25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

ジョルジュサンドとガラ

2015年06月09日 | 映画
ジョルジュサンドという1800年代を生き、数多くの芸術家と恋をして72歳まで生きた女性。

この彼女の長い人生の中でショパンとの同棲は8年だった。39歳で長い肺結核の末に死ぬまでの時期である。ショパンより6歳の年上だった。カールマルクスとも深交があり、当時のパリでは有名な女流作家であった。映画「ショパン」では、ポーランドからパリにやってきたショパンの天才性を一瞬で見抜く。そういう鋭い勘をもっているのだ。当時のピアニストではリスト以外に彼の楽譜を見て弾ける人はいなかったかもしれない。多くの人は保守的で、真似をするか、ちょっと新しいかぐらいのものを受け入れるものだ。それは今だってかわらない人間の属性ですらある。
彼の作り出す音楽は自分の書くものなどと比べ物にならない、石ころとダイヤモンドの違いくらいに感じる。世界への普遍性をもつものだと、それゆえに厳しくそだてたショパンの違い父と同じ思いを強く抱く。8年。献身的にショパンに尽くすが、ショパンは以前かかった肺炎が、やがて強い肺結核になってしまう。感染性の強い結核だといわれ。
ショパンのピアノ曲はショパン独特である。ショパンでしか作り得ないメロディーライン、鍵盤の動き方。後世、ショパンに対等に張り合えるのは、ドビュッシーでばないか、とか、ジャズというジャンルもでてきたから、ビル・エヴァンスなどもいれていいのかもしれない。
スペイン画家ダリの妻であるガラという女性も面白い女性であった。彼女は作家ではないが、シュールリアリズムの担い手たちをとても上手に励まし、マネージングした。ダリは彼女なしでは生きられなかったが、他の男にくっついていき、病気になってダリのところに戻ってきた。ダリはガラを看病し、やがて彼女が死ぬと、悲嘆のあまり引き込もってしまった。絵も描かなくなった。

まあ、すごい女もいるものだ。



肥満

2015年06月09日 | 社会・経済・政治
 コマーシャルで、湖があって、その前にレストランがある。そこにふたりのカップルが車でやってきて、止まる、というとてもカッコイイのが数年前にあった。これがヨーロッパだ、といわんばかりであった。あれはイタリか、ドイツか、オーストリアかどこかはわからないけれど、西洋人というのはスーツも蝶ネクタイもよく似合うし、女性はドレスもよく似合わす。素敵である。毎年アメリカでのアカデミー賞の番組があるが、そこに出てくる女優達のドレスもすばらしい。歩き方だって最高のものだ。

 僕は日本が当然好きで、ましてやふるさとである尾鷲を離れられないのだけれど、愛と憎しみは表裏一体のように日本が憎らしいと思うことも多い。特に日本の「民主主義」などは憎らしいし、似合わないジーンズも憎らしい。

 それでもずいぶんと今の若い人たちは着こなしもうまくなってきた。隠すべきところを隠すとか、自慢のところは見せるというようになっている。
 30代、40代は外食が少なく、馬鹿飲みも慎み、内食、内会食で、節度よく暮らしているというデータも先日発表された。

 構造主義と言ったって、西洋文明の波にはかなわない。とにかく利便性がある。しかしカッコイイのもコマーシャルや雑誌広告や映画ででてくるちょっとした人たちで、西洋文明の行き着いている先は「肥満」だ。
 ほとんどの人が日本人とは違った、巨大な肥満である。僕は以前、「豚の帝国」とアメリカを揶揄したことがあるが、これはオーストラリアもロシアも、同じで、まだヨーロッパはましなほうなのかもしれない。なぜかというとヨーロッパの映画の背景にはややアメリカより「肥満」は少ないからだ。実際はよく知らない。ヨーロッパの気候はたいへんなものらしい。であればそれに立ち向かうヨーロッパの人々はあんまり太らないのかもしれない。

