25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

安倍昭恵夫人の善意

2018年03月21日 | 文学 思想
 ぼくはいつも「ボランティア」というものに異和感をもつ。全否定するわけではないのだが、「善意で見返りもなくやっているんだということを前面に押し出してくる人がいて異和感をもった思い出がある。熊本地震でも、東北地震でもボランティアの方々の支援は大助かりで、有難い存在であることはわかる。否定もしたくない。ただ「異和感」なのである。
 安倍昭恵夫人は「善意の暴走」という印象をもつとテレビによく出てくる伊藤惇夫が感想を述べていた。
 この例が一番わかりやすいのかも知れない、と思って「善意」をもう少し考えてみたい。昭恵夫人は、善をやっている、これはいいことだから断ることもできない、何も悪いことをしているわけでないという一方向的な素直な思いが「悪」となることもあるという考え方をしないようだ。これが「善の暴走」なのだろう。
 世の中が圧政などで悪に被われていた時代に有名な宗教家が出ている。孔子、イエスキリスト、ブッダ、モハメット。彼らは人間の善を取り上げて悪に対してよりよく善に生きることを布教した。その時こそが実は「大悪」が始まったと解釈したのは安藤昌益であった。江戸期にこんなことをいう人がいたのかと驚いたものだ。
 目の前で倒れた人がいたらぼくは何の躊躇もなく助ける。韓国の青年だったか、日本列島人であったがかうろ覚えだが、線路に落ちた人を助けるために線路に飛び込んで運悪く死んでしまったという事件があった。このように偶然に、遭遇した他人の、難儀をその場で助けようとするのとボランティアは違う性質だ。
 だから熊本まで行って救援活動にいってくれることはよいと思うがそれは個人が内緒でやるほうがいいと思う。「善」を他人に押し出してくると、言い合いが始まり、喧嘩が始まり、避難がはじまるといった窮屈なものになってくる可能性がある。俺たちは真面目にやっているのに---
という感情も出てくる。
 ぼくは人間関係やその地域と縁を感じたら参加しようという程度に考えている。
 このような問題は脳科学者や神経精神学のような科学では取り扱いできないだろう。無論ロボットの時代がきても難しい。思想、哲学とは科学という一面から探究するものとは違うということなのだろう。