなければならない。彼の印税は遺族に手渡されることだろう。
 それでいいじゃないか。