 フランスではBMI(体内脂肪度)が18以下のモデルを使うことが禁止された。それはそれでさすがにフランスだと言いたくなる。アメリカもこれ以上肥満になったら、罰するぞ、ぐらいいたほうが国が長持ちするかもしれない(これは冗談です)。

 肥満大国では戦争の地上戦もできないから、「殺すという実感のない」武器ばかりを作っているのが肥満大国の自らの弱さを知った上で、克服する戦術ではないかと思うことすらある。

 あれ、妙なふうに文が展開してしまった。まあ、これもブログだからこそ、なせる技でもあるか。

下町の太陽 昭和36年

2015年06月08日 | 映画
 日曜日の朝、1961年にヒットした歌謡曲を歌った倍賞千恵子の「下町の太陽」という映画を見た。ヒット曲を映画にするはしりの映画で1963年に制作されている。山田洋次監督の二作目の監督作品である。

 さすが山田洋次監督の才なのか、偶然なのか、1961年当時の日本の姿、風俗や時代の流れのようなものが結構克明に描かれている。
 墨田区のおばあさん、お爺さん連中は皆和服を着ているし、ご近所さんはいっぱいいるし、下町の空はすでにスモッグで覆われている。町子の勤める工場の昼休みはバレーボールや卓球が行われる。音楽はツイストが流行っていて、青山ミチがツイストの歌を歌っている。年配者はあきれている。郊外に団地が出来始め、その団地入居に当たるには200組に一組である。倍賞千恵子が演じる寺島町子の恋人は工場務めから本社の正社員になるための試験勉強をしている。資生堂が舞台のように思われる。団地に当選した友達は高い化粧品を毎日し、夫の帰りを待っている。あなた素顔のほうがきれいよ、と倍賞は言うが、夫は化粧をしろ、と言うらしい。背景にはコーヒーカップやインスタントコーヒーも出てくる。恋人は本社試験に失敗し、コネがあって、有能な同僚が合格する。一方北海道からやってきて製鉄工場で働いている男(勝呂誉)が積極的に交際を申し込んでくる。彼をある種の不良とみなしていた町子はビリヤードや居酒屋で食ったり飲んだりする「遊び」を経験させてくれる。女は結婚すれば仕事をやめると多くの女性は考えている。父親の世代は戦争経験者ばかりである。

 交通事故への対応のしかたでも、やられた方の不注意でと許してしまう人の良さも出てくる。加害者はコネで試験に合格した男(待田京介)で、上司といくばくかの賠償金をもってくるが、町子の恋人はその失敗を喜ぶ。出世競争のいやな面を見てしまう町子は「貧乏は嫌だね」などと父親に愚痴る。「寄らば大樹の陰」などと言って、サラリーマンの嫁になれ、と勧める。青空の見える郊外に住むことは若い人々の夢でもあった。
 町子の恋人も郊外に住めなきゃ町子を幸せにできない、と考えている。町子はどこか彼の愛情の表し方に違和感を覚える。

 今郊外団地の時代は核家族を生み、それもとうに過ぎて、やがて郊外一戸建て希望となった。ドーナツ現象を言われた。今はできりるだけ都心の近いところのマンションに住むようになり、郊外の団地や家も空き家化している。空き家は全国で820万戸あり、2030年には1000万戸を超えるといわれている。わずか50数年で日本人は土地や家に対する価値観は変わったのである。

 例えば僕の子供たちは尾鷲の家を維持し続けることを嫌がるかもしれない。固定資産税、管理、修理、さらには壊すという場合でもお金がかかる。家を買うことに一所懸命になる人が少なくなっているのではないか。

多摩川には鮎が戻ってきた。渋谷駅前にあった、スモッグの測定器もなくなった。時代は大きく変わり、今また転換点にきている。
 映画を見ていて、懐かしさのようなものがあんまりない。きっと僕はその頃は11歳で、東京も知らないし、尾鷲にいたからなのだろう。憶えているのは大人たちが野球をやっていたのと小学校の運動場でラジコンに興じていた上級生たちの風景である。この映画でも出てきたから地方にまですでに流行が行き渡っていたのだろう。しかし相変わらず山田洋次の映画はいつも風景を細部にまで大事にしているし、また人間にきよらかというものをいつも描いていて、感動することが多い。
 広告で、初めての監督作品「二階の他人」「愛の賛歌」「たそがれ清兵衛」「隠し剣 鬼の爪」が紹介されていた。

