戦後、荒地と化した日本列島は勤勉さと従順さで、1970年にはもはや世界の経済大国までになった。真似さえしておればよかった。そんな中で電気製品などで世界的なヒットを飛ばす物も現れたが、やがて他国に真似され追いつかれた。巨大化した日本の企業は第二次産業革命の恩恵を大いに受けたが、1990年代の革命からおいてきぼりをくうようになった。そしてついにはこの革命の主導権をとれず、アメリカに多くのITフォーマットを発明され、傘下に入らないと物も情報も扱えないようになった。
テレビで夕方の番組で、各地の祭りや奇習が紹介される。たとえば、昔の共同体のメンバーが集まって「オコゼ」をお供えし、オコゼを見てアハハと笑う神事が紹介される。
あるいは毎年旧暦正月13日、42歳と25歳の厄年の男を中心に、尾張一円からサラシの褌に白タビ姿の数千人の裸男が集まり、寒さを吹き飛ばす「ワッショイ」の掛け声と、揉み合いの熱気が国府宮にはちきれる。また、裸になれない老若男女は、氏名や年齢等を書いて願いを込めた「なおい布」を「なおい笹」に結び付け、その「なおい笹」を裸男たちは担ぎ、群れをなして威勢よく境内へ駆け込み皆の願いと共に奉納する。そして「なおい笹奉納」の最後に、小池正明寺地区の手桶隊が登場し、その手桶隊が裸男達めがけて水をかけ始めて暫くすると参道の一角に全身無垢の神男が、警護の者に守られて裸男の群れの中に密かに登場する。その神男に触れて厄を落とそうと、神男に殺到し凄まじい揉み合いになる。浴びせられる手桶の水は、裸男たちの摩擦の熱でたちまち湯煙となるが、その手桶の水に裸男たちが怯む隙をついて、神男は参道から楼門を通り儺追殿を目指す。 この60分ほどの間がこの奇祭のクライマックスである。NHKの東海地区では毎年絶対にこれをニュースで扱う。もう春がくるぞ、よい春よ来い、と言いたいのだろう。
建物を建てるに地鎮祭とやらを行う。外国人から見れば奇妙な光景だろう。これを「佳き伝統」と言えば言えるのだろうが、「奇妙な迷信」とも言える。また「わくわくするエンターテイメント」と言える。
伝統を守り抜く力が強ければ強いほど、形式を破れないということがある。昔ながらのやり方をよく知っていて、それにこだわるからだ。ここのところはもっとこうしたほうが合理的ではないか、と誰かかが意見を言っても、昔からのやり方だ、といわれればそれまでである。
地方のテレビはそんな祭事やらばかりを毎日のように報道するので、時々、日本人の頭は狂っているのではないかとシラッと思うことがある。神男に触れると厄が払えると本気で思っているはずもないと思うが、日本が荒地から高度経済成長したのは、祭りのように必死で働けば荒廃からの経済は右肩上がりでいくものだった。そしてオイルショック以降低成長となり、第三次産業革命を起こすことはできなかったのである。そして今もまた第四次産業革命の前に立ち塞ぐ、大きな借金があるという状況である。
何か日本が停滞するのと伝統を守っていくの精神文化の上でリンクされているのではないかと思うのだ。
科学技術まっしぐらに進むことをアクセルだとすれば伝統の維持はブレーキのような気がしてならない。科学と迷信。「わろてんか」ではてんが「笑うことはいいことだ」と「笑いを売る商売」に精を出すが、オコゼを探してきてそれを祀り、決まった日の決まった時刻に、決まった人がリーダーとなって決まった神事を行うことを疑問も持たずに続ける。伝統だから。やめるわけにはいかんから。おれのときに止めたと言われたくない。笑うことはええことやんか、なぜ悪い? いろいろ意見はあるだろうが、三重、鳥羽の神島ではゲーター祭が中止となった。来年も中止だそうである。小学校のこどもたちの手でほそぼそと続けるかもしれないということである。
