25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

ひとつのことを一応終えた

2015年10月11日 | 日記

 ふと思い立ち、高校時代のアルバムの中から幾つと、ロンドン時代の幾つか、グランブルー時代の幾つかの写真をスキャンして、パソコンに保存し、タブレットやスマホに入れた。

  カラーではなく、おそらくは安物のカメラで撮ったものは普通の写真サイズでみると見えないこともないが、タブレットでみるとぼやけている。昔の、さらに昔の白黒テレビの映像がぼやけて見えるのと同じだ。ちょっとがっかりした。 

 今のカメラは正確だし、たいていのことができるから、この世界もパソコンと同じように隔世の感がある。 

  9月の25日から、僕の最初の記憶からロンドンに渡る21歳の後半までを書いておこうと思って書き出した。その作業を今日終えた。 パソコンに保存しているから、熟成はできるし、加筆、訂正、削除もできる。

しかし、その期間のことを、僕の意識の流れで書いていくと、原稿用紙に換算して、たったの135枚である。そして、それを要約してみろと言われたら、「いろいろあった」と七文字でまとめることができる。人が読むに値するものかどうかはわからない。小説と伝記は違う。小説には意識の二層、三層の構造や、自分の内面から噴出する独自の表出がなければならない。

 それは全くの架空の話を設定した方が楽な作業になるのではないかと、つい、今日終えてみて思ったことだった。

文を芸術にまでもっていくことはむずかしい。松尾芭蕉やら、石川啄木やらは見事に自己を織り込めている。小説となると、長くなる分、冗長になるし、指示表出言語も多くなる。

  ありきたりな比喩、最初に浮かぶ例なら誰でも浮かぶものだ。そこからが才能なのだろう。ないと納得できたら、僕の中から文学の毒気が抜かれることになり、すっきりづるのかどうかはわからないが、十年やれば、と思ってやっている。

 


ニュートリノのこと

2015年10月09日 | 日記

  「科学者は地球上に初めて人類が出現した時期は700万年前と考える。それはチンパンジーと共通だったさいごの祖先から僕らが分離してきたことを示すことによる。」(チップウォルター) 

  70万年前から最後の人類である僕らホモサピエンスまで26種類の人類がいて、最後に残ったのが僕らというわけである。  それまでの人類は滅びたのか、混じっていったのか、興味があって、「人類進化 700万年の物語」(青土社)を読んでいる。

  偶然といえ、幸運といえ、原核細胞から始まった初源の生命はいたるところで誕生したと思うが、僕の祖先はその間よくも死なずに次に引き継ぐものを残してくれたものだと思うと、これほど幸運なことはないと思ってしまい、藻類や植物にも感謝したくなってくる。

   今、美味しい秋刀魚は黒潮に乗って北海道の沖までプランクトンを求めて北上し、卵ができるまでまるまると脂肪を貯めて、そこで人間に捕獲される。それを免れたものは紀州沖まで餌も食べず、自分の脂肪をエンルギー源として、海に浮かぶ藻に産卵して短い生涯を終える。わずか1年の命である。

  僕らだって魚だった時期は何億年もあった。他の魚や鳥に食べられることもなく、僕の祖先は生き抜いた。だから僕は今存在する。

 このような偶然に、思慮深い人間たちはひたすら考えたにちがいない。宗教的に考えた人もいた。科学的に考える人もいた。

  宇宙の誕生から、生命体の誕生を考えようとする人たちもいる。

   ニュートリノは質量をもつという。僕らの体を通っているという。生命の誕生は、いわばタンパク質の誕生はニュートリノとも関係しているのか知りたいところだ。ニュートリノの役割を知りたいと思うが、TVではわからない。

 


新余市のこと

2015年10月06日 | 日記

  9月1日に新しい余市ウィスキーがでるということだったが、尾鷲に登場しないので、首を長くして待っていた。10月になっても出回っていないので、ネットで検索してみると、やはりすでに9月1日に発売開始となったようだ。

 感想をいろいろな人が書いているので、読んでみた。すると、どうも評判が悪い。 曰く、「若い」、「アルコールっぽい」「ビート臭がない」、「塩っけがする」などである。ちょっと失望した。 ニッカウヰスキーは「竹鶴」で勝負していくのかな、と思ったりもする。 

 僕はビート臭さがある方を好む。確かに「山崎」「響」のサントリーものもおいしい。サントリーは徹底してビート臭を抜いてある。

ウィスキーは雰囲気のよいバーで飲みたい。尾鷲にはそんなバーがないので、残念ではある。それで、「理想のバー」という小説を130枚ぐらいの文で書いてみた。すべて想像で、僕はその中で十分にいろいろなウィスキーを飲んだ。

 書きながら堪能できた。

葉巻にウィスキー。僕もソフト帽でも被って飲みたいとは思うが、あれは、白人とか、アゴがちょっと出て細長顔に似合うと思うから、僕は恥ずかしくて被れない。ロンドンにいた時はハンチング帽をいつも被っていたが、帰国後にそれも止めてしまった。でも帽子を被りたいという思いはいつもある。あと着物で懐手というのもやってみたいと思うのだが、できない羞恥心がある。面倒な気持ちだ。

  

 