森さん

2015年06月08日 | 日記
 尾鷲市に曽根という浦村がある。人口が百人もいない海沿いの集落である。海沿いの集落と言っても山までだんだんの傾斜になっていて、ここの人達は蜜柑やお茶を栽培している。昔は蚕生産もしていたそうだ。
 この曽根にいくと森さんという80歳になる男性がいて、僕は仲良くさせてもらっている。まあ、ここもイタリアやギリシャの田舎村と変わらない。イタリアやギリシャでは自家製ワインを作るように、森さんは自家製のほうじ茶を作る。彼はお茶を作る時期になるとなにもかもシャットアウトして、精根つめてお茶を摘み、干し、百回以上揉み、丁寧に煎る。森さんは鉄瓶でいつもお茶を作ってくれる。鉄瓶じゃないとだめだ、という。森さんの家に行くたびにこれが楽しみになってしまっている。本当に美味しいお茶なのだ。
 「曽根で一番だと思ってませんか」と聞くと、「へへ、そんなことはわからんけどな、揉む回数は違うわな。みな50回ぐらいでへたりよる。百回揉まなあかんで。それをやっとるのはウチだけやな」とやはり自慢気である。まあ、美味い。ほうじ茶を売りにしている販売店もネットでも多々あるが、これほど美味しいほうじ茶はないと思う。
 さて、森さんは曽根の夏みかんから「ママレード」も作る。これもこだわりのママレードで、一番美味しくみずみずしい中身を包む皮は取り去り、大きな皮と蜜柑の中身(なんというのはわからない)を砂糖を入れて煮詰めるらしい。これもまた美味しい。
 彼は東芝にいたので、電気のことにも明るく、パソコンも使いこなす。車は大きな贅沢な車を持っている。
 森さんの長男は青春の半ばで交通事故で死んだ。娘さんと奥さんは大阪にいるらしいが、そのことについて深く聞かない。奥さんが相当ショックだったらしい。森さんは全国を営業してまわっていたのだから、奥さんよりも息子と接する時間は少なかっただろう。
 僕はいつも森さんの家に行くと、亡き息子の写真の前で合掌したくなってくる。

 曽根でたったひとつの店を森さんは守っている。洗剤や電池や急になくなって困るものを置いてある。タバコも置いてある。線香も置いてある。森さんがいないと曽根の人は自分で物をとり、紙に書いて、お金を置いていく。
 森さんは書道も達者で、この頃は短歌も作っている。いつもそわそわしているように見えるが頼もしく、僕はくつろいでしまうが、彼は礼儀もしっかりしているので、こちらも礼儀はわきまえる。

 ところで、曽根、須野、甫母、二木島、遊木、新鹿、波田須という浦村を過ぎると磯崎というところがある。この磯崎を大泊から見ると実にイタリアである。あるいはギリシャのエーゲ海の島と言ってもいいくらいだ。海は透明に青く、家の色もイタリアっぽい。

 地のところで住み着くというのはイタリアもギリシャも曽根も同じで面倒なこともいろいろあるが、好き勝手に自分流にやれることでもある。ただ都会的な遊びができないだけのことである。ここまでの集落になると噂話のあれこれ、世間体のあれこれももう気にしなくてもすむ境地になるのかもしれない。

