25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

西田昌司の迷妄

2018年03月15日 | 社会・経済・政治
 自民党参議院議員の西田昌司は「そもそも国民に主権があることはおかしい」という発言を身内の集会でしたという。この集会は日本会議関連のもだと推測するが、この意見は日本会議の主張そのものである。
 5.15事件、2.26事件、三島事件における青年将校や三島に賛同する若者らが、天皇には絶対の主権があり、国民と天皇の間にいる君側の肝こそがこの国を悪くしていると純粋な考え方をとった。日本会議が明治憲法に戻ろうと主張するのも、天皇を主権としたいのが主眼のように見える。
 現在の今上天皇やその家族たちはこれを望むかといえば、はなはだ怪しいと言わざるを得ないと思うが、日本会議の運動は実に巧妙で地方議員を取り込み、日本会議の事務局である日本青年協議会はあの手この手で活動を展開している。
 森友学園の籠池理事長も大阪日本会議の運営委員であった。そこには平沼赳夫、麻生太郎も、安倍晋三も名を連ねている。
 一幼稚園に平沼が行き、安倍昭恵が行き、維新の会のメンバーがいくというのは、不思議な話である。おおよそ全国に数ある幼稚園としては考えられないことである。
 さらに考えられないのは教育勅語を暗記させ、安倍晋三総理大臣を誉めそやす幼稚園児の言動に感涙するという異常さにぼくは驚く。日本会議の人脈を使いこなした籠池は国有地の払い下げに成功したとき、得意満面であったろう。
 
 歴史には段階がある。アフリカ的段階、アジア的段階、西洋的段階。そしてその段階のなかにも歴史が前に進むステージがあったことだろう。
 成長の家の創始者谷口雅春がどんな宗教者であったか知らないが、アフリカ的段階とアジア的段階を色濃くもつ宗教人であったのだろうと推測する。一般人100万人、兵隊100万人以上の犠牲のもとに出来上がった理想的な憲法を後退させるという思想なのだから、元成長の家原理主義者たちがリードする日本会議は危なかしい団体である。
 歴史の段階に宗教段階も同じように合致している。アフリカ的段階では雨乞いをしたり、雲を動かしたりと自然に対して人間がなんらかの作為をするアニミズムがステージ1で、つづいてステージ2が土地や山巨木など、そしてついには台所にさえ神が存在するという自然崇拝である。天皇の宗教的権威はアニミズムと八百万の神の上にアジア的専制制度が乗っているということである。西洋も同じ段階を踏んでいるが、アジア適用専制から早く脱したのである。西洋は内陸部が狭く山が多い。一方アジアは内陸部が広く農業が長い間に続いたし、人々は広く点在していた。王はインフラを受け持ち、庶民はひたすら農耕に従事し、王は忠孝を求めた。公のために私を捨てることを求めた。
 日本会議は日本をさらに自由になっていくとい世界史の無意識とは逆に後退しようというのである。このような迷妄は許されるものではない。
 西田や麻生や安倍は日本民族という言葉の曖昧さや日本語概念など考えたことがにのだろう。戦争のできる国にしていくことがいかに危ないものか、本気で考えているようには思えない。
 強い外交交渉力は強い軍備があるからできるなどという迷妄よりも、軍事力によるものではなく外交能力、言葉のやり取りを磨いた方がよく、それが次の段階に進む考え方である。
 国民に主権よりも個人それぞれに自由な主権を持たせる方向歴史はきっと進むと思う。