尾鷲で一日6000歩目標の数値も、東京では軽く3倍は歩くことになる。金曜日雨、千鳥ゲ淵の桜も二分ほど。その夜、寿司を食べたら、鯛の上に桜の蕾を漬けたものが乗っている。ほんのりと桜の香と味が白身の鯛によく合う。これには「ほほう」と思い、昼の桜見物台無しを帳消しにした。それにその付近で「葉巻」を手に入れた。
翌日もそぼ降る雨。谷中に車で出かけた。こちらも全く開花なし。神田神保町で、三省堂と東京書店でのんびりと本を探した。東京書店の本の並べ方に感心し、調べものをするならこの書店だな、と思った。ここでは武田百合子の「雑々日記」がベストセラー第一位である。第二位が村上春樹の「騎士団長殺し」だった。武田百合子のコーナーが設けられていた。ついでに夫武田泰淳の本も置いてある。関連本も当然のごとくおいてある。武田百合子の「富士日記」はよい、よい、と妻が言っていたのを思いだす。
僕は、「人の九割は細菌でできている」という本と「今世界の哲学者が考えていること」を買い、話題の「ホモサピエンス」を読もうかどうか迷ったが、その前によく似たものを読んだので、今度にまわそうと節約した。
また、「バー入門」「ジャズの店」という本を買い、今度の東京行きに備えた。
今回の旅行は両国をぶらぶらするのが主なる目的だった。「相撲取りになるど」を息子分に5冊、娘の夫分に5冊。これを手渡すのも目的だった。実は僕は両国には一度も行ったことがなく、その界隈は全部想像で書いた。隅田川の風情も、おそらく川面を走っているであろう遊覧船も、国技館の背景に浅草のスカイツリーが想像通りにあった。両国を見てから小説を書くのがいいとは思うが、頭の中に浮かんでくるのと、両国へ行くのとどちらが先かと言えば書いて、しまうことのほうが先となる。両国駅の西口に有名な相撲取りの身長が壁に線でひかれている。曙の202センチ、白鵬192センチほどの線。日馬富士の183センチの線。驚いたのは鏡里の173センチで、ぼくと同じであった。
歩道のところどころに有名力士の手形がある。柏戸の手形に自分の手を重ねてみると、ぼくのより指先が3センチほど長い。双葉山のはどうかと手を重ねてみると、案外小さく、ぼくのより1.5センチほど長いという程度である。
相撲力士が巨大化したのもこの手形や身長線でよくわかる。
「伊勢ケ浜部屋のちゃんこ鍋」と銘打った「安美」で待ち合わせ、近況の報告をしあう。息子は今「村上春樹」を特集するというので、その編集で忙しいようだ。娘の夫は38歳、最年少で部長になってしまい、困惑している風だった。しかしながら、彼の性格や人格から言えば、嫌われたたり、ねたまれたりしないような雰囲気だから、案外やっていけるのではないか、と思ったのだった。あまり自己を主張しないタイプである。勤務中、大学院に行き、部長職試験も勧められて勉強し、面接もしたのだった。
息子はすっかり編集者の眼でぼくの小説をペラペラと見るので、こっ恥ずかしかったが、まあ、ええか、とざわざわとした中で、純米吟醸「銀盤」を飲んだ。ちゃんこ鍋の他にサヨリやスズキのカルパッチョや菜の花を卵でとじたものなどがあったので、春をまたここで感じたのだった。
翌日は駒込に電車で行き、六義園と旧古河邸と庭園を散策した。六義園の庭は柳沢柳沢吉保の元庭園で、三菱財閥の岩崎弥太郎が引き継いだ。ここはとても親切に気が利いて、あらゆる樹木に名札があった。これは嬉しかった。樹木名を知りたいと強く思っていたので、今度は事典を一緒にもって来ようと思ったのだった。ここの枝垂れ桜は満開で枝垂れてから横に伸びる枝桜も異様な見事さだった。続いて1kmほどを歩き、旧古河邸に足を運んだ。陸奥宗光の由来の敷地であったが、古河財閥が洋館を建て、洋風の庭を周囲に、外側に日本庭園を配置するというもので、世界の薔薇が邸宅の周囲に名前入りで植えられている。しかも写真付きである。バラの季節にまだ早いがゴールデンウィークあたりは見事な数々の薔薇を堪能することができることだろう。ここももう一度来たいものだと思った。浜離宮にまで行こうと思ったが、こちらにしてよかったのではないかと思ったのだった。草花、低木、高木の配置のしかたなど、ぼくには興味深く、曽根で試してみようかなどと思う始末だった。
戦後のアメリカ進駐軍による財閥解体や貴族の没落、地主の没落で、現在では一個人がこのような大邸宅や大庭園がもてなくなった。区や都に寄贈され、公共の物として管理されている。
駒込は「染井村」のあったところで、「染井吉野桜」の発祥の地でもある。駅前では鼓笛隊が並び、区の人々やボランティアが出て、駒込の桜名所を案内するイベントがなされていた。4月2日。やっと空は晴れて、午後前に早々と両国を車で出発し、帰路についたが、東名の入り口あたりで自己があったらしく東名は通行止めとなった。しかたなく中央道で帰ることにしたが、東名客がここの押し寄せたので、ところどころ渋滞となり、のんびりSAで休憩しながら帰ったのだった。結局、10時間かかったのだった。