アルバイトの思い出

2015年06月08日 | 日記
学生の頃、よくアルバイトをした。なぜかわからないけど、家庭教師とか事務職のアルバイトを敬遠した。性格によるものだろうか。
 中学を卒業して、鈴鹿サーキットに三田明やいしだあゆみが来るというので、市内の缶詰工場でアルバイトをした。僕は記憶力が悪い。しかしそれぞれのアルバイトのことはよく憶えている。缶詰工場ではカキを燻製にする係員の助手をした。時々、イットウ缶(どんな字を書くのだろう。20kgの重さの缶だ)を積めた大きなトラックが入ってくると、それを冷凍庫に入れる作業を手伝う。これもしんどい温度差の作業だった。魚や貝の缶詰と果物の缶詰の工場があった。高校生の女子アルバイトはみな果物のほぅで、中卒の僕は魚と貝の担当にまわされた。日給も高校生は450円で僕は中卒なので、350円だった。これは大いに不公平というものだった。僕は蛆虫の掃除もしていた。サバを触るとかぶれて難儀した。中学校を卒業して高校に入るまでの日々なのに、とても一日が長く感じた。しかし歌謡ショーのためにはと黙々と仕事をしたのだった。

 高校に入って、夏休み、友達の兄さんが土木業をやっていた縁で、大台ケ原の小さな川に堤防を作るアルバイトをしないか、と誘われた。飯場暮らしをするという。この土方仕事はきつかった。削岩機も使ったので、
ギターを弾くこともできないくらい手がしびれた。山から山にセメントを運ぶためのロープを張るのも大変な重労働だった。優しいおじさんがいて、休日の夜、そのおじさんの一人住まいの家に誘われ、話をしたことがあった。
 盆がやってきて、その時期に台風が来た。作った堤防が流されてしまった。アルバイト料を楽しみにしていたが、友人の兄貴は払ってくれなかった。こんなことを親にも言えず、ただ大人というのはずるいものだな、と思ったのだった。今ではケツに火がついたらなんでもやるさ、ぐらいに思っているが。

  大学に入ると、靴磨き、皿洗い、ウエイター、野球場でのアイスクリーム売り、路上でのエロ映画の看板もち(サンドウイッチマン)などをした。
 宵越の金などはもたず、アルバイト代が入ってくると、さっさと美味しいものを食べたり、LPや本を買ったりした。地質調査の土のデータとりをしたこともある。レントゲン車の助手もしたことがある。ペンキ塗りもした。このペンキ塗りのアルバイトで時計を落としてダメにしてしまったが、ロンドンに行く旅費を稼いだのだった。
 総じて、一番いいのは皿洗いだった。単純で、あれこれ言われずに済む。どうやら僕は人からあれこれ言われるのに腹立たしい気持ちになる性分なんだと思う。
 ロンドンでは一切アルバイトはやらなかった。大学に戻ったときはもはや大学闘争の跡形もなく、華やいだ、ファッショナブルな学生たちが多くいた。僕は就活をすることもなく、本を読むことぐらいが楽しみの、まるで現実性のない男だった。
 以後、今日まで二度とアルバイトをしたことがない。また雇われ、使われたこともない。
 

「遠い太鼓」を読む

2015年06月06日 | 文学 思想
もう30年前に書かれた本だから、イタリアもギリシャも変わっているだろう、と思いながら村上春樹の「遠い太鼓」を読んでいる。ギリシャのエーゲ海の島々も、ハイシーズンが終わると、雨や風がひどく、人々は観光シーズンを嫌だ、嫌だと、本当に働くのが嫌らしい。イタリアのシチリー島などは、マフィアによる支配があって、抗争事件が多く、ひどいもんだ。

30年経って、 思えば働かない、ストの多いギリシャは今転覆の危機にある。几帳面なドイツを中心として、金融支援をしたが、国民は緊縮財政に不満なのか、EUの提案する策を拒否している。いつの間にか他のEU諸国はギリシャ破綻から影響を免れる算段を着々と準備してきた。知らないのはギリシャ国民というだけのように。それでもギリシャの借金 などたかがしれている。日本はその5倍以上あり、国民の貯金を担保にしてき。借金を重ね続けている。