人手がいなくなり、やるのが面倒であれば祭りの意味もないと思う。意味あっての祭りであるが、ただ昔からやってきたからでは説得力がない。
新しいコミュニテ-が自分たちのためのイベントを開くのであればそれは新しい祭りである。そしてそれは自身たちにとって賄えないときに終わりである。
ぼくはそう考えている。
テレビで夕方の番組で、各地の祭りや奇習が紹介される。たとえば、昔の共同体のメンバーが集まって「オコゼ」をお供えし、オコゼを見てアハハと笑う神事が紹介される。
あるいは毎年旧暦正月13日、42歳と25歳の厄年の男を中心に、尾張一円からサラシの褌に白タビ姿の数千人の裸男が集まり、寒さを吹き飛ばす「ワッショイ」の掛け声と、揉み合いの熱気が国府宮にはちきれる。また、裸になれない老若男女は、氏名や年齢等を書いて願いを込めた「なおい布」を「なおい笹」に結び付け、その「なおい笹」を裸男たちは担ぎ、群れをなして威勢よく境内へ駆け込み皆の願いと共に奉納する。そして「なおい笹奉納」の最後に、小池正明寺地区の手桶隊が登場し、その手桶隊が裸男達めがけて水をかけ始めて暫くすると参道の一角に全身無垢の神男が、警護の者に守られて裸男の群れの中に密かに登場する。その神男に触れて厄を落とそうと、神男に殺到し凄まじい揉み合いになる。浴びせられる手桶の水は、裸男たちの摩擦の熱でたちまち湯煙となるが、その手桶の水に裸男たちが怯む隙をついて、神男は参道から楼門を通り儺追殿を目指す。 この60分ほどの間がこの奇祭のクライマックスである。NHKの東海地区では毎年絶対にこれをニュースで扱う。もう春がくるぞ、よい春よ来い、と言いたいのだろう。
建物を建てるに地鎮祭とやらを行う。外国人から見れば奇妙な光景だろう。これを「佳き伝統」と言えば言えるのだろうが、「奇妙な迷信」とも言える。また「わくわくするエンターテイメント」と言える。
伝統を守り抜く力が強ければ強いほど、形式を破れないということがある。昔ながらのやり方をよく知っていて、それにこだわるからだ。ここのところはもっとこうしたほうが合理的ではないか、と誰かかが意見を言っても、昔からのやり方だ、といわれればそれまでである。
地方のテレビはそんな祭事やらばかりを毎日のように報道するので、時々、日本人の頭は狂っているのではないかとシラッと思うことがある。神男に触れると厄が払えると本気で思っているはずもないと思うが、日本が荒地から高度経済成長したのは、祭りのように必死で働けば荒廃からの経済は右肩上がりでいくものだった。そしてオイルショック以降低成長となり、第三次産業革命を起こすことはできなかったのである。そして今もまた第四次産業革命の前に立ち塞ぐ、大きな借金があるという状況である。
何か日本が停滞するのと伝統を守っていくの精神文化の上でリンクされているのではないかと思うのだ。
科学技術まっしぐらに進むことをアクセルだとすれば伝統の維持はブレーキのような気がしてならない。科学と迷信。「わろてんか」ではてんが「笑うことはいいことだ」と「笑いを売る商売」に精を出すが、オコゼを探してきてそれを祀り、決まった日の決まった時刻に、決まった人がリーダーとなって決まった神事を行うことを疑問も持たずに続ける。伝統だから。やめるわけにはいかんから。おれのときに止めたと言われたくない。笑うことはええことやんか、なぜ悪い? いろいろ意見はあるだろうが、三重、鳥羽の神島ではゲーター祭が中止となった。来年も中止だそうである。小学校のこどもたちの手でほそぼそと続けるかもしれないということである。
人手がいなくなり、やるのが面倒であれば祭りの意味もないと思う。意味あっての祭りであるが、ただ昔からやってきたからでは説得力がない。
新しいコミュニテ-が自分たちのためのイベントを開くのであればそれは新しい祭りである。そしてそれは自身たちにとって賄えないときに終わりである。
ぼくはそう考えている。