Boyhood, 三つの月

2015年10月05日 | 映画

 アメリカの現代映画「Boyhood」 日本名タイトル 「6才のボクが、大人になるまで」 はよい映画だった。字幕を読んでいるだけで感心した。セリフのうまさが際立っていた。この映画をとるのに、6才の主人公がそのまま18才になるまで俳優の交代なしに撮ったらしい。母役、父役、姉役も。だから12年撮影にかかったわけである。アメリカ社会の現代事情もよくわかった。主人公ももちろん主人公の父も僕より歳下である。だから余計おもしろかった。若者も歳下の父も母も生活のスタイルが違う。個人主義に根ざし、その深化の世界が描かれている。

 これは相当おすすめ映画である。なんてことはない成長物語なんだけど、「優れている」

 子供の顔って、こんな風に変わっていくんだ、と思ったし、僕も中学生のころ、似顔絵を描く美術の時間があって、相手方が描いた僕の顔はだんだんと骨ばってきていて、いつも写真などで見ている小学生のころと人相が違ってきていて、僕は妙に恥ずかしかったことを憶えている。

 セリフがとにかく全部おもしろく、いつも思うのだが、フランスの映画もイギリスの映画にももちろんアメリカの映画にもとにかくセリフがよく練られているということがある。

 原田知世が好きなので、「三つの月」というドラマを見た。北川悦吏子が脚本している。この人のドラマもセリフドラマだ。会話だけで、ドラマが成り立つような脚本である。

 ダメな夫に癌で入院している義母。妻役が原田知世。音楽大学を出て、白川郷に嫁いだ彼女は食堂をやっている。夫は土産物店をしている。土産物店は赤字が続いている。唯一妻の楽しみはコーラスグループのピアノ伴奏をすることだ。近くに高校はないから一人息子は遠いところの高校で下宿生活をしている。そんなある日、校歌を作るためにやってきた作曲家と出会う。彼は実は、曲が作れなくなって逃げるように白川郷にやってきたのだ。しかし原田知世演じる繭と会い、繭に好かれることで、自信を取り戻し、東京に帰っていく。そんな話なのだが、これも優れた脚本だった。谷川章介も好演している。いやらしさがない。原田知世もいやらしさがない。夏目漱石は I love you. という言葉を「月がきれい」と訳したそうだ。初めて知った。「愛してる」という言葉になじまない頃だったのだろう。

 日曜日は「情熱のシーラ」もあるし、テレビ漬けだった。

 


書くということ

2015年10月02日 | 日記

  小説を作っていると、どうしても、文体という問題と比喩に技巧という問題に当面する。比喩が豊かであれば小説も膨らみ、ある面で深化し、イメージも豊かになる。

 文体は作者の視点を決めたり、複数の視点を作ったり、世界視線をも表すようにでもできる。

 これまでは読む側だけにいたので、書く側について、内容やストーリー以外のことはあんまり考えていなかった。

 比喩力で言えば、夏目漱石と村上春樹は群を抜いている。かれらを越える比喩などあるものだろうか、と思う。それは、超人技であって、誰でもできるわけではない。東大にいくより難しい至難の技のように思える。

テレビ番組で、芸能人が作った「俳句」を添削するコーナーがある。見ていると、添削する人の解説と添削して削ったり、加えたり、助詞を替えるだけで、印象が一段とよくなる。それは生け花も同じで、プロがちょっといじると、花や草や枝がなんとも言えず、勢いとバランスと締まりを見せる。

 その道のプロというのはすごいものだ。僕もこれから十年も続ければ、プロになれるだろうか。とりあえず、ひとつひとつ仕上げていくしかない。毎日4、5時間書いているのだが、脳が意外にも疲れるものだ。

 

  


汗がでる

2015年10月01日 | 日記

   夜の12時頃になると体が熱くなってくる。汗がでる。もう秋だというのに、またエアコンを27度でこの夏ずっときたのに、この、2、3日、一時間ほど24度にして寝ている。どういうことかと医者にたずねても、血圧も、血中酸素も正常ですから、と相手にしてくれない。

 僕の代謝に普通ではないことが起きるのだろう。自律神経系なのだろうか。あるいは頸椎からくるものだろうか。よくわからない。

この時期、掛け布団に困る。毎晩、「明暗」を読んでいて、今日ぐらいには終わる。「続明暗」が待っている。困った話の明治の時代の先端的な人間たちのわずか10日間ほどの話である。そして現代の僕から言えば、結婚した妻に、以前好きだった人がいて、振られたんだ、といえばよいだけの話である。それを津田という男が言わないばかりに物事がもめていくのである。

 本を読むときは必ずベートーベンの後期の作品である弦楽四重奏10番から最後の大フーガまでをかける。しばらく本を読んでいると、顔が熱くなってくる。掛け布団を真夏のものにーすると足が冷たく感じられる。「明暗」は夫婦、友人、妹、仕事先の夫人との議論と議論中の心理で成り立っている。見事にいろいろな人間の代弁を漱石はするものだと思う。

  結末は漱石が死んだため、未完となっている。ところが漱石はところどころに、伏線を張っている。延子が死んでしまうのは、現代という時代からみれば違うと思うのだが、水村早苗は「続明暗」で死なせてしまう。

  またほってってくるといけないので、涼しい内に本を閉じ、眠ることにする。