日本人は勤勉でよく働くが、国に対しては特別な感情をもっているようで、お上のすることに、従順である。戦争で人間 、特別 に自衛隊員が死ぬかもしれない法案が審議されている今でも激しい論争がない。強固な反対運動も起こらない 。借金を重ねて他国を援助するここともやめないし、無駄に思える、またメンテナンスがかかる公共工事もやめない。

職人技を褒め称えるのもいいが、アメリカのGEが、アップルやマイクロソフトや、アマゾンのように、今度は日本の中小企業のもつ技を支配しようとしているが、GEに負けない新産業をつくる気配もない。借金はやめられず、国民の貯金を食い潰すところまですでにきている。追い打ちをかけるのは少子化と高齢化である。

30年前のギリシャ国民は今日の状況がくることを予想していなかっただろう。それは日本人もどうやら同じである。几帳面で、清潔好きで、勤勉な日本人にもあるまじき財政危機が迫っているというのに、株価はあがっている。
日本人の「なにか」が不足しているのだ。市民革命を経験していないから、上意下達に弱いのか、遺伝子的に、どこか、権力に逆らう神経がないのか、不思議なものだ。
30年前のイタリアもひどいものだった。食べ物と異性の話で今日が過ぎていけばいいや、という感じだ。そう言えば、男がじーっと女をいやらしそうな笑顔の目で見つめ、女がそれをにんまりとみつめたら、つぎの場面ではある種の関係になっていた、といっようなイタリア映画での場面をよく見た。「あしたのことは考えない。今日を楽しくやろうぜ」というのはもう生きる時間が少なくなってきている人の言う言葉だと思っていたが、どうやら、イタリアンはみなではないかもしれないがおおよそそんな雰囲気である。コネ、手続きの煩雑さ、裏経済。
曲がりくねった道を走るバスの運転手と車掌は、バスを止めて 、大瓶のワインとバレーボールくらいあるチーズを買い込んでくる。運転しながら酒盛りが始まる。だいたいこんな調子だ。
そのイタリアも財政危機である。実直なドイツに助けられている。もう、30年経ったバスの運転手も、かなりの老年か、今は死んでいるのだろう。

今ぼくらの世界に生きている人は百年経つとみな世界の土か、宇宙に漂う元素のようなものになっている。
次世代、次の百年を考えておこなければ、僕らはひどい遺産を残すことになる。

日本人にとってヨーロッパはエレガントで、ブランド力があって、美しい気もするが、僕はパリで全荷物を盗まれたことがあったなあ。
今度恭くん(フランスのパリでシェフをしている)をたずねがてらヨーロッパを旅行したいと思っているのだが。
「遠い太鼓」は驚きの連続であった。村上春樹は南ヨーロッパ、すなわち、ギリシャ、イタリアで、「ノルウェーの森」「ダンス、ダンス、ダンス」、他翻訳本を数冊だした。帰国してからの大ヒットに、相当気分をよくしたことだろう。このあたりから、彼の小説は本格化する。





白い蛇

2015年06月05日 | 日記
 父が死んだときというのは僕が経済面においても、バリ島爆弾テロで被害を受け、道路は半年にわたって閉鎖されたりして、なんとかもちこたえたらと思ったらまた爆弾テロがあった頃で、最低の落ち込み方をしている時だった。父は2005年の12月15日に79歳で逝って、17日には尾鷲の金剛寺で葬儀をした。寒く、どんよりとした曇りの日であったが、幸運にも、雨は最後まで降らなかった。

 父と話すことというのは魚釣りのことぐらいのものだった。幼い頃からほとんど外洋に出てマグロのはえ縄漁をやっていたので、尾鷲に帰ってくるときは年に2回ぐらいのものだった。無口な人だった。酒もあんまり飲まず、タバコを吸うこともしなかった。ただちょっとした賭け事は好きだった。仲間と花札をやっていた風景もおぼえているし、退職後は家の部屋のひとつをマージャン部屋にして、マージャン好きがよく集まっていた。ちょっとした金銭の賭け事だ。この辺はよく抑制のきく人だったのだろう。無駄遣いは母親の方がよくした。母親は着物には目がなくて、バッグやアクセサリー類もよく買っていた。しかし父との付き合い方をあんまり知らないので、現在父になった僕も子供との接し方に戸惑いを感じることがよくある。

