25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

三人の関係性

2018年01月16日 | 文学 思想

 僕の場合、ブログは思いつくがままに書いていく。だから書くことに一貫性や終点がないときもある。

 映画やテレビドラマ、小説に接していると、漱石が生きた明治の頃と現代は格段と表現の幅や分野が広がっているし、ツールも違ってきている。

 それでふと考えてみた。純文学で提起できるテーマとは何なのだろうと。漱石は三角関係を追いつめた。つまり〈人間の関係性〉を主題においた。当時は夫のいる女性を奪うというのは「姦通罪」であった。友を騙して好きな女性を奪ってしまうことも「こころ」を読めばいかに人間が苦しむものかがわかる。

 現代では男と女の三角関係の問題は「別れ」や「離婚」がしやすくなったことで変化している。しかし人間の関係性においては繋がっていないといられない。ラインでもよい、グループ活動でもよい、とにかく人間と繋がっている状態がやや過剰になっている時代である。〈対幻想=一対一の関係〉の厄介さは現代では「ストーカー」を生み出していることだ。ストーカーに至ってしまうことが現代の文学としててテーマとしてあり得るだろう。また、対幻想の歪な形となって現れるDVも同じことなのかもしれない。テレビにも出演し、経済評論まで縷々書き述べる48歳の男が19歳の妻に暴力的行為に及ぶ、そのこころの裡もテーマとなり得るはずだ。

「夫と妻の物語」も、「母と子の物語」も、「父と子の物語」も、「働く者と働く場所の物語」も「客と店員の物語」も〈人間の関係性〉を突き詰めていく大きなテーマであるはずだ。

 現代のテーマはその他にもいろいろあるだろうが、漱石的な観点から推し進めていけば、観念の領域にある「共同幻想」「対幻想」「個人幻想」という故吉本隆明が提起した観念に思い至る。

 ホモ・サピエンスは虚構を作り出すことで他の人類より傑出してしまった。この認知・観念の革命がなかったら僕らはあり得なかった。虚構を作りだすということは、精霊や神を生み出すものであり、言語に喩をもたらすことにもなる。個人幻想は極めて共同幻想を抱え込むことになった。

 現在のSF映画を見ていると、映画作りをしている人の多くは宇宙に出る人間を描いているが、前提に地球が住むに難しい環境にあることになっている。そんな風に想像している。太陽のフレアによる地球環境の崩壊、ウィルスによるもの、核戦争によるもの。いずれもまずは悲観的である。きわめて〈人間の関係性〉とは縁遠い事象のように思えるが、基本はたった三人の関係性(つまり共同幻想、対幻想、個人幻想)が基本となっていることだろうと思うに至ったのだった。