ふと思い立ち、高校時代のアルバムの中から幾つと、ロンドン時代の幾つか、グランブルー時代の幾つかの写真をスキャンして、パソコンに保存し、タブレットやスマホに入れた。
カラーではなく、おそらくは安物のカメラで撮ったものは普通の写真サイズでみると見えないこともないが、タブレットでみるとぼやけている。昔の、さらに昔の白黒テレビの映像がぼやけて見えるのと同じだ。ちょっとがっかりした。
今のカメラは正確だし、たいていのことができるから、この世界もパソコンと同じように隔世の感がある。
9月の25日から、僕の最初の記憶からロンドンに渡る21歳の後半までを書いておこうと思って書き出した。その作業を今日終えた。 パソコンに保存しているから、熟成はできるし、加筆、訂正、削除もできる。
しかし、その期間のことを、僕の意識の流れで書いていくと、原稿用紙に換算して、たったの135枚である。そして、それを要約してみろと言われたら、「いろいろあった」と七文字でまとめることができる。人が読むに値するものかどうかはわからない。小説と伝記は違う。小説には意識の二層、三層の構造や、自分の内面から噴出する独自の表出がなければならない。
それは全くの架空の話を設定した方が楽な作業になるのではないかと、つい、今日終えてみて思ったことだった。
文を芸術にまでもっていくことはむずかしい。松尾芭蕉やら、石川啄木やらは見事に自己を織り込めている。小説となると、長くなる分、冗長になるし、指示表出言語も多くなる。
ありきたりな比喩、最初に浮かぶ例なら誰でも浮かぶものだ。そこからが才能なのだろう。ないと納得できたら、僕の中から文学の毒気が抜かれることになり、すっきりづるのかどうかはわからないが、十年やれば、と思ってやっている。