 父の葬儀が終えた翌日、白い、大蛇のように太い蛇がマージャン部屋だった軒下から出てきたのを見た。僕は呆然としてみていた。その白蛇は逃げる風でもなく、まるで帰るべきところに帰るように、悠々と道路に出て、家の前をするすると進んでいいた。僕はそれを追いかけるように見ていた。すると、北川に通じる小さな川の中に入っていった。
 家の主がいなくなってもう用はなくなったのだろうか。
 家には一匹の蛇はいるものだ、という話は聞いたことがある。しかし時は12月18日のことだ。もう冬眠していてもいいはずだ。餌はどうしていたのだろう、などと考えた。

 あれから10年が経っった。あの白い蛇のことを時々思いだす。これまで思い出すことはなかったのに、この頃思い出すというのはどういうことなのだろうかと思う。あれは白昼夢のようなものだったのか、本当に見たのか、自信がなくなっている。記憶というのは脳の作用だから、夢だって脳の作用だから、あの時、僕は疲れていて、昼間に入眠幻想に入ってしまったのか、定かではない。

 この頃、よくリアルな夢をよくみる。起きてからもおぼえているほどである。しかし不思議と知らない人は出てこない。アフリカの知らないコンゴさんとか、ジョージアのグルジアさんとか出てこない。言語文字については結構多数出てくる。それを僕は話せるし、読むこともできる。今日なんかは雅子皇太子夫人まででてきた。

 予兆。この頃白い蛇のことを思いだすのは何かの予兆なのではないのか。例えば統合失調症の人の報告例を見ていると、記憶が胎内のころまでさかのぼっていく。あるいはサヴァン症候群の人は、脳の一部の記憶の開閉の鍵である細胞が壊れてしまっていて、遺伝子からの記憶をやすやすと取り出すことができる。僕は記憶のどこかにあの白い蛇をひそかにしまっていて、それが開いてきたのだろうか。あるいは細胞の一部が崩壊しかかっているのだろうか。一体何なのだろう。正体というものは。夢はだいたい朝の7時頃から8時頃にみるようだ。もうからだは7時間も眠る必要はないよ、と言ってくれてそうでもある。

 睡眠時間について全く気にしなくなった。3時間でもいいや、5時間でもいいや、と思うようになったのはつ5年ほど前からのことである。3時間や5時間睡眠ならば出張のときなどは雑誌を読んでいると眠ってしまって自然と帳尻を合わしているような気がする。
 それにしてもあの白い蛇。どこでどうしているのだろう。

民主主義の陥穽(かんせい)

2015年06月03日 | 文学 思想
尾鷲もどうやら梅雨入りしたようだ。庭の紫陽花もほんの少しづつ、咲き始めた。空はどんよりと重そうな雲で被われている。しかも肌寒さがある。
 国民のマイナンバー制が導入されようとしている。タバコを買うタポスのようなものだ。やがてこのカードはパスポートや年金受給だけでなく、個人個人の履歴や借金額や銀行などともつながっていくのだろう。それを悪用する輩もでてくるのだろう。
 1970年ぐらいから1996年ぐらいまでが歴史の中で一番よかった時期なのかもしれない。僕の子供や孫たちが社会の中枢を担う頃はぎこちのない、監視社会あるいは管理社会になっていて、がんじがらめになっていそうだ。

 いつも感じることだが、旅をしていて、一番嫌なことは、入出国カウンターである。やせ細った白い顔をし、メガネをかけている若い男も、笑顔のない若い女性も同じ制服をきて、パスポートをチェックする。国民国家の権力をいつもそこで感じる。税関も同じである。国民国家とは民主主義で支えられているからよけい怖いのだ。
 この前も空港出口で友人が出てくるのを待っていたら、なかなか出てこない。着陸から1時間経ってもでてこないので、これはなにか起こったのだと思った矢先、携帯かかかってきた。税関員が何を言っているのかわからない。お金も没収された。権力の行使である。

 出口から中には入れないが、無視して税関まで走った。すると、税関員が部屋に案内してくれた。僕のパスポートをコピーし、そして説明を聞いた。ふたりのうちひとりの税関申告書に誤りがある。所持金が多すぎる、ということだった。違法である、ということだった。「こんなにバリ島でお金を使ってくれるのだからいいじゃないか」というと、他の税関員は「うんうん」とうなづく。「しか、もこの方はバリ島が初めてで観光客だ」というと、「うんうん」と言う。「二人いるのだから半々分だからいいではないか」と言っても他の税関員は「うんうん」という。リーダー格である。税関吏は、「英語読めるか」と言って、僕に税関規則書を読むようにいう。「二人で分けていなかったのだから、これは一人の違法である。罰金は26万円である」と言う。どう説明しても譲らない。まあ、こっち側のミスもあったわけだからと値段交渉をすることになった。罰金10万円で落ち着いた。頭の中でこのくらいなら為替レートでなんとか取り戻せるだろうとも思った。それにしても・・・・と思う。

 僕は国民国家というのに相当違和感をおぼえる。国民をあまり縛らず、のりしろが多くあって、どこか間抜けているほうがよい。厳格よりも。
 
 95歳の俳人金子兜太(とうた)は高校生や大学生のころ、だんだんと国民が戦争へと熱狂していく中で、そんなものとどこ吹く風といわんばかりに自由に生きていた先生たちがいたことを印象として語っている。少年たちがみな軍国少年になっていた時期である。

 権力にあぐらをかく、権威にすがる、肩書きを名誉なことだと思う人間がいる。それらをとればただの個人であり、感性や、身体の勝負である。
 国民国家である限り、限りなく開かれ、閉じないようにしなければならない。そして限りなく個人の自由を尊厳しなければならない。自由である限り責任の所在もはっかりさせる。

 この国は原発事故のときでも、事故処理の責任もあいまいで、教職員の事件でも本人ではなく上司がでてきて謝罪するというようなところがある。現在の国家の借金にしてもそうしていった責任は問われることはない。国民が議員を選び、議員が国会を作り、国会が内閣を決めるのだから、という民主主義に基づいているから、責任はリングのような国民に戻ってくる。奇妙な話だ。民主主義の陥穽でもある。
   

湿疹がでた

2015年06月02日 | 日記
突然にバリ島で赤い腫れものができて、上でや肢、お尻にまで日に日に増えてきた。自分での判断だが貨幣状湿疹のような気がする。ときどき、痒い。
 病院にいかず、放ってある。バリ島でできた第1号は勢いが衰えてしまっているので、やがてみな勢いがなくなっていくのだろうと思っている。それにしてもなぜこういうことになったのか不思議だ。なにかアレルギー反応が出たのだろうか。特別なものを食べた覚えもない。ストレスがあったわけでもない(と思っている)。ストレスはあまり気がつかないものでもある。

 ところで、ある男性は30種類の食べ物や金属アレルギーの原因物質の検査をしたのだそうだ。
 生まれたときからだというのは、それが頭り前の自分の世界であるだろう。痒い世界が当たり前などとはどんなものだろう。
 彼の場合、魚は大丈夫らしい。卵もいいらしい。肉がだめで、牛乳もだめで、コバルトの多い野菜もだめらしい。

 アレルギーで苦しむ人は多い。
 ひとつには免疫細胞が暇すぎることと、日本人の潔癖症が腸内にいろいろな細菌を運び込まなくなっていることが考えられる。

 自律神経の交感神経と副交感神経の落差の大きさなのかもしれない。
 なんでも落差が大きいといけないことは先輩である知り合いの男性が急激な高血糖から低血糖になったときの落差により、足に痛みが発生したのを見た経験があるからだ。

 バリ島は毎日晴れの日が続き、交感神経がフル活動するような昼間だった。夜、日本から持ち込んだウイスキーをのんびりと飲んだ。浜辺においしいパスタの店があるので、そこでもくつろいだ。なにか細菌にでも犯されたのだろうか。免疫力低下、老化なのだろうか。ホーメページで検索しても、貨幣上湿疹とは言えないような気もする。

 まあ、病院にいくことか、封じ込める対策を考えているところである。困ったものだ。 

可愛い笑顔の青年の死

2015年06月01日 | 日記
 岡田さんから井上修一が交通事故で死んだことを聞いた。ちょうど僕がバリ島にいる5月25日のことだった。修一は教え子で、彼が高校生の頃はよくテニスにも付き合ってもらった。いつも笑顔が可愛い、人当たりのよい少年だった。修一の母親は僕が高校で教育実習をしていたときの生徒で高校3年生だった。印象によく残る、笑顔とシリアスな表情をいつでもオン、オフ、できる可愛い女性だった。記憶では高校を卒業して間もなく(というのは1年か2年か定かではないが、僕にはまもなく、という感じだった)結婚をした。僕が29歳の時に修一が生まれたのだから、やはりまもなくのはずだ。

 彼が高校を卒業して、ホテルオークラに修業にでた。ほどなく尾鷲に帰ってきて、しばらくしてから彼はキャバクラを開店した。僕は寿司修行のケツを割ったのかと思った。キャバクラは大いに盛り上がったらしく、2店舗、3店舗、新宮の方へと経営を拡大していったらしい。人の噂話にものぼる存在となった。本人と会ったときには、寿司と兼業していると言っていた。

 6年前に偶然にあった時はいっぱしの実業家のような口ぶりをしていた。それ以後何回か電話をもらったことがある。ゆっくり話がしたいということだったが、互いの時間が合わずだった。

 そして昨日の岡田さんからのニュースである。本当であるのかどうかネットで確かめてみた。すると彼は、京都のリッツカールトンの寿司コーナーの「寿司マエストロ」に変身していた。彼のスピーチが大きな会場で行われ、彼は「寿司の可能性」を述べていた。可愛らしさは変わらないがやはり大人になっている。尾鷲の「曙鮨」が実家である。彼は短い人生のどこかで「寿司の可能性」を見出したのだろう。ネットでは「寿司アーティスト」と呼ばれていた。彼の死を悼むコメントが多く寄せられていた。
 ニュースによれば、追い越してきたトラックのミスに巻き込まれたらしい。接触されたのかもしれない。被害者は修一だった。路肩に止めて、トラブルの処理をしていたときに後続のトラックが前方不注意で突っ込んできた。修一は車の中にいた。病院に緊急に運ばれて1時間半で彼の命は終わったということだった。35歳。人生の黄金期。
 なんということだろう。これからがエネルギッシュに寿司を極めていく時期である。
 両親の「曙鮨」で僕の息子が「将太の寿司」という漫画を見て、シャリに爪楊枝を突き刺し、米が崩れずにもち上がったら、本物の寿司職人だということを知って、こっそりとシャリに爪楊枝を突き刺して持ち上げたことがある。息子は驚いていた。寿司は崩れなかったのである。

 修一が帰ってきて、彼の寿司を爪楊枝で刺したことがある。そのときはバラバラとシャリが崩れてしまって大笑いしたことがある。もちろん修一も苦笑いしていた。

 キャバクラを終えて、何が心に起こったのか、僕は知らない。わかるのはスポットライトを浴びて、寿司を語る修一の姿と言葉である。「もしかしたら寿司は世界にまで到達できる食べ物ではないか。」「寿司は五感をくすぐる」というようなことをステージで言っていた。惜しいとしかいいようがない。寿司をデザインの視点からも、触覚という視点からも、あらゆる感覚からとらえなおしてみようという態度。これが彼の命とともに惜しまれる。追